第12話 彼女の願い

 マリリンが元気になるまで丸3日かかってしまった。身を隠している有名人というものは不便なもので病気になったからといって医者にかかる訳にはいかないらしい。彼女も医者にかかることは頑として拒否し続けた。その姿はまるで逃亡中の犯罪者のようでもあった。

 だから僕は彼女のために市販薬とスポーツドリンクを常備してあげた。そしてバイトに行く前と帰った後にオジヤを作って彼女に食べさせた。その甲斐あってか、少しずつ彼女は元気を取り戻していった。


 その間、世の中は目まぐるしく変化した。彼女の居場所として投稿されたマンションは、優秀な画像解析チームの働きによって住所が特定され、突撃班の取材によってマリリンが住んでいないガセ情報だと認定されたのだ。

 しかし、ネット上には雨後の筍のように次々とマリリンが住んでいるかもしれないといった情報が寄せられた。きっと画像解析チームは大忙しだろう。東京23区内を中心に様々な場所のマンションの写真がアップされ、特定されていった。一度だけ、同じ最寄駅のマンションがアップされた時は、少しヒヤヒヤしたけど、駅を挟んで反対側のことなので大きな問題にはならなかった。


 何も知らないマリリンファンは情報に踊らされて一喜一憂し、すでに疲労困憊といった状況だ。一部のファンからは、マリリンの存在そのものが幻だったのではないかという話も漏れてきている。僕もマリリンが隣に住んでいるという事実を知らなかったら、こんなに落ち着いていられなかっただろう。


 朝、起きてからマリリンお世話をし、バイトに行って、帰ってからまた彼女の世話をする。自然と彼女の部屋に入れるようになった自分に驚く。忙しいけれど幸せな時間。何より、少しずつでもマリリンが元気になっているのを実感できるのが嬉しかった。


「おはようございます、真凛」

「おはようございます」

「具合はどうですか?」

「うーん、もう大丈夫です」

「じゃあ、体温計を見せてください。38度3分、まだダメですね」

「エーッ、体温計が壊れてるんじゃないですか?」

「はいはい、今日もゆっくり寝ててくださいね」

「退屈なんですよ……」

「ダメです。またオジヤを作っておきましたから、ちゃんと食べてくださいね」

「はーーーい」


 そんなやり取りが3日、続いた。

 3日目、ようやく平熱に落ち着いた時、彼女は飛び上がって喜んだ。余程、寝たきり生活がツラかったのだろう。


「やったぁ、これでお出かけできますね」

「まぁ、そうですけど……まだ無理しちゃダメですよ」

「うふふ、慎吾さんって、おばあちゃんみたい」

「お、おばあちゃんですか?」

「はい、私のおばあちゃんです。いつも私のことを心配してくれていて、口癖が『無理しちゃダメ』だったんですよ」

「そうだったんですね。優しいおばあちゃんですね」

「はい。私はおばあちゃんが大好きでした。アイドルになってテレビに出た時も、一番、喜んでくれたのは、おばあちゃんでした」

「素敵なおばあちゃんですね」

「はい……でも、今年のはじめになくなりました」

「エッ……そ、そうだったんですね……」

「ショックでした。心の支えを失ったような気がしましたね」

「はい……」


 僕は何も言うことができなかった。悲しげに視線を落とすマリリン。何か声をかけてあげなければと思えば思うほどに気持ちが焦りうまく言葉が出てこない。じゃあ、優しく抱きしめるとかできればいいのだけど、そんな行動力は僕に備わっていなかった。

 重苦しい沈黙が流れる。彼女のベッドの枕元に置いてある目覚まし時計の秒針が時を刻む音がうるさいくらいに部屋に響く。


「暗い話になっちゃいましたね。すみません」


 沈黙を破ったのは彼女だった。


「おばあちゃんは、幸せだったと思います。私のコンサートにも来ることができたんです。真ん中で踊る私を最前列で見てくれました」

「ま、真凛はデビューしてからずっと頑張っていたから……」

「ありがとうございます」


 もしかしたら、マリリンが引退した原因はおばあちゃんなのかもしれないと思った。大好きなおばあちゃんに頑張っている姿を見せたくて突っ走ってきたマリリン。それがおばあちゃんが亡くなったことでプッツリと切れてしまった。よく聞く話ではないか。


「暗い話はここまでです。で、次、お出かけはどこに行きますか?」

「お、お出かけですか?」

「はい。寝込んでいる間、ずっと、お出かけしたいと思っていたんです」

「でも、今はちょっと……」

「エーッ、どうしてですか?」


 僕は彼女に今の状況を伝えた。日本中の人がマリリンの居所と称し嘘の情報をネットに晒しまくっていると言う異常事態。もし今、迂闊に外出してマリリンのことがバレてしまったどうなることやら。想像しただけでも恐ろしい。

 でも、それで引き下がるマリリンではなかった。


「ちゃんと変装して、バレなければ大丈夫ですよ」


 自信満々に笑う彼女。しかし、その自信に根拠はないはずだ。


「とにかく、今は危険です。もう少し我慢してください」

「エーッ、慎吾さんが一緒に行ってくれないなら、1人で行きます」

「そ、それはもっと危険です」

「じゃあ、一緒に来てくださいよぉ」


 僕の完敗だ。彼女1人で出かけさせるより、僕と一緒の方がまだ少しはいいと思う。いざとなればこの辺の抜け道だって知っている。最悪、僕が犠牲になって彼女を逃せばいい。もちろん、そうならないように最新の注意を払い、入念に計画を立てるつもりだ。


「わかりました。じゃあ、明日、バイトが終わったら、また近所を案内しますよ」

「やったぁ、ありがとうございます」


 部屋の中を飛び回って喜ぶ彼女。無邪気で可愛らしい彼女を見つめながら、僕は胸の中の不安を必死に押し殺そうとしていた。


 翌日、バイトが終わるまでの間、僕の頭はフル回転していた。マリリンを連れ出す場所の選定とそのルート。簡単なようで、なかなか難しい。結局、バイトが終わるまでには、これと言う行き先を決められなかった。


「あぁ、困ったなぁ……」


 帰り道、弱気な言葉が口をつく。

 バイトからの帰り道は、駅から離れる方向に歩くことになる。この時間は家路を急ぐ仕事帰りの人が多い。ただ駅から少し離れたところにあるバスターミナルを過ぎると、歩く人の数は激減する。この辺はベッドタウンとして再開発された街。駅から少し離れたところには、大規模に宅地開発された住宅街がある。そこの住人たちは、ほとんどの人がバスを使うのだ。


 人が少なくなり、僕の不安はますます増していく。彼女が安全で楽しめる場所はこの近くにあるのだろうか?その時、前を歩く女性のカバンにぶら下がったお守りが目に入った。そうだ、あそこなら彼女も喜んでくれるかもしれない。僕はようやく正解を見つけることができたような気がした。


「わぁ、素敵なところですね。こんな所が近くにあったんですね」


 それほど大きくない境内に彼女の嬉しそうな声が響いた。この前、マリリンと一緒に休憩した公園。ここはその公園の少し先にある小さな神社。お祭りの日でもない限り、この時間に神社を訪れる人影はない。


「私、神社とかお寺とか大好きなんですよ」

「そうなんですか?」

「はい。ツアーとかで色々なところに行きましたけど、空いた時間には近くの神社やお寺めぐりをしてました」

「そうだったんですね」

「宮島の厳島神社とか京都の東寺とかはかなりお気に入りです」


 良かった。マリリンはかなり喜んでくれている。これは演技なんかではない。神社をチョイスして本当に良かった。それにしても、マリリンが神社やお寺が好きだったなんて知らなかった。彼女の意外な一面を知ることができたので、僕も満足だ。


「ねぇ、慎吾さん。お参りしましょう」


 狭い境内を目まぐるしく動き回り、あちこちをチェックしていた彼女が声をかけてきた。


「お参りですか?」

「はい、せっかく神社に来たんですから、一緒にお参りをしましょう」

「いいですよ」

「やったぁ」


 マリリンは小さく手を叩いて喜んだ。


 本殿の正面、賽銭箱の前に垂れ下がっている太い綱。長年、風雨にさらされているせいか、毛羽立っていて手触りは良くない。この綱を前後左右に大きく振れば上についている鈴が鳴る。小さい頃は、どれだけ力を入れて振っても鈴が鳴らなかったので、あまり好きではなかった。


「慎吾さん、一緒に鳴らしましょう」

「エッ、あ、はい。じゃあ……」


 綱を掴んでいるマリリンの手の下。僕はそこに手を添えた。少しだけ彼女の手に触れたのでドキッとした。


「じゃあ、いきますよ」

「はい」


 ガラン、ゴロン、ガラン、ゴロン。


 こんな時間に呼び出されて、神様も迷惑だろうなと思う。完全に時間外労働だ。だから、せめてお賽銭には残業代を足してあげようと思う。


「2礼2拍手1礼ですよ」


 マリリンが参拝の手順を説明してくれた。


 ーー2礼。


 ーー2拍手。


 ーー1礼。


 別に2人でタイミングを合わせた訳ではないのだけれど、2人の動きがシンクロして重なった。もしかしたら、マリリンの方で合わせてくれたのかもしれない。

 にわかに厳かな気持ちになり、身が引き締まる。僕と彼女は神様の前で手を合わせて、願いを申し伝えた。


 僕の願い。それは、いつまでもマリリンと一緒のこの生活が続きますようにということ。毎日、彼女の手料理が食べられますように。毎日、彼女の笑顔が見られますように。毎日、彼女の声が聞けますように。マリリンが毎日幸せでありますように。それから――


 何かの気配を感じて、不意に目を開けた。すると、そこには横から僕の顔を覗き込んでいるマリリンの顔があった。


「わ、わぁ、な、何ですか?」

「うふふ、熱心にお願いしてるなぁと思って」

「ま、真凛こそ早くないですか?もう終わったんですか?」

「はい。慎吾さんは何をお願いしてたんですか?」

「エッ、それを聞くんですか?」

「教えてください」

「い、いや、ダメです。教えたら、真凛も教えてくれますか?」

「私のお願いは秘密です」

「エーッ、それはずるいですよ」

「うふふ」


 結局、僕の願いは途中になってしまった。でも、大切なところはちゃんとお願いできたので問題はない。10円のお賽銭で欲張り過ぎだなと少し反省をした。


「ここって、何の神社なんですかね?」

「何って、多分、稲荷神社ですかね」

「あ、いや、そうじゃなくてご利益とかです。商売繁昌とか家内安全とか」

「あぁ、そこまで気にしたことはなかったですね。近くに住んでいても、お祭りの時くらいしか来ないので……」

「お祭りがあるんですか?」

「ありますよ。毎年8月の終わり頃に。もうすぐですね」

「お祭り、いいなぁ。一緒に行きましょう」

「エッ、あぁ、はい」


 僕は曖昧な返事をした。小さな神社のお祭りとはいえ、毎年、かなりの人が押し寄せる。さすがにマリリンであることを隠し切るのは難しいだろう。夜なのでキャップ姿というのも無理がある。

 もしお祭りでマリリンであることがバレたらパニックになるだろう。想像しただけでも恐ろしい。それでも心のどこかで、彼女と一緒にお祭りに参加してみたいという思いもある。


「あーっ、ねぇ、見てください。この神社のご利益がわかりましたよ」


 気がつくとマリリンは絵馬が納められている場所に移動していた。


「慎吾さん、見てください」

「あ、はい……」


 僕は彼女に促されるままに近づいていくと絵馬を覗き込んだ。


「ここの神社、恋愛成就なんですね」

「そ、そうみたいですね」


 沢山の絵馬が吊るされていた。そのどれもに恋人たちの切なる願いが記されている。『いつまでも』『永遠に』『ずっと』恋人たちの願いは時代が変わっても変わることはない。

 一体、この中のどれくらいが絵馬に記した思いが成就したのだろうか。願わくば、多くの恋人たちが今でも幸せであって欲しいと思わずにはいられない。


「慎吾さん、私たちも書きませんか?絵馬!」

「エェッ!」


 突然のマリリンの提案に僕は驚いた。彼女はどういうつもりで言っているのだろう?僕と彼女の恋愛成就?それとも、それぞれが絵馬を書いて恋愛についての願い書く?彼女の真意が測れない。


「ダメですかぁ?」

「い、いや、ダメじゃないですけど……もう絵馬を売ってる窓口は閉まってますよ」

「あーっ、本当ですねぇ。残念……」


 我ながら上手い言い訳ができたと思う。


「でも、あそこ。まだ社務所には人がいるみたいですよ。ちょっと、聞いてみますね」


 マリリンは意外と行動力がある。お出かけで嬉しいというのもあるのかもしれないが、とてもアクティブだ。


「すみません、絵馬を買いたいのですが……」

「ちょ、ちょっと、真凛」


 完全に油断していた。だから、彼女が社務所の人から絵馬を買う時にマリリンだとバレるのではないかと思ってヒヤヒヤした。でも、社務所の人は思っていたよりずっと高齢でマリリンだと気づいた様子はない。


「買っちゃいましたぁ」


 両手で絵馬を持って、勝ち誇ったようにおどける彼女。絵馬の後ろから、ひょこっと覗かせた顔が可愛い。


 絵馬は1枚だけ。じゃあ、やはり一緒に書くということだ。と言うことは、彼女は僕との恋愛が成就することを願っているのだろうか?僕と彼女の関係は恋人同士ということになるのだろうか?

 様々な疑問が頭に浮かんでは消えていく。ただ思考はほとんど停止状態なので浮かんだ疑問を解決する能力はない。


「何て書きますか?」

「エッ、えーと……難しいですね。『真凛が健康でありますように』とか?」

「うふふ、恋愛成就の神社ですよ」

「あ、そっか……じゃあ、『大好きな人といつまでも一緒に入られますように』とか?」

「大好きな人?」


 そう言って、彼女は僕の顔を覗き込んでくる。目を合わせたら本心が読み取られそうな気がしたので、思わず目を伏せてしまった。


「うふふ。じゃあ、そうしましょう」


 彼女は迷いなく絵馬に文字を記した。しっかりとバランスのとれた美しい文字だった。そして文字の下に今日の日付と『真凛・慎吾』と書いた。2人の名前の間を隔てるのは、小さくて可愛らしいハートマークだ。


「できましたぁ」


 絵馬を掲げて嬉しそうに声を上げる彼女。僕は彼女のそんな姿が眩しくて、可愛くて直視することができない。彼女は絵馬を真ん中の一番上にかけた。そして手を合わせて短く願いを込めていた。


「願い、叶うといいですねぇ」

「そ、そうですね」


 僕と真凛は手を繋いで神社の鳥居をくぐると、家路に着いたのだった。

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