第7話 不審な影
翌日。近所を案内すると約束した日。予想通り、僕は一睡もすることができなかった。昨晩、彼女からされたこと。そして今日、彼女と出かけること。それを考えるだけで、全身の血液が沸騰したように体が熱くなり、心拍数が急上昇。とても安眠できる状態ではなかったのだ。
眠ろうと努力はした。羊は328匹まで数えたし、手のひらには今まで親しくなった以上の数の人の字を書いた。それでも僕の心は安静を取り戻すことはなかったのだ。そりゃ、そうだ。憧れのアイドルから下の名前で呼ぶように言われ、あーんまでしてもらった。その上、今日は近所とはいえ2人きりでのお出かけだ。冷静でいられるはずはない。
僕は頭の中で今日の案内を失敗しないよう入念にシミュレーションを繰り返した。おそらく、そこらのスーパーコンピューターにも負けないくらいに入念に、そして完璧な成果をはじき出した。
僕の作戦はこうだ。狙い目は夕方から夜にかけて。真夏の日中は人出も少なく狙い目のような気がする。しかし、そこには落とし穴がある。人が少ないので目立つということだ。しかも、その時間帯はワイドショー好きのマダムたちの時間帯。彼女たちは某有名SNSの顔認証よりも正確に有名人を見つけ出し、メッセージアプリよりも素早く情報を拡散する能力を持っている。彼女たちは今回のミッションで最大の脅威となるだろう。
夕方以降はマダムとの遭遇率は格段に下がる。逆に仕事帰りの人が増えるが、昨日、マリリンがベランダから僕を呼んでも無反応だった。過酷な仕事に疲れ果て、顔を上げる余力もなかったのだろう。しかも、暗くなれば宵闇で顔を隠すことができる。作戦決行は日が暮れはじめる夕方以降。これが僕のはじき出した完璧なシミュレーション結果だった。
僕は今日の計画を告げるべく、マリリンの部屋に向かった。時間は10時過ぎ。もう彼女も起きている頃だろう。彼女の部屋の前で、ひと呼吸おく。他の部屋から誰か出てくる気配がないかを確認してから、彼女の部屋のドアホンを押す。これは数日前から彼女の部屋を訪れる時のルーティーンになっていた。
――ピンポーン、ピンポーン。
「はぁい」
扉の向こうからマリリンの可愛い声が聞こえた。少しだけドアを開けて、僕の姿を確認するとパッと笑顔の花が咲く。
「おはようございます、慎吾さん。今、開けますね」
「おはようございます、ま、真凛」
まだ呼び慣れていない僕は、つい言いよどんでしまう。するとマリリンは可笑しそうに笑ってこう言った。
「『ま、真凛』って言ってたら、マリリンはって呼ぶのと変わらないじゃないですかぁ」
少し拗ねたように頬を膨らませる彼女。全然、怒っていないのだけど、そんな仕草を見せてくる。でも、そんな姿も可愛らしくて、たまらなく愛おしい。
「案内してくれるんですか?」
「あ、いや、まだこの時間だと危険だと思うんですよね」
「危険?」
彼女は不思議そうに首をひねった。本当に元スーパーアイドルという自覚がないのかもしれない。僕は昨晩、寝ないで考えた作戦を彼女に伝えた。
「なるほど、夕方ですか……」
「ダメですか?」
「いいですよ、じゃあ、それまで部屋でお話でもしますかぁ?」
さらっと彼女はとんでもないことを言った。そのお誘いには、是非、乗りたいのだけど、僕にはまだやることがあった。
「ごめんなさい、ちょっとこれから用事があるんです」
「エエーッ、そうなんですかぁ?」
また彼女は口を尖らせる。はい、可愛い。もう可愛い。でも、きっと彼女はそんな自覚すらなくやっているから怖い。
「真凛のお出かけのために、変装道具を買ってくんですよ」
「変装道具?つけ髭とかメガネですか?」
彼女はパーティーグッズのあれを想像したようだ。あんなのを着けていたら逆に目立ってしまう。でも、天然の彼女のことだ。それには気づいていないだろう。僕は思わず吹き出してしまった。
「もっとちゃんとしたやつを買ってきます。伊達メガネと帽子とかですかね」
「髭はナシですか?」
人差し指と中指で鼻の下を押さえる彼女。まるで『カトちゃんぺ』みたいになっている。僕はたまらずに笑い声をあげた。
「本気で言ってるんですか?」
「もちろんです。何か変ですか?」
「いや、全部変ですよ」
「そうですかね??」
無邪気に首をひねる彼女を、僕はたまらなく愛おしいと思った。
「じゃあ、行ってきますね」
「はぁい、よろしくお願いします。行ってらっしゃい」
彼女は笑顔で僕に手を振り、送り出してくれた。
とりあえずは、駅前の方に向かうつもりだった。マンションを出ると、電柱の陰に何やら怪しげな風貌の男が立っていた。年齢的には30代より上。髪は短めでメガネをかけている。そんな感じの男が電柱の陰からマンションを見上げていたのだ。
とっさに僕の頭をよぎったのは週刊誌の記者だということ。しかし、それにしてはカメラらしきものは持っていない。僕は男の方へと近づいて、思い切って声をかけてみた。
「あの、何かこのマンションにご用ですか?」
マンションの方に集中し過ぎていたのか、男は僕の声に飛び上がらんばかりに驚いた。メガネの向こうの目を大きく見開いてこちらを見ている。
「い、いや、別に……」
男はそう言い残すと足早に駅とは反対の方向へと走り去って行った。
「何なんだ、一体……」
記者でなければ、熱狂的なファンかもしれない。それとも、本当にマリリンとは無関係なのだろうか?晴れない疑問が僕の胸の中に広がって行った。
駅までの道のりも、僕の頭の中はさっきの男のことでいっぱいだった。つい最悪なことを考えてしまうのは僕の悪いクセ。マリリンのことが雑誌にバレて、僕との関係の白日の下に晒される。そんな想像をしてしまった。
また別の想像では、熱狂的なファンが押しかけてきてマリリンが危険に晒される。僕はその中の暴徒化しファンに刺されるという想像。そんなことばかり考えていた。
「本当に今日、お出かけしても大丈夫なのだろうか?」
僕が寝ずに考えた結果、最大の敵はワイドショー好きのマダムということだったが、それは早くも崩れ去ってしまった。正体不明の男の存在。それは未知の恐怖との戦いのはじまりでもあった。
僕の住む町の駅はそれほど大きな駅ではない。大きなターミナル駅へと伸びる私鉄が沿線開発の一環で拓いた住宅街。特急こそ止まらないものの急行は停車するそこそこ栄えている駅だった。
駅ビルも最近、リニューアルしたばかりで、真新しいテナントが入り、平日でもそこそこ賑わいを見せている。
僕はまず駅ビルの3階に新しくできたメガネ屋さんをのぞいて見た。最近のメガネは、ずいぶん値下がりをしている。そのため伊達メガネをオシャレとして気軽にかけることができるようになった。
僕はマリリンに似合いそうなメガネのフレームを物色して歩いた。太めのフレームの赤いメガネ。知的に見えそうなツーポイントのメタルフレーム。実際、彼女と一緒に来て、フィッティングしてみればいいのだろうけど、それは許されない。だから、僕は乏しい想像力で懸命にイメージして、ようやく1本のフレームに決めた。それは細いメタルフレームでできた大きめの丸メガネだった。お値段はフレームのみで8500円。僕にとっては手痛い出費だが、これもマリリンのためだと思えば何ということはない。
次は1つ下のフロアに降りて帽子を探す。女性はハットタイプでも可愛らしいけど、今回はキャップタイプを探そうと思っている。マリリンのイメージが可愛らしい女性のイメージだからボーイッシュなキャップタイプこそ変装にふさわしいと思ったのだ。
とはいえ、女性のファッションで溢れかえるフロアを男1人で歩くのは気疲れする。店員さんに変な目で見られているんじゃないかとビクビクしながらお店を見て回った。この時、僕は彼女用のプレゼントを選んでいるんだと強く自分に言い聞かせながら歩いた。そして3軒目のお店でようやくイメージしていたような、ツバが大きくて目深にかぶれるキャップを見つけた。こちらは後ろの部分が結んだリボンになっていてオシャレ度が高めなので6300円。総額で14800円の出費。多分、僕ならシューズも含めてトータルコーディネートできるくらいの出費になってしまった。
買い物を終えた僕は足早にマンションへと戻った。まだ夕方までには十分に時間がある。それでも、さっき見かけた男のことが心配で無意識のうちに早歩きになっていたのだ。
マンションに着くと、真っ先に彼女の部屋へと向かった。いつもなら冷静に辺りを気にしてからドアホンを鳴らすのだけど、今回は気にせずにボタンを押した。
――ピンポーン、ピンポーン。
「はぁい」
ドアが少しだけ開いて、さっきと変わらないマリリンの笑顔が出迎えてくれた。その瞬間、安堵感が広がり同時に大きな疲労が僕に襲いかかって来た。
「おかえりなさい、慎吾さん。早かったですねぇ」
「ただいま、真凛。これ買って来たアイテムです」
そう言って、僕は包み紙を彼女に手渡した。
「わぁ、ありがとうございます。開けてみてもいいですか?」
「もちろんです」
彼女は子供のように無邪気に喜びながら包みを開けた。そしてまだ値札がついたままのメガネをかけて僕に微笑んでくれた。
「どうですかね?似合いますかぁ?」
細めのメタルフレームの丸メガネ。これが似合うのは彼女しかいないと思わせるほど見事に似合っていた。元々、ふんわりとした印象の彼女をよりふわっと不思議な感じに変えてくれている。
「あ、この帽子。すごく可愛いですね」
次に彼女は帽子もかぶって見せてくれた。
「こんな感じですかね?」
「うん、すごく似合ってますよ」
大きめのツバで彼女の小さな顔は見事に隠されている。丸メガネの印象も強めなので意識がそっちに集中して顔の印象が残らない。僕のイメージした通り、完璧な変装だった。
「じゃあ、これで夕方になったらお出かけですね」
「はい、17時過ぎに声をかけますね」
「そんなに遅くですか?じゃあ、早めに夕飯の支度をしなきゃですね」
「今日は気にしなくてもいいですよ」
「ダメです。慎吾さんには、毎日、食事を作ってあげたいんです」
変装したまま、おどけたように笑う彼女。スーパーアイドルのマリリンとしての印象はかなり薄れているけれど可愛いことに変わりはない。これでは、逆に目立ってしまうかもしれない。そんな心配がこみ上げてくる。
「じゃあ、お出かけ楽しみにしてますね」
「わかりました。それじゃあ、あとで迎えに来ます」
「ふふふ、お待ちしてます」
彼女は笑顔を浮かべたまま、ドアを閉めた。結局、謎の男のことは彼女には言えなかった。まだ何もわからないのに、心配させたくない。そんな一心からだった。僕は17時までの間に、部屋に戻ってもう一回入念に作戦を練りなおそうと思った。
お出かけまで、あと6時間ちょっと。僕は昼ごはんを食べるのも忘れて、計画を練りなおした。
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