第12話 「故郷」という牢獄のなかで


 引っこめたままの手を繋ぐことはないまま、僕たちは海岸線に沿って歩く。


 少しずつ落ちていく陽の光で、波打ち際がきらきらと光る。波が引いていくその一瞬姿を見せる名前もわからない白い貝殻が、また次の波で消えていく。たぶん、僕や亜弥が一緒に歩いていたあの頃と何もかわらない風景――ただ、二人の距離だけが前と違っているのかもしれない。


 しばらく歩くと、小さな港にたどり着く。僕らが高校生になる頃に工事が始まったその港は、このじいさんばあさんだけの街でどのくらい活用されるのか誰も詳しいことはわからないまま、地方活性化だか何だかという補助金を使って、長い長い砂浜だった場所を圧し潰していった。



 誰もいない港の真ん中あたりにつくと、僕は肩にかけた上着のポケットから赤いラインの入った煙草の箱を取り出して、そのうちの一本を口にくわえて火をつける。


「…………タバコ、吸ってたんだ」

 指輪を見たあたりから一言も発していなかった亜弥がつぶやく。

「……ああ、しばらくやめてたんだけどな」

 そう答えるのと同時に溜め込んでいたいた煙をふーっと吐き出す。海の方に目をやると、第三セクターの路線名になっているオレンジ色に染まっていく。


「こうしてよく眺めると、この街も少しずつ変わってるんだな」


 港の国道側の入り口には、あの婆ちゃんの駄菓子屋の前にしかなかった自動販売機が何台か並んでいて、その奥には数十キロ先の大型スーパーの看板が立っている。


 僕はあの鈍色の指輪を思い出しながら、「お前も」と亜弥の方を見ないで続けた。

 


「………………何それ」



 その意外な言葉に「えっ」と振り返る。


「何それ。少しずつ変わってる? 何が!? あたしも? はぁ!? どこが!」

 亜弥は胸のあたりを左手でぎゅっと握って顔を伏せたまま、叫ぶ。

「ちょ、どうしたんだよ急に」

 僕は突然のことに慌てて、取り繕ろうと手を伸ばす。亜弥は差し出した手を払い、きっと僕を睨みつける。


「うるさい!! アンタはいいわよ、優しいおじさんとおばさんのおかげで大学に行けて! 悠々自適に東京で暮らしてるんだから!」


「はぁ!? それこそ何――――」

 そう言いかけたまま、僕は言葉を発せないでいた。

 目の前には、こちらを睨んだまま両方の眼から大粒の涙を零している亜弥がいる。よく知っているはずのその幼馴染は、あちこちくたびれた服に身を包んでいて、その襟元や袖の部分からのぞく身体は痩せこけていて、殴られたような赤紫色の痣が見える。



 僕がそれに気づいたことに亜弥も気づいたのか、袖口を隠す。



 僕は無言のまま目線を今さっきまで自分たちがいた花咲浜の方に戻す。穏やかな波がゆらりゆらりと砂浜に花弁を一枚、また一枚と作っていく。



 亜弥の家は漁師で、父親も母親も古臭くて頑固な人たちだった。下に弟が二人いて、朝早くから働きに出る両親の代わりに彼らの面倒をみていた。中学に上がる頃になると、休みの日には稼業の手伝いに駆り出されるようになっていった。


 亜弥ばかりがそうだったかというと、そういうわけでもなく、一緒に遊んでいた浜の子供たちのほとんどは同じような状況だったと思う。今より子供の自由に関心が少ない時代で、加えてこの街の貧しさがそうさせていたのだろう。


 父の転勤で後からこの街に来た僕だけが事情が少し異なっただけで、高校生になって僕が隣町の私立高校に通い始めると、亜弥や同じく稼業の手伝いをする同級生たちはこの街から一番近い公立高校に通うことになった。



 そうやって花咲浜で一緒に遊んでいた僕たちは自然と離れて行く。



 それでも僕は無邪気にときどき高校や大学から抜け出して、みんなに会いに行っていたのだけれど、彼らは――亜弥は――




 ――――この街は変わっていないようでゆっくりと滅びていく。



 「故郷」となずけられたこの牢獄では、多くの人々を縛り付けたまま、ゆっくりと何もかもが錆びていく。そして、その隅っこの方で亜弥は、昔のように身体を動かせなくなって仕事のなくなった年老いた父親に殴られて小さく――やせ細っていく。



 確かに、誰の人生を押し付けられることもなかった僕には、あの左手の鈍色にびいろの指輪のことを尋ねることなんて出来はしないんだ。




(続く)

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それでも貧乏な子は大学に行く トクロンティヌス @tokurontinus

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