第9話 ゲリラ豪雨
マンションまでの帰り道。最初、人とすれ違う時には緊張感があったが、誰も気づく様子はなかった。そのうち、誰とすれ違ってもそんなに気にならなくなっていた。都会の無関心さも、こんな時にはいいものだとさえ思う。都会には手を繋いで歩いているカップルなんて山ほどいる。特に注目するほど珍しくはないのだ。それがいいカモフラージュとなって僕たちを隠してくれている。
マリリンもお出かけを楽しんでくれている。距離にして5分程度。たったそれだけでも、心の底から楽しんでいるように見える。
――ポツッ。
マンションが見えてきた頃、僕の鼻の頭に水滴が命中した。見上げると、いつの間にかどんよりした雲が厚くたれ込んでいた。もうすでに真っ暗な夜空だけど、その雲は稲光を伴って異彩を放っていた。
「ゲリラ豪雨?」
「あ、本当ですね。降ってきちゃいましたねぇ。さっきまであんなに晴れていたのに……」
「ヤバイですね。マンションまで走りましょう」
「はぁい」
僕はマリリンの手を引いて走りはじめた。残念ながら運動神経が鈍い僕は足もそんなに早くない。情けないことに、あっという間にマリリンが僕の手を引いて走る形になった。彼女の方が圧倒的に足が速かったのだ。
マンションへと駆け出した2人に容赦無く雨が襲いかかって来る。絨毯爆撃のような雨粒が空から落ちてきて一瞬で2人をずぶ濡れに変えた。マンションの玄関に駆け込む頃には、2人ともTシャツから水が滴るくらいに濡れていた。
ほんの数十メートルを全力で走っただけだったけど、僕は肩で息をしていた。彼女の方はそんなに息が上がっていない。さすが歌いながら踊るというのを何曲も繰り返すアイドルだけのことはある。
「はぁはぁはぁ」
「ずぶ濡れになっちゃうましたねぇ」
「はぁはぁ、そうですね。大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です。私よりも慎吾さんの方こそ大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です。久しぶりに全力で走ったので、ちょっと息が上がっただけです」
僕は情けない姿を晒しながらも、最大限に強がって見せた。マリリンはそんなん僕を気遣ってか、それ以上は話を続けなかった。自分の着ているTシャツを絞って、雨水を絞り出していた。
「あはは、見てください。こんなに出てきますよぉ」
「ホントですね。僕も絞ってみますね」
彼女につられて、僕も絞ってみた。ビシャッと思っていた以上の水が滴る。
「完全にずぶ濡れですね」
「本当に。でも、すっごく楽しかったですよ」
にっこりと首を傾けて笑うマリリン。その言葉に嘘はないだろう。
「さぁ、早く部屋に戻って着替えましょう」
「そうですねぇ。今日の夕食はパスタなんですけど、その前にシャワーを浴びた方が良さそうですね」
「そうですね。シャワーを浴びて着替えてから、夕食にしましょう」
エレベーターの中で、そんな会話をした。5階に着くと、エレベーターを降りて部屋の前へ移動する。マリリンはもう1つ隣の部屋へ。そして部屋に入ろうとした時、マリリンが声をかけてきた。
「し、慎吾さん、鍵を落としちゃったみたいです……」
「エエッ、本当ですか?」
「はい……」
「ポケットとか確認してみました?」
「はい、どうしましょう」
「と、とりあえず、僕の部屋に来てください」
このままではいけない。誰に見られるかわからない。そんな思いから、僕は彼女を部屋に誘った。毎日、一緒に夕飯を食べているせいもあるのだけど、さらりと口をついて出た言葉に自分でも驚くばかりだった。
「ちょっと待っててくださいね。今、タオルを用意します」
「はぁい」
玄関マットの上にちょこんと立っているマリリン。僕は彼女のためになるべく綺麗な、なるべくオシャレなタオルをセレクトした。間違っても『○○工務店』とか『○○商店』などと印刷されたタオルを選んではいけない。僕は慎重に選んだタオルを彼女へと手渡した。
「ありがとうございます。それにしても、すごい雨でしたね」
彼女はタオルで髪を拭きながらいった。
「そうですね。天気予報では言ってなかったんですけどね」
「まぁ、それがゲリラ豪雨ですよね」
「そうですね。今、お風呂を用意しますね」
「あ、ありがとうございます」
彼女は嬉しそうににっこりと笑ってくれた。
「あぁ!」
不意に彼女が声をあげた。僕は驚いて彼女の方へ向き直る」
「ど、どうしました?」
「部屋には入れないから、用意した夕食を食べることができません」
「あ、あぁ、そんなこと、気にしなくてもいいですよ」
「でも、せっかく作ったのに……」
こんな状況でも夕食のことを心配している彼女。少しピント外れなところも可愛らしく思う。
「鍵をどこで落としたか心当たりはないんですか?」
「うーん、コンビニで買い物をした時まではあったんですよね……」
「それは確かですか?」
「はい、確かにありましたね」
「だとしたら、コンビニで落としたか、公園で落としたかですね。歩いてる時に落としたら、音で気づくと思うんですよ」
「なるほど。慎吾さん、名探偵ですね」
彼女は僕の推理を聞いて、面白そうに笑った。
「ちなみに、どんな鍵ですか?」
「鍵は普通にキーホルダーがついた鍵です。部屋の鍵だけついているヤツです。
「それじゃあ、特徴がありますね」
「大切なキーホルダーなので、何とか見つけたいですね」
余程、大切なキーホルダーなのか、彼女は少し悲しげに俯く。
「大丈夫です。僕がきっと見つけますから。さぁ、先にお風呂に入ってください」
「ありがとうございます。でも、着替えが……」
「着替えはここに僕のTシャツがありますから。下は短パンですけど、ウェストの部分の縛れるので大丈夫かなと思います」
「あ、ありがとうございます。それじゃあ、お先にお風呂に入りますね」
そういうと、彼女は洗面台の方へと姿を消した。憧れのアイドルが僕の部屋でお風呂に入って、僕のTシャツと短パンを着る。何だこの展開は?夢なら覚めないで欲しい。
彼女がお風呂に入っている間に、僕はスマホでコンビニの電話番号を調べた。電話をして鍵の落し物がなかったか確認するためだ。それで見つからなかったら、公園まで行ってみようと思う。コンビニの電話番号は、すぐに調べることができた。何とも便利な世の中になったものだ。僕は早速コンビニに電話をかけた。
「はい、セブンストップ桜町店です」
先ほどいたバイトの男性とは違って、ハキハキした女性の声が響いた。声の感じはかなり若い。
「あ、あの先ほど、そちらで買い物をした者ですけど、鍵の落し物はありませんでしたか?」
「鍵ですね、少々、お待ちください」
受話器の向こうから保留音が流れる。パッヘルベルのカノン。僕は静かにその音に耳をすまして待った。
「大変、お待たせいたしました」
「あ、はい」
リズムに身を任せていたところを、急に現実に引き戻された。
「鍵の落し物ですが、確かに1点、届いております」
「本当ですか?」
「はい。ちなみにどのような鍵でしょうか?」
「鍵が1本だけで、それにキーホルダーがついている鍵です」
「それなら、こちらにある鍵と同じかもしれません」
「わかりました。今から取りに伺います」
「承知いたしました。お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「あ、はい。弓谷と申します。弓矢の弓に、谷底の谷です」
「弓谷様ですね。承知いたしました。それではお待ちしております」
「ありがとうございます。失礼します」
良かった。鍵はコンビニに落ちていたんだ。いい人が店員さんに届けてくれていたようだ。今のうちに取りに行ってこよう。もうゲリラ豪雨はやんでいるだろう。
「あ、あの、ちょっといいですか?」
僕はシャワーを浴びているマリリンに声をかけた。浴室のドアに透けて彼女の肌色が見えた。僕は見てはいけない物を見た気がして、慌てて目をそらす。
「何か言いましたかぁ?」
「あ、鍵なんですけど、コンビニにあったみたいです」
「エエッ、本当ですか?」
「今、電話で確認しました」
「良かったです」
「なので、今から取りに行ってきます」
「エエッ、慎吾さん、申し訳ないですよ」
「大丈夫です。もう雨もやんだみたいなので、行ってきます。真凛はお風呂を出たら部屋でゆっくりしててください」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
僕は浴室の方を極力見ないようにして話をした。そして手早く着替えるとコンビニへを向かった。
ゲリラ豪雨はすっかりやんでいた。しかしその名残は強く残っている。アスファルトの路面はそこかしこに大きな水たまりができている。街路樹の細い枝も散乱していた。短時間だったがゲリラ豪雨の凄まじさを感じさせている。
コンビニに着くと、先ほどのバイトともう1人、女性のバイトの姿があった。多分、電話で応対してくれた人だろう。僕はその女性に声をかけた。
「あの、すみません。先ほど電話で鍵の落し物の話をした者ですけど……」
「あ、はい。えっと、弓谷様ですね」
「は、はい、弓谷です」
「少々、お待ちください」
やる気のない男性のバイトとは違い、テキパキとよく動く印象を受ける。もし彼女がさっきマリリンと一緒の時に応対してきたらヤバかったかもしれない。
「お待たせいたしました。こちらでよろしいですか?」
店員さんの差し出してきた手の上には、僕の部屋の鍵をよく似た鍵が乗っていた。そしてその鍵には見覚えのあるキーホルダーがつけられていた。このキーホルダーは、確か僕がマリリンの握手会に初参加した時にプレゼントとして持って行ったキーホルダーだ。田舎に帰省した時に買ったイルカのキャラクターのキーホルダーだから間違いない。
以前、雑誌のインタビューで、マリリンはイルカが大好きだと答えていた。それを覚えていた僕は、田舎でイルカのキーホルダーを買ったのだ。いつかマリリンにプレゼントするために。それをマリリンが部屋の鍵につけてくれている。僕は嬉しくて舞い上がってしまった。
「お客様?こちらで大丈夫ですか?」
僕の様子を見た店員さんが声をかけてきた。
「あ、大丈夫です。ありがとうございました」
僕は店員さんから鍵を受け取ると、丁寧にお礼を言ってコンビニを後にした。
少し冷静さを取り戻した僕は、こう考えたみた。僕が買ったキーホルダーは普通に誰でも買える物だ。マリリンがイルカ好きだと知った人がマリリンにプレゼントしていたとしても何の不思議もない。というか、少し残念だけど、そう考える方が自然だろう。何と言っても日本中で大人気だったスーパーアイドルなのだから。偶然、同じキーホルダーをプレゼントした人がいても何の不思議もない。
僕は1人、マンションへと歩きながら、少しだけ寂しい気持ちになった。
部屋に戻ると、風呂上がりのマリリンが出迎えてくれた。部屋の奥からパタパタと足音を立てて玄関まで駆けつけてくれた彼女は、少し大きめの僕のTシャツを着ている。裾が長くて短パンを覆い隠しているので、一見すると下には何も履いていないかのように見える。とてもエロい。
「おかえりなさい、慎吾さん」
「た、ただいま、真凛」
僕は自分の頭からいけない妄想を追い出すために頭を振ると、マリリンに鍵を差し出した。
「鍵は、これで間違いないですか?」
「あぁ、これ、これです。見つかって良かったぁ」
子どものようにその場で飛び上がり喜びを表現するマリリン。飛び上がるたびに、Tシャツの裾がめくれ上がって、かなり刺激的だ。
「み、見つかって良かったです」
「はい、ありがとうございます。このキーホルダー、覚えていますか?」
「エッ?」
イルカのキーホルダーを指でつまみ、笑顔の横にぶら下げているマリリン。僕はその質問の真意を測りかねていた。
「あれ、覚えていないんですかぁ?」
「エッ、いや、覚えていますよ。僕が握手会の時にプレゼントしたキーホルダーですよね?」
「はい、このイルカ、すっごく可愛いですよね。一目で気に入っちゃいましたぁ」
「ほ、本当に僕がプレゼントしたキーホルダーですか?」
「エエッ?覚えていないんですかぁ?」
「違うんです。同じキーホルダーを他の誰かがプレゼントしたのかと思っていたんです」
「あぁ、そっかぁ。でも、これは正真正銘、慎吾さんがプレゼントしてくれたキーホルダーですよ」
彼女はそう言っていたずらぽく笑う。僕はドギマギするだけで何も言えなくなってしまった。
「うふふ、それじゃあ、ちょっと夕食の準備をしてきますね。慎吾さんはお風呂に入っててくださいね」
そういうと、彼女はTシャツの裾をひらひらさせながら、自分の部屋へと戻って言った。僕は玄関に立ち尽くしたまま、呆然と彼女を見送るしかできなかった。
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