第4話 あの道を抜けて
「セラはお医者さんになりたいの。そしたら、妹の病気だって直せるんでしょ?」
僕達はセラがどうして此処に居るのかは知らなかったし、施設に居る子供たちのなかの暗黙のルールのようなものでそういうことは聞かないことになっていた。
だから、僕はセラのことを何も知らない。
でも一回だけ寂しそうに妹が居ること、病気で入院していることを話してくれて、それに続けて「医者になりたい」と言っていたのを覚えている。その夢を聞いた普段は感情をあまり見せな兄が「それはいいな!」と喜んでいたのを思い出す。
一、
次の日は晴れていて、明日には横浜に戻らないといけないこともあって、色々と歩いてみることにした。それにしても夏の日差しが強かったので、帽子を買おうと昔あった総合スーパーを目指して歩く。
しばらくして記憶の中のその場所の近くまで来たというのに、まだどこにもその建物が見当たらない。ようやくその建物があった場所にたどり着くと、建物の跡地に砂利が敷き詰められていて、周りは黄色のチェーンが囲っている。
この街は僕が思っていたよりもだいぶ早く老いていて、そして朽ちていっているのだろう。
せめて、何かあの頃の面影のようなものでもないかと僕はアルバイト先だった場所を抜けて、数軒の民家が立ち並ぶ通りを幾分か早歩きで進む。
(確か、ここに・・・・)
その先の交差点の角に小さな弁当屋を見つけ、僕はほっとする。素直によかったと心の底から思っている。アルバイトで配達をしていた時の得意先で、僕の数少ない友達の母親が切り盛りしている店だった。
信号が赤から青にかわり、その弁当屋まで近づいていく。
店の看板、そして軒先にかけてあるメニュー、漂ってくる旨そうな匂いもすべて、あの頃のままだ。(あの裏に勝手口があって、そこから注文の物品納品するんだよな)と、アルバイトの仕事内容の記憶まで蘇る。
店先まで来ると、せっかくだから何か買って公園ででも食べるかという気になって、軒先にかけてあるメニューを見上げる。と言っても、アルバイトをしていた時には弁当を買うお金なんてなくて、どれも食べたことはなかったし、どれを選んでいいのかわからずにいた。
「いらっしゃい! 何にしましょう?」
威勢の良さそうな男の声で店の奥から不意に声をかけられて、僕は目を丸くする。当然そういうこともあるだろうとは思っていたのだけれど、あの友人のお母さんはもう辞めてしまったのかと気づくと、一気に寂しさがこみ上げてきた。
二、
いつだったか僕がアルバイト先の配達でこの店に納品に来ていたときに、僕の父を知っているという客が絡んできたことがあった。僕は自分の父親と一緒に居た時間はごくごく限られていたのだし、正直、どんな人だったのかもよくは知らない。かろうじて母親のことは多少知っているにしても、それも保育園までの話だ。だのに、目の前の老婆は僕に父のことを聞きもしないのにあれこれと話しかけて来る。
その内容は殆どがパチンコと酒、それに女遊びのことで、パチンコをしては負けて方々に借金を頼んでいたとか、酒を呑んでは仕事先で喧嘩してクビになっただとか、それに浮気をして女に騙されただとか、自分は雇用主の親族でお前の父親が仕事をよくサボったせいで苦労したなどと続けている。
僕はそれがこの老婆の嫌味なんだということはわかったものの、よく知りもしない父親のことでそんなことを言われても僕はおろおろとするだけだった。
そうこうしているうちに、店の奥から友人の母親が出てきて、
「いいかげんにしなさい! 困ってるでしょ!! 父親のことが何でこの子に関係あるのよ!!」
と、大声で老婆を怒鳴りつける。怒鳴られた老婆はバツが悪そうな顔をして、何も買わずに立ち去る。
それをカウンターから身を乗り出して確認すると、僕の方を向きなおして、
「ごめんねぇ、あの人普段からああいう感じでさ。あ、気にしないでね。ナナミ君はナナミ君なんだから、気にせず頑張りなさい……しかも、あの人結局いつもお弁当買ってかないしね」
そういうと、ニコッと笑う。
入学した高専の同級生、上級生、教員、それにアルバイト先の店長でさえ、僕と兄の境遇を知ってどこか煙たがっていたり、
もちろん、僕が一方的にそう思っているだけだったのかもしれないのだけれど。
いつか、この店で弁当買って食べようと思っていたものの、タイミングを逃したままになっていた。
三、
僕がショックで
「……もしかして……間違ってたらごめんだけど、ナナミ? か?」
僕が小さく「えっ」と答えると、
「おお、やっぱり!! ナナミだ!! 松崎だよ、松崎。小学校も中学校も一緒だっただろ!」
と破顔する。
その様子があの頃とまったく変わってなくて、それに、あの僕をいつも励ましてくれたおばさんにとてもよく似ていて、僕は立ちすくんだまま、声も出さずにボロボロと涙を
「えっ!? ちょ、ちょっとどうしたんだよ、ナナミ!? おい!?」
僕はとっくに捨てたと思っていた故郷にこんなにも執着していて、ただ、ただ僕のことを覚えていて欲しかっただけなのかもしれない――そう思った瞬間に、この街で起きた数々の嫌な出来事や逃げるように出て行った先の高専でも受けた酷いいじめ、それにお金のアテもないまま進学を決めて苦労した大学や大学院のときの思い出が一気に溢れ出てきて、僕は涙を止めることが出来ないでいた。
(続く)
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