第8話 ドキドキのお出かけ

 夏の日の夕方。夏至を過ぎると日ごとに日が落ちるのが早くなっていく。日中はまだまだ暑さが厳しいが、夕方になりヒグラシの声が聞こえてくると気温も下がり幾分か過ごしやすくなる。僕がマリリンを連れ出すのにこの時間を選んだのも、少しでも涼しい時間帯を狙ったという意図もある。


 僕はTシャツにGパンというラフな格好で鏡の前に立っていた。オシャレにあまりお金をかけない派の僕にとって、勝負服というものは存在しない。比較的きれい目のTシャツを選ぶことくらいしかできなかった。


「こんなもんかな?」


 選択肢がないので、自ずと答えも決まっている。ただ少し自嘲気味に口をついて出たのは、もっとオシャレに気遣っておけばよかったという後悔があったからなのかもしれない。憧れの女性との初めてのお出かけなのに、僕は普段とそんなに変わらない格好をしている。自分で自分が情けなくなってしまう。


「そうだ、まゆたそさんなら何て言うだろう?」


 僕はファッションについて若い女性のアドバイスを求めることにした。


〉こんにちは。今、ちょっと大丈夫ですか?


 グループではなく、個人宛にメッセージを送った。するとすぐに「既読」の表示が出て返信が届いた。


》大丈夫でありますよ。

〉実は今日、ちょっとこれから女性とお出かけするんですけど、ファッションについてお聞きしたいんです。

》おぉ、デートでありますか?

〉いや、デートっていうか……少し近所を散歩するくらいです。

》なるほど、それで最近、グループに顔を出さなかったでありますね。

〉違いますよ。本当に忙しかったんです。

》いいでありますよ。気にすることはないであります。


 まゆたそさんはスマホの向こう側で笑っているような気がした。


〉僕はオシャレな服とか持っていないんですよね……

》どんな格好で行くつもりでありますか?

〉TシャツにGパンです。

》悪くないでありますよ。

〉本当ですか?

》近所を散歩する程度のはじめてのデートにスーツで来られる方が引くであります。

〉た、確かに……

》世の中、何事にもTPOというものがあるであります。今回ならラフな格好で行っても変だはないでありますよ。

〉あ、ありがとうございます、まゆたそさん。

》礼にはおよばないでありますよ。その代わり、きちんと報告をするであります。

〉エエッ!

》あはは、冗談であります。じゃあ、健闘を祈っているであります。

〉ありがとうございます。


 まゆたそさんは、「頑張れ!」とネコがチアリーダーの格好をしているスタンプを送ってきた。僕は「ぺこり」とイヌが頭を下げているスタンプで返信した。これでメッセージのやり取りは終了だ。

 時計を確認すると17時前。ちょうどいい時間だ。財布をポケットに入れ、スマホを手にして、僕は部屋を出た。


 マリリンの部屋の前。いつもよりも入念に辺りを確認した。誰かが部屋から出てくる気配はない。階段の踊り場から下の道路もチェックをした。さっき怪しげな男がいた電柱の陰には人の姿はない。やはり、気のせいだったのだろうか?

 チェックを終えた僕は少し緊張してマリリンの部屋のドアホンを鳴らした。


 ――ピンポーン、ピンポーン。


「はぁい、今、開けますね」


 あらかじめ約束していたせいか、彼女はガチャガチャとドアチェーンを外してドアを大きく開けてくれた。

 マリリンは、僕が用意した丸メガネをかけていた。めちゃめちゃ似合っていて可愛らしい。小さな顔に大きめのメガネのフレームがアンバランスですごくいい感じだ。頭にはキャップをかぶっている。セミロングの髪をアップにしてキャップにしまっているので、別人のような印象になっていた。服装はTシャツにデニムのショートパンツ。活発な元気女子のイメージに仕上がっている。Tシャツの裾を結んでいるせいでおヘソがチラチラ見えるのがなんとも刺激的だ。


「似合いますかね?」

「も、もちろん、完璧です」

「本当ですかぁ?」

「はい、読者モデルみたいです」

「そうじゃなくて、慎吾さん的にはどうなですか?」


 僕的にとはどういうことだろう?答えに窮していると、彼女が続けて口を開いた。


「慎吾さん好みの女子に仕上がっていますか?」

「エッ?」


 彼女は自分が口にした台詞で頬が赤くなっている。僕も瞬時にその言葉の意味を理解して俯いてしまった。


「さ、最高です。完璧です」


 我ながら言葉のボキャブラリーの少なさがイヤになる。理想通りの彼女を褒め称えるのに、ありきたりの言葉しか出て来ない。きっと、小学校の頃から本を読まなかったツケだろう。もし、過去に戻れるなら、もっと図書館で本を読むようにアドバイスをしたい。せめて、こんな時に気の利いた台詞を言えるくらいにはなっておきたいと思う。


「ありがとうございます。嬉しいです」


 彼女は嬉しそうに微笑みながら、それでもちょっと照れ臭そうに肩をすくめて立っていた。その仕草が可愛すぎて、ドア越しでなければ抱きしめていたかもしれない。危ないところだった。


「準備は大丈夫ですか?」

「はい、バッチリです」


 僕は自分の理性が残っているうちに話を進めた。彼女は準備オッケーの印に手でオッケーマークを作って笑っている。やばい、理性が……


「じゃあ、行きましょうか?」

「はい」


 彼女はスルリと廊下に出てくると鍵をかけた。そして何の抵抗もなく僕の手を握ってきた。僕は驚きのあまり腕を引いてしまった。


「わ、わぁ!」

「慎吾さん、どうしたんですか?」

「い、いや、真凛が手を握ってきたのでビックリして……」

「ダメですかぁ?」

「い、いや、ダメじゃないです」

「良かったです」


 そういうと、彼女は嬉しそうに微笑みながら僕の手を握ってきた。お互いの手の指の間に自分の指を入れる握り方。これは恋人握りというヤツではないだろうか?やっぱりマリリンは、僕のことを彼氏としてみているのではないか?じゃあ、これはもうデートということになるのではないか?思考が妄想を呼び暴走してオーバーヒート直前だ。

 完全に機能停止している僕をみかねたように彼女がグイッと手を引いてきた。


「さぁ、行きましょう」

「エッ、あ、はい」


 僕は何とか自我を取り戻して彼女に手を引かれて歩きはじめた。


 マンションを出ると、傾きかけた夏の夕日が優しく僕たちを照らしてくれた。もう日中に生命の危険を感じさせたような暑さはない。


「どっちに行くんですか?」

「こっちに行くと駅の方に行くんですけど、人が多いので今日はこっちに行きます。

「こっちには何があるんですか?」

「こっちは、コンビニとかコインランドリーとか銭湯もあります」

「エエッ、銭湯も?行ってみたいですねぇ」

「銭湯なんか行ったら、マリリンだってバレちゃいますよ」

「そんなに簡単にバレないですよぉ」

「バレますって……」

「一緒に銭湯に行って、あれをしてみたいですね」

「あれですか?」

「そうそう、銭湯の前で待ち合わせる『目黒川』です」

「あ、あぁ『神田川』ですね」

「あれ、間違えちゃいましたぁ」


 間違って笑う彼女も可愛い。これは僕のボキャブラリーが貧困なせいではない。可愛いものは可愛いのだ。それ以外に表現しようがない。

 そんなバカバカしい話をしながら歩く僕たちは、周りから見たら立派なバカップルだろう。ただバカップルも悪くない。側から見ていると不愉快でしかなかったが、当事者になってみるとこんなにも楽しい。世の中からバカップルがいなくならない理由がわかった気がした。


 5分ほど歩くとコンビニが見えてきた。途中はマンションなどの住宅街が続くが、車通りも人通りも少なくない。そんな状況でも、誰も彼女がマリリンだと気づく人はいなかった。


「ここがコンビニなんですね」

「そうですね。うちから一番近いコンビニです」

「なるほど」

「道路を挟んで向かいには銭湯とコインランドリーがあります」

「おぉ、ここで『神田川』をするんですね」

「いやぁ、コンビニがあるから、コンビニで待つんじゃないですかね」

「エエッ、そんな味気ない……」


 マリリンは口を尖らせて抗議したが、それが現実というものだ。実際、コンビニで買い物をしながら待っているカップルを見かけたことがある。


「コンビニで何か買い物をしてもいいですか?」

「エエッ、バレないですかね?」

「慎吾さんが手を繋いでいてくれたら大丈夫ですよ」


 いたずらっぽく笑う彼女だけど、その言葉に根拠がないことはバレバレだ。僕たちは手を繋いだままでコンビニの中に入って行った。


「ドリンクを買いましょう」

「そ、そうですね……」

「慎吾さん、何を飲みますか?」

「えっと……」


 コンビニの中には数人のお客さんがいた。それぞれ自分の買い物に集中しているので他人を気にしている様子はない。まさかここにスーパーアイドルのマリリンがいるとは思ってもいないだろう。

 それでも僕は周囲が気になってしょうがない。とてもじゃないけど冷静に飲み物を選んでいる余裕はなかった。


「慎吾さん、アルコールにしますか?」

「エッ、あ、いや、アルコールはやめときます」


 お酒は人並みには飲める。酔っても大きく乱れることはない。それでもマリリンの前でそれを保つことができる自信はなかった。


「私はお茶にしますね」

「じゃあ、俺はコーラにします」

「お菓子とかは大丈夫ですか?」

「あ、はい、大丈夫です」

「じゃあ、お会計ですね」


 レジは空いていた。バイトらしき若者が退屈そうにレジの前に立っている。多分、マリリンのことをよく知っている世代。だから、僕の心拍数はレジに近づくにつれ飛躍的に跳ね上がって行った。


「これ、お願いします」


 マリリンがレジの人の前に商品を出す時に声を出したので、僕は飛び上がりそうになった。本当にこの人は元スーパーアイドルという自覚がないんだろう。ただ店員さんもこちらを怪しむ風もなく、機械的にバーコードを読み取り、マニュアル通りに金額を請求してきた。


「こちら2点で298円になります」

「はぁい」


 彼女はおもむろに財布を取り出すとお会計をしようとした。


「ちょっと待って、ま、真凛。ここは僕が……」


 真凛と呼ぶのを戸惑ってしまいマリリンになってしまった。バイトの男性がこちらをちらりと見てきた時は、もうダメかもしれないと思った。


「大丈夫ですよ、慎吾さん。ここは私が払います。


 彼女はそう言って、財布から小銭を取り出して並べた。


「これでちょうどですね」

「はい、298円ちょうどお預かりします。レシートはご入用ですか?」

「あ、いりません。それじゃあ、どうも」


 彼女は笑顔で商品を受け取ると僕の手を引いてコンビニを出て行った。多分、レジの男性からは彼女の顔がハッキリと見えていたはずだ。それでも何も反応しなかったのは変装の効果なのかもしれない。それにこんなところにマリリンがいるはずないという先入観もあるのだろう。


「あぁ、ドキドキしましたねぇ」

「エエッ、そんな風には全然、見えませんでしたよ」

「自分でコンビニで買い物をするなんて久しぶりなんですよ。アイドル時代は全部、マネージャーがやってくれていましたからね」

「そうだったんですね」

「私が育った島にはコンビニがなかったので、未だにコンビニで買い物をするのは緊張するんですよ」

「なるほど」


 そんな事情があったなんて気づきもしなかった。コンビニで買い物をするだけでこんなに無邪気に喜ぶなんて、素朴な彼女らしいと思う。


「このドリンク、どうしますか?」

「銭湯の裏に公園がありますよ。そこで飲みましょうか?」

「いいですねぇ」

「じゃあ、こっちです」


 この日はじめて、僕が彼女の手を引いて歩いた。彼女はそれに従い素直についてきてくれた。

 銭湯の裏には、少し大きめの公園がある。大きく2つの運動スペースがあり、それらを繋ぐ中央部分にベンチが備え付けられている。真夏はさすがにこの公園で遊ぶ子どもの姿はない。日が暮れかけているこの時間でも、公園は僕たち2人の貸切状態だった。

 ベンチに腰掛けても、彼女は僕の手を離さなかった。必然と2人の距離が近いままで座ることになった。

 日はもうかなり薄暗くなっている。多分、公園の外からだと僕たち2人の顔をハッキリと見ることはできないだろう。僕は2人で出かけてはじめて警戒心を少し緩めた。


「まだあっちの空は少し赤いですね」


 マリリンが正面の空を指差しながら言った。


「そうですね。綺麗な夕焼けが出ていましたからね」

「東京の空は狭いから、あまり空を見上げることもなかったんですよね」

「そうなんですね」

「忙しすぎて余裕がなかっただけです」

「そうなんですか?」

「はい。今日、はじめて東京の空も綺麗だと思いました。でも……」

「でも?」

「それは一緒に見ているのが慎吾さんだからなのかもしれません」

「エエッ!」

「うふふ」


 彼女はドキッとすることを平気で口にする。そして僕の反応を楽しんでいるような素振りも見せる。でも、噓っぽくは感じない。だから余計にドキドキするのだ。


「乾杯しましょう」


 彼女はコンビニ袋からドリンクを取り出した。


「何に乾杯しますか?」

「うーん、東京の空に?」

「はい」

「じゃあ……」

「「乾杯」」


 ペットボトル同士を軽くぶつけた。澄んだ音はしない。


「あぁ、コーラー沁みますね」

「えー、そんなこと言われたら、コーラを飲みたくなるじゃないですかぁ」

「あはは、ごめんなさい」


 不意に彼女の手が伸びてき僕の手からコーラのボトルを奪い去った。そしておもむろにコーラを口にしたのだ。


「あ、本当に美味しいですね」


 ニッコリの笑う彼女。しかし、僕は他のことに意識がいっていた。


「か、間接キス……」

「あ、エッ……」


 ビックリした表情でコーラのボトルを返してきた彼女の頰は真っ赤に染まっていた。僕もうっかり口にしてしまったことを後悔して俯くしかできなかった。

 静寂の時が2人の間に流れる。

 落ち着こうとすればするほど、心拍数は増えていく。コーラを口にする回数が増え、あっという間に飲み終わってしまった。見れば彼女も同じようにお茶を飲み終えていた。


「じゃ、じゃあ、そろそろ戻りますか?」


 彼女の様子を伺いながら、僕は声をかけた。


「そうですね。帰って夕飯にしましょう」


 僕の声に反応した彼女は、もうすっかりいつも通りの様子だった。ただ公園からの帰り道。さっき来る時よりも2人の距離が近かったように感じたのは僕の気のせいだろうか?そんなことを考えながら、マンションへ向かって歩いて行った。

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