『黒い本』の由来 1

『私は古本屋でして・・・・神田の神保町で、父の代からつづいている老舗しにせです。とは言っても店構えは小さく、古書と名の付く本なら何でも扱うという類の、ごくささやかな店なのです』


 男はそう言って『挨拶が遅れました』と、額の汗を何度も拭い、名を篠原康夫、歳は52歳だと名乗った。


『・・・・話は今から1年前にさかのぼります』


 篠原氏は何倍目かの水をお代わりした後、俺の方をほとんど見ることなく語り始めた。


 1年前、彼は群馬県の某市内で開かれていた『古本市』に出かけた。


 その神社は江戸時代後期に実在した、ある学者を祀っており、彼が書物の収集家であったことから、地元では、


『本の神様』として知られていて、その縁もあってか、毎月『一』の付く日、つまり一日、十日、十一日の三日間に、境内で露天の『古書市』が開かれる。


 彼も古本を商っている性質上、ここには度々訪れ、値打物や稀覯本きこうぼんの類などを漁ることにしている。


 その日、ちょうど四月のある晴れた日、彼はこの神社に出かけ、露店をあっちこっちと見て回っていた。

 

 売れそうな本、金になりそうな本を何冊か仕入れ、帰途に付こうとした時だった。


 境内の入り口近くに、目立たないような形の小さな店があるのを目にとめた。


 ブルーシートの上に何冊かの本を並べてはいたが、他の出店者のようにビラを出しているわけでもない。


 店番をしていたのはもう70を過ぎていると思われる老人で、黒い作務衣のようなものを着用に及び、痩せて、青白くこけた頬をしており、目もうつろで、覇気がない。


 そんな店だから、客たちは誰も目を止めようとせずに、前を通り過ぎて行く。


 事実、篠原氏自身も、境内に来てからぐるりと一通り見て回ったが、こんな分かりやすい場所に出店しているにも関わらず、一度も気が付かなかった。



 自分も古本屋を営んでいる人間だから分かるが、大体こういう露店で店を出している人間は、お世辞にも商売っ気がない人間が多いものだが、この主は自分たちの遥かに上を行っていた。


 目の前を通り過ぎる客に声をかけるでもなし、稀に立ち止まったとしても、何か宣伝をするでもなし、黙ってぼうっと折り畳み式の木製の椅子に腰かけているだけだ。

 

 置いてある本も、どれもあまり聞いたことのないような本か、或いはありふれた昔のゾッキ本の類のようなものばかりで、仕入れて帰ったとしても、お世辞にも商売になりそうもない。


 篠原氏はそんな中に、一冊の本を見つけた。


 それがこの、


『夜の底の死神』だったのである。


『夜の底の死神・・・・はて?』何気なくそう呟くと、店主はそこで初めて反応を示した。


『お客さん、この本を知っているのかい?』


『いや、知ってるって程でもないが、どこかで聞いたような』


『これはお買い得だよ。多分今では日本国内でもほんの数冊しかないだろうね。』


 店主氏はそこで初めて表情を動かして口を聞き、口元に笑みを浮かべたものの、その顔は、


『何ともぞっとする、この世のものとも思えない、嫌な顔』であったという。


『本当なら一万でも安いところだが、あんたなら五千円でいいや。どうだね?』


 それでも高いな、と篠原氏は思ったが、しかし何となくその本を手放すと、


『損をするな』という感情が湧いてきて、


『よし、買おう』という気にさせられたのだという。

 

 その本を買って帰り、値段を付けて店に並べた。


 大体五千円である。


  とりあえず、


『八千円』


 という値段を付けて店の中の、あまり目立たぬところに置いた。


(どうせ売れやしない)


 そう考えていたという。


 ところが店に置いて1時間もしないうちに、壮年の紳士風の客が入ってきて、


『この本を売ってくれ』と、一万円札を出し、


『釣りはいらないから』と置いて、買い取っていったのである。


(期待していなかったのに、思わぬ儲けだな)


 彼はそう思っていた。


 ところがである。


 三日後、その紳士が、再び現れ、


『金はいらんから、この本を引き取ってくれ』と、やつれたような顔で現れ、


 本を置くとそのまま、逃げるように立ち去っていったという。


 その後もこの本はさほど目立つところに置いていないのに、必ず誰かが買ってゆくが、翌日には、


『金はいらないから』と言って返しに来て、逃げるように立ち去ってゆく。


 その時の客の表情は一様に、


『幽霊でも見たかのように』引きつっているのだという。


 それだけじゃない。


 彼自身もこの本のお陰で災難に見舞われるようになった。


 これまで一度もなかったのに、万引きが頻発するようになった。


 数メートル離れたところにある自宅にも空き巣が入るようになった。


 妻が駅の階段で転んで大けがをし、入院する羽目になった。


 そんなことばかりが重なるようになったという。





 





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