第10話 部屋とTシャツとマリリン
結局、マリリンが夕食の準備をして戻ってくるまで、僕は何もすることができなかった。濡れた頭にタオルをかけ、ただひたすら呆然としていた。そして、ただひたすら彼女が言ったことの意味を考え続けていた。
マリリンは、僕が握手会でプレゼントしたキーホルダーを覚えていた。しかも、それを大切に部屋の鍵につけてくれていた。マリリンほどのスーパーアイドルになれば、1回の握手会でもらうプレゼントだって膨大な数になるだろう。いくら神対応で有名だったマリリンでも、それらを1つずつ覚えるのは不可能だ。では、どうして僕がプレゼントしたキーホルダーを覚えていたのだろう?大好きなイルカグッズだったから印象に残っていたのかもしれない。こればかりは彼女に確認してみないとわからない。
――ピンポーン、ピンポーン。
程なくして、マリリンが夕食を持って戻ってきた。今日の夕食は、聞いていた通りパスタだった。しかも、僕の大好きなカルボナーラ。おかげで、僕の頭の中から様々な疑問が一気に吹き飛んでしまった。
マリリンは自分の部屋に戻ったので、てっきり着替えてくると思っていたのだけど、まだ僕のTシャツを着たままでいた。Tシャツの裾から覗く白く健康的な脚が眩しい。健全な男子であれば、即座に頭の中がエッチな妄想でいっぱいになるところだけど、マリリンの神々しさがそれを許さない。引退したとはいえ、スーパーアイドルのオーラは健在なのだ。
「あれぇ、慎吾さん、お風呂に入らなかったんですかぁ?」
「あ、あぁ、ちょっとバタバタしちゃってて……」
「そうだったんですね。じゃあ、先に夕食にしますか?それともお風呂にしますか?」
この台詞。よくコントなどで新婚さんが使うと言われる会話ではないか。そのあとに「それとも、ワ・タ・シ」と続く黄金のコンボ。男性にとっては致死レベルの禁断の言葉だ。しかもそれを発しているのが憧れのアイドルだなんて……こんな幸運があるってことは、僕は明日、頭に隕石が直撃して死ぬかもしれない。
「あ、先に食事にします。せっかくのパスタが冷めちゃうといけないので」
「わかりました。じゃあ、食べましょう」
僕の妄想が暴走して脳内のマリリンが「じゃあ、食後のデザートはワ・タ・シ」と囁いてくる。
僕の大好きなカルボナーラ。白いソースと卵のコクが絶妙で、それがパスタと絡んで旨味のハーモニーを奏でる。今、その白いパスタソースに1点、赤い点が落ちた。
「あぁ、慎吾さん。鼻血が出てますよ!」
「エエッ!!」
慌てて鼻を押さえると、ヌルッとした感触が指に伝わる。見ると赤い血が指先についていた。
「は、早く横になってください」
「は、はい」
マリリンに促されるように横になると、そこには柔らかいマリリンの膝があった。この前、夢で見た膝枕のシチュエーションだ。柔らかくてスベスベで最高の感触。もうこのまま死んでもいいとさえ思えてくる。
「慎吾さん、大丈夫ですかぁ?」
彼女が心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。
「コンビニに行ってもらったりしたので、疲れちゃったんですかね?」
「いや、大丈夫です。疲れていませんよ」
そんな心配そうな顔をしないで欲しい。これは全部、僕の
「それならいいんですけどねぇ」
彼女の手が僕の額に触れる。ひんやりと冷たい感覚が広がる。すごく気持ちがいい。手当という言葉は、傷口に手を当てることからそう言われるようになったらしいなどと考えていた。何かに意識を集中しておかないと、またエロい妄想をしてしまいそうだったからだ。
「熱はないみたいですねぇ」
「ほ、本当に大丈夫ですから……」
「すっごく心配です」
そう言うと、彼女の手が僕のTシャツの袖口を掴んだ。気のせいか微かに震えているように感じる。
「心配させて、ごめんなさい」
「はい、大丈夫です」
「は、鼻血、すぐに止まりますから」
「はい」
彼女は最高の笑顔でにっこりと微笑んでくれた。その笑顔に浄化されて僕の頭の中から不健全な思いは消え去ってしまった。
10分もすると僕の鼻血は完全に止まった。そして彼女の膝枕という夢のような時間も終わりを告げた。また彼女と向かい合ってパスタを食べはじめる。日本中のマリリンのファンがまだ悲しみのどん底にいる
「パスタ、お口に合わなかったですか?」
彼女が不安げな表情で聞いてきた。
「あ、いや、美味しいです。僕はパスタの中でカルボナーラが一番好きなんです」
「そうなんですか?私はたらこパスタが好きですね」
「あぁ、たらこパスタもいいですね」
「アーッ、慎吾さん、私の話に寄せてきましたね」
「い、いや、そんなことないです。本当にたらこパスタも好きなんです」
「じゃあ、カルボナーラとどっちが好きですか?」
「うーん、同率1位ですね」
「エーッ、そんなのずるいです」
「でも、キノコのパスタも捨てがたいですね」
「もう、慎吾さん、浮気っぽいです」
彼女は面白そうに笑った。もうどこにも不安げな気配はない。僕もそれにつられて笑った。ささやかだけど、贅沢な時間。それをもっと大事にしなければ。日本中でこんな幸せを味わえるのは僕1人だけなんだから。改めてそう肝に命じた。
――ブブッ、ブーッ。
テーブルに置いたスマホが震えた。マリリンはどうぞと目でスマホに触ることを促してくれている。
画面を見るとグループメンバーのつむぎさんからのメッセージの着信を知らせる通知だった。メッセージアプリを立ち上げる。真っ先につむぎさんのメッセージが目に飛び込んでくる。そこに書かれていた文章に僕は心底凍りついた。
》マリリンの居場所が判明したらしいぜ。
その言葉とともにリンク先が添えられていた。マリリンの居場所が判明。その言葉を頭の中で反復する。ここが誰かにバレたということだろう。そうすると、もう明日にはマスコミが押し寄せてくる。当然、僕たち2人は今までのような生活をすることができなくなるし、最悪の場合引き離されてしまう。
僕は玄関を出たところでマスコミの取材攻勢でもみくちゃになる姿を想像した。そして、そのマスコミの向こうにほくそ笑む先日の怪しい男がいるのを見て取ったのだった。
「そ、そんな……」
「どうしたんですか?」
僕の様子を不審に思ったマリリンが声をかけてきた。自分ではわからないけど、多分、血の気が引いて真っ青になっているだろう。鼻血が出たり、血の気が引いたり、何とも忙しい。
「僕はマリリンのファンの人たちと作ったグループに入っているんですけど、そこにこんなメッセージが来ていました」
そう言って、マリリンにつむぎさんのメッセージを見せた。マリリンはそれを読むとびっくりした表情で口を押さえている。
「そ、そのリンクはどうなっていますか?」
「あ、今、確認してみますね」
僕は恐るおそるリンク先をクリックしてみた。リンク先は画像になっていて、僕のスマホの画面いっぱいにマンションの画像が映し出された。そこに手書きで『マリリンの新住居』と書かれている。しかし、その画像のマンションは、僕にはまったく見覚えのないマンションだった。
「ご、誤報ですね。良かった……」
僕は見知らぬマンションの画像をマリリンに見せながら、安堵のため息を漏らした。
「もう、びっくりさせないで欲しいですねぇ」
「本当にですね」
「まぁ、バレても関係ないですけどね」
「エッ、そうなんですか?」
「はい、だって、もう引退してますからねぇ」
そう言って、のんきに笑う彼女。しかし、事態はそんなに単純じゃないことを僕は知っている。彼女が楽観的すぎるのか、僕が心配性なのかわからないけど、とにかく今は、そっとしていて欲しいと願うばかりだった。
》おぉ、マリリンの居場所がついに判明したでありますか?
》おう、これはビッグニュースだぜ。
》事実なんですかね?
》わからねぇけど、数日中には画像解析の連中が住所を特定するはずだぜ。そしたら、真偽のほどもわかるってもんだ。
ネット上には画像解析の専門家がいる。警察よりも早く住所などを特定するスペシャリスト達だ。その腕前はガラスに映り込んだ看板さえ手掛かりにしてしまう。炎上案件があると誰かから画像がアップされ、それを画像解析の人が解析し、突撃をする人たちに情報を提供するという流れになっている。誰が決めた訳でもないけど、完全に出来上がっている分業制。ちょっとした会社組織より強固で優秀だ。
〉お久しぶりです。この情報、気になりますね
》おぉ、ゆた坊。久しぶりだね。
》お元気でしたか?
〉ご心配をおかけしました。
つむぎさんと先生が心配してくれた。まゆたそさんとは、個別にやり取りをしていたので、わかってくれているはずだ。
》ゆた坊、住所が判明したら突撃してみろよ。
〉エエッ、何で僕なんですか?
》ゆた坊、東京だろ?どうせマリリンの新しい住所も東京だろうからさ。俺たちじゃ行けねぇんだよ。
〉なるほど。
》じゃあ、頼むぞ。
》もしかしたら、マリリンに会えるかもしれませんぞ。
》それは羨ましいでありますな。
〉そんなラッキー、ありますかね?
そんなラッキーはある。いや、それ以上のラッキーが世の中にはあるということを僕は知っている。
グループのメンバーは、今、このやり取りをしている僕の隣にマリリンがいるとは夢にも思っていない。そして画像の情報を信用して喜んでいる。僕はどうすればいいんだろう?この情報に踊らされるフリをして適当に話を合わせるべきだろうか?それとも、ここで本当のことを打ち明けるべきだろうか?
メンバーのことは、グループで話しているだけなので、会ったこともない。だから、どんな人なのかもわかっていない。信用していない訳ではないが、まだすべてを話すのは危険ではないだろうか。僕はこの情報に便乗して踊らされる方を選ぶことにした。
「やっぱり、みんなマリリンのことが気になっているんですね。この件になると、話が尽きないです」
グループのメンバーは、まだまだ盛り上がっていたけど、僕はマリリンの方へ注意を戻した。すると、マリリンは椅子の背もたれに寄りかかって、気持ち良さそうに眠っていた。天使の寝顔。ありきたりだけど、そう表現することがふさわしいような神々しい寝顔だ。
「マリリンの方が疲れちゃってるじゃないですか……」
僕はそうつぶやいて、残りのパスタを食べはじめた。いつものように、グループのメッセージに適当に返事を返しながらの食事は何日ぶりだろう。マリリンと食事をする前は、毎日、こうやってしょうもないことを話しながら食事をするのが普通だった。朝まで馬鹿な話で盛り上がることもあった。最初はもっと多くのメンバーがいたけど、1人抜け2人抜けして今のメンバーが残った。だから、マリリンに対する愛情も深い仲間たちだ。
》マリリンは、もう帰ってこないでありますかね?
まゆたそさんの一言にみんな沈黙した。それは僕だって気になっている部分だ。当の本人が横にいるので、いつか聞いてみたいとさえ思っている。そういえば、まだ彼女が何で引退をしたのかも聞いたことがない。それだって、日本中の彼女のファンが知りたいと思っているはずだ。
最高に可愛らしくて、少し天然で優しいマリリン。僕はそんなことを考えながら、眠りこけている彼女を眺めた。
「……ごさん、慎吾さん、危ない」
夢でもみているのだろうか?マリリンが寝言を言っている。どうやら何か僕が大変なことになっているようだ。彼女の夢にまで出ているなんて、何て幸せなんだろう。一体、どんな夢を見ているのか、少し気になるところではあるけれど。
僕はマリリンの寝顔を見ながら、残りのパスタを口に流し込んだ。
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