第2話 in my room
目を開けると、僕は部屋の中で仰向けになっていた。天井のルームライトが自分の部屋だと告げている。
頭にはまだ鈍い痛み。そうだ。僕はドアに頭を強打したんだった。確かマリリンが隣に引っ越してきたとかで…
不意に僕の視界いっぱいにマリリンの顔が現れた。心配そうな顔で僕を覗き込んでいる。印象的な大きな瞳に僕が写っているのが見える。
「気がつきましたかぁ?」
「あ、えっとと、はい……」
マリリンの顔はその息遣いが僕の顔にかかるほど近い。何でこんなに近いんだろう。そう思った時、後頭部に何かを感じた。クッションの感じではない。クッションより硬く、人肌のように温かいこれは、まさか?
何とマリリンは僕に膝枕をしてくれていたのだ。大好きだった憧れのスーパーアイドルの膝枕。夢でさえ想像もしなかったシチュエーションに全身の血が逆流した。一瞬で顔が火照る。心臓の鼓動が速くなり、血液を頭へと運んでくる。
「まだ大丈夫じゃなさそうですねぇ。顔が赤いですよぉ」
「あ、いや、これは……」
いやいや、顔が赤いのはマリリンのせいだから。でも、それは言えない。口にすると、何だか自分がとてもいやらしい想像をしてるんじゃないかと思われるのが怖かったからだ。
「お熱が出ちゃいましたかね?」
そう言うとマリリンの顔がさらに近づいてきた。柔らかそうなぷるんとしたマリリンの唇。いつも艶やかに煌いているその唇に、僕の視線は釘づけになった。
これはキスなのか?キスをする流れじゃないのか?自問自答する間にも、マリリンの顔はどんどん近づいている。
――ピトッ。
マリリンの色白ですべすべしたおでこが、僕のニキビがあるおでこにくっついた。
キスじゃなかった。がっかりする気持ちが半分。おでこ同士が接してるという喜びが半分。もう僕の気持ちはぐちゃぐちゃだ。
「うーん、お熱は大丈夫みたいですねぇ」
「あっ……」
マリリンのおでこが離れていったので、つい声が漏れてしまった。これはこれで恥ずかしい。ごまかすために、少し咳ばらいをした。
「お熱は大丈夫でしたよ」
にっこりと笑いながら顔を少し左に傾ける。それに合わせてセミロングの髪がさらりと背中で揺れる。多くのファンを魅了してきたマリリンのクセ。それが今は僕だけに向けられている。
今なら死んでも後悔はないかも。そう思えるくらい幸せだ。
「痛みはどうですかぁ?」
「まだちょっと痛いです」
「この辺でですかねぇ?」
マリリンの手が僕のおでこの少し上、生え際の近くに触れる。今、僕は元スーパーアイドルに、まるで犬か猫のように頭を撫でまわされている。至福の時間。
心地よい感覚に包まれているうちに、僕の視界がぐにゃりと歪み、静かに暗転していった。
目を開けると、僕は部屋の中で仰向けになっていた。天井のルームライトが自分の部屋だと告げている。
頭にはまだ鈍い痛み。そうだ。僕はドアに頭を強打したんだった。確かマリリンが隣に引っ越してきたとかで…
あれ、何だ、この感覚は。これがデジャヴってヤツなのか。はじめて味わう不思議な感覚だ。
さっきはマリリンの顔が視界いっぱいに広がった。そうだ、確かマリリンに膝枕をしてもらっていたはずだ。でも、今回は残念ながらマリリンの姿は見えない。頭の下にあるのは使い古した僕のクッションだった。
「そりゃそうだよね……」
残念な思いが口から漏れ出る。おかげで少し冷静になれた気がする。
一体、どこまでが現実で、どこまでが夢だったんだろう。
バイト中に見た、マリリン電撃引退のニュースは?それは現実だ。頭の横に置いてあったスマホを手に取る。まみたそさんとメッセージをやり取りした履歴がスマホにちゃんと残っている。
そのあと、隣にマリリンが引っ越して来たのは?これも現実だろう。頭に手を伸ばし、鈍い痛みを放っている部分に触れてみた。そこにはドアにぶつけた時にできたであろうコブが残っている。でも、本当に本物のマリリンなのか?そっくりさんではないのか?
本物のマリリンが引っ越して来るはずがない。似ている人だと考える方が現実的だろう。その辺は今後、調べなくてはならない。
その後、マリリンに膝枕されていたのは夢だったんだろう。おでこ同士をくっつけたのも夢。まぁ、夢でも十分に幸せなんだけどね。
夢だと思った途端に力が抜けた。もしかしたら、マリリンが僕の部屋にいるかもしれない。その思いが知らないうちに僕を緊張させていたのだ。片付けも満足にできていない男の一人暮らしの部屋。ゴミ屋敷とまではいかないが、それなりに散らかっている。こんな部屋を憧れの人に見せる訳にはいかない。もっとも、今まで、この部屋に足を踏み入れた女性はいないのだけど。
「部屋、片付けなきゃな……」
そう思ってみたものの、すぐに取りかかろうという気にはならなかった。もうマリリンがこの部屋に来ることはないのだから、今さら焦ってもしょうがない。
僕は目を閉じて、もう一度、寝ようと思った。さっきの夢の続きが見られるんじゃないかと期待したのだ。
――バタン、パタパタ。
ドアが開いて誰かが入って来た。僕は目を開けて、ドアの方を確認した。するとそこには洗面器を手にしたマリリンが立っていたのだ。慌てて起き上がろうとする僕をマリリンが優しく制する。
「あ、まだ起きてはダメですよぉ。横になっててください」
マリリンは僕に駆け寄ると頭を支えてくれて、優しく寝かしつけてくれた。頭を抱きかかえられた。そう思うと、まだ一瞬て顔が赤くなる。
それと同時に優しく甘い匂いが僕の鼻腔をくすぐる。これがマリリンの匂い。握手会では感じることができなかったマリリンの匂いなのだ。
僕は目を閉じてマリリンの匂いに集中した。多分、フローラル系の匂い。自信はない。
横になっている僕のおでこに、突然、ひんやりとした物が乗せられた。驚きのあまり、思わず体がビクッと反応する。
「あっ、ごめんなさい。驚かせちゃいましたね。冷やさなきゃいけないと思って、部屋で氷水を作ってきたんですよぉ」
「エッ?僕のためにわざわざ?」
「はい」
「あ、ありがとうございます」
マリリンが僕のために氷水を作ってきてくれた。本当にそんなことがあり得るのだろうか?もしかしたら、どこかのテレビ局のドッキリ企画かもしれない。でも、それなら僕が頭を強打したという事実は?これは台本なんかじゃないことは、僕自身が1番わかっている。
今、僕の部屋にいる彼女は、本当にマリリンなのだろうか?それとも、他人の空似なのだろうか?あまりにも似ているので、もう訳がわからなくなっている。こうなったら直接、聞いてみるしかない。
ブブッ、ブーッ。
僕がマリリンに直撃しようと決意した瞬間、手に持っていたスマホが振動した。まるで測ったようなタイミングだ。
「あ、スマホが鳴りましたねぇ」
スマホの画面を見てみると、まみたそさんからのメッセージが表示されていた。何でこんな時にと文句のひとつでも言いたくなる。
「それじゃあ、私はこれで帰りますねぇ。ゆっくり休んでくださいね」
帰り際も、いつものクセで顔を左に倒してにっこりと微笑んでくれた。
「あ、ありがとうございました」
僕はマリリンの背中を見送りながら、少し切なくなってしまった。マリリンが部屋から出ていく。もう次はないかもしれない。そう思うと、彼女が本物のマリリンだろうが、他人の空似だろうが関係ない。もっと一緒にいたいと強く思うのだった。
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