第4話 お隣さんの正体
おふくろの味というものがあるなら、まさに、今、食べているこの煮物はそれだ。ひと口食べただけで懐かしい故郷の風景がよみがえり、子どもの頃に遊びまわった港町の潮の香りが漂っているように感じる。
田舎に住んでいた当時は、母親が作る煮物が嫌いだった。年寄りくさい感じがしたし、何より肉料理が食べたかったからだ。この歳になって、ようやく煮物が美味しいと感じられるようになったのかと感慨もひとしおだ。
マリリンが作ってくれた煮物は、まさに絶品だった。僕の口に合う薄味の煮物。まるで僕のためだけに作ってくれたような味付けだ。
でも、冷静に考えてみればマリリンは長崎の出身だから、薄味でも不思議はない。一度、居酒屋で東北地方の味付けの煮物を食べたけど、僕にはしょっぱ過ぎた。薄味に慣れた口が受け付けなかったのだ。
彼女の煮物は、じゃがいもやニンジンなどの根菜類にも味がよく染み込んでいた。ひと口食べるたびに旨味溢れるダシが口に溢れる。真夏の暑さで疲れ切った胃腸が元気になってくるのを感じる。
「あぁ、美味しかった」
思わず感想が漏れる。誰もいない部屋に響いた言葉は虚しく響いて消え去った。
この感想をすぐにでも彼女に伝えたい。時間は20時半。急いでお皿を洗えば21時前にはお皿を返しに行ける。
別に21時にこだわる必要はないのだけど、何となく21時を過ぎると夜遅くだと感じてしまう。東京は眠らない街だからそんなの関係ないけど、田舎の21時はもう出歩く人も少ない時間なのだ。
お皿をキッチンに運び水を流す。普段、自炊などしない僕にとって台所の重要性はそれほど高くない。だから、申し訳程度と小さめのキッチンだ。
ここで洗い物をしたなんて、何ヶ月ぶりだろう。カップラーメン用に水を汲んだり、スープを捨てて容器を水で流す程度にしか使っていない。
それでもキッチンには、いつか出番が来ることを信じて食器用洗剤とスポンジが鎮座していた。
スポンジを泡立ててお皿を洗う。お皿には薄いピンク色に白い花がデザインしてあった。女の子らしい可愛い食器だ。
洗い終わったお皿の水分を切り布巾で拭く。
「さて、返しに行くとするか」
ひと仕事終えた僕は、お皿と洗面器を持って彼女の部屋へ向かった。
隣の部屋まではほんの数メートル。それがやけに長く感じたのは僕が緊張しているからだろう。
部屋を出て右隣。マリリンの部屋の前は、僕の部屋と同様に特に飾り気のないチャコールグレーの扉が立ちはだかっていた。何者も通さない門番のような威圧感を感じる。
手を伸ばせばドアホンまですぐなのに、なかなか手が伸ばせない。しばらく逡巡した後、ようやく覚悟を決めた。
――ピンポーン、ピンポーン
かなり遠くでドアホンが鳴ったような気がした。その音を合図にパタパタと足音を立てて近づいてくる気配がある。
ガチャッ
ドアが少しだけ開かれて可愛らしい目がこちらを伺っている。
「こんばんは。隣の弓谷です。洗面器と食器を返しに来ました」
「ああ、わざわざありがとうございます。今、開けますね」
一度、ドアが閉じられてドアチェーンを外す音が聞こえた。
ガチャッ
改めてドアが開かれ、部屋着姿の彼女が現れた。彼女の部屋着は薄いピンク色で、全体的にモコモコしている。手触り、肌触りの良さそうな生地だ。
気のせいだろうか?僕の顔を見た途端、少し頰が赤くなった気がする。
「す、すみません、わざわざ持ってきていただいて。何だか申し訳ないです」
「いやいや、煮物、すごく美味しかったです」
「ホントですかぁ?嬉しいです」
満面の笑みを浮かべる彼女が眩しくて直視できない。もし彼女が本物のマリリンじゃなかったとしても、僕はきっと彼女に夢中になるだろう。彼女に猛アピールして、親しくなって、グループのメンバーに自慢してやりたい。
僕と彼女の身長差はかなりある。彼女の頭が僕の肩くらいだから15センチ以上はあるだろう。だから、近い距離で話す時は自然と彼女が上目遣いになる。大きくて少しタレ目の女の子の上目遣いは威力抜群だ。見つめられるだけでドキドキしてしまう。
「もし良かったら、また作ります」
彼女に見とれて放心状態になっていた僕に彼女が声をかけてくれた。彼女の声でハッと我に帰る僕。
「あ、あぁ、いや、その、何か申し訳ないです」
「うふふ、気にしないでください。料理は好きなんです。でも、つい作りすぎちゃうんですよ」
「そうなんですね。それなら僕が食べます」
「はい、心強いです」
何だろう。会話が弾んでる。こんな可愛い女の子と会話が弾むなん人生ではじめてかもしれない。こんなに楽しいなんて……
マリリンの握手会に行った時だって話す機会はあった。でも、それはほんの数秒のことで、何も言えないうちに係りの人に押し出されてしまった。だから、今、この時間はすごく貴重な気がする。
「あ、でも、作ってもらうと食費とか材料代とか大変でしょう?」
「うふふ、大丈夫ですよぉ」
「あ、じゃ、じゃあ、その代わりに何かお礼をしますよ。何でも言ってください」
「えぇ、何でもですか?どうしようかなぁ」
彼女は腕を組んで真剣に考えているようだった。腕を組んで首を左右に傾けながら考える彼女。その仕草さえとても可愛らしくて抱きしめたくなる。
「あっ、じゃあ、弓谷さんのフルネームを教えてください」
「そんなのお礼にならないですよ。僕は弓谷慎吾って言います」
「慎吾さん。素敵なお名前ですね」
「ありがとうございます」
女性から下の名前で呼ばれるなんて母親以外でははじめてかもしれない。めちゃくちゃ照れるじゃないか。
「慎吾さんって呼んでもいいですか?」
「エェッ、あ、あぁ、もう好きに呼んじゃってください」
ダメだ、思考がついていかない。恥ずかしくて、照れくさくて、脳がオーバーヒートしそうだ。
「他にも何かお礼をしたいんですけど……」
彼女から話題の主導権を取り戻すために話題を変えようとした。
「そうですねえ、じゃあ、お友達になってください」
「も、もちろんです。でも、それもあまりお礼になってない気が……」
「そうですかぁ?私は十分に嬉しいですよ」
そう言ってにっこり笑うと頭を左に少し傾けた。マリリンがよくやっていたクセの1つだ。
そうだ、話に夢中になっていたけど、彼女がマリリンかどうか確認しなければいけない。どう切り出せばいいのだろう。
「あ、じゃあ、私はまだこの辺の地理に詳しくないので、色々と案内してください」
「あ、はい。いいですよ」
「やったぁ。コンビニとか教えてくださいね」
彼女は嬉しそうに手を叩きながら、その場でピョコンを飛び上がった。
「あ、あの、僕からも1つ、質問してもいいですか?」
「あ、はい。いいですよぉ」
彼女は何の警戒心も持たず、目を光らせて僕を見ている。
「あ、あの、昨日、名前を葵真凛って言ってた気がするんですけど……あのアイドルグループの春風さくら組のマリリンですか?」
「はい」
「エエエエエエッ」
「うふふ、そんなに驚かなくてもいいじゃないですかぁ」
僕自身、自分の声の大きさに驚いていた。そして声を聞きつけて誰かが出てくると困るので、両手で口をふさいだ。
「今朝、挨拶に伺った時、話しましたよ」
今度は僕が首をひねる番だ。
「『やっぱり、マリリン』って聞かれたので、ちゃんと『はい』って答えましたよぉ」
そうだったっけ?やばい、よく覚えていない。
「そしたら慎吾さん、ドアに頭をぶつけて……」
マリリンは口に手を当てて、控えめに笑っていた。それにつられて、僕も笑った。
そうだ、僕は驚いて頭を強打したんだった。まだコブが残っている。そしてマリリンに看病してもらっていたんだった。
「あ、あの、やっぱり、ここに引っ越してきたことは、誰にも秘密ですよね?」
「はい、慎吾さんと2人だけの秘密です」
彼女はそう言うと、また首をひょっこりと傾けてほほ笑んだ。
「絶対に秘密にします。神に誓います」
「うふふ、大袈裟ですよ。そんなに難しく考えないでくださいね」
「あ、はい」
「それじゃあ、今日はもう遅いので……」
「あ、はい」
「またお話してくださいね」
「もちろんです」
「じゃあ、おやすみなさい」
「お、おやすみなさい……」
憧れのマリリンと「おやすみなさい」を言い合う関係。その嬉しさに僕は彼女の部屋のドアが閉じられた後も、いつまでもそこで固まっていた。
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