第5話 思い出

「大丈夫……大丈夫だから……」


 その日、急に大量の鼻血を流して倒れたセラを、僕たちは心配そうに病児用のベットの脇から覗き込んでいた。消灯の時間で先生たちが小さい子どもたちを寝室に誘導しようとしても、誰ひとりとしてそこを離れないでいる。

 もう一度小さく「本当に大丈夫だから」と弱々しく笑ってみせるセラの顔にはいつもより多くの痣がついていた。ただおろおろとする僕たちの代わりに、兄が先生に「本当に大丈夫なのか」とか食い下がって聞いていた。


 その夜、この園で、いつもみんなの中心に居て、いつもみんなの事を思っていた僕たちの小さな友達は、ひっそりと、ただの一言も泣き言やうめき声も上げずに静かに息を引き取った。




一、

 あの思い出の弁当屋の前で動けなくなってしまった僕を松崎君が気遣ってくれて、「少し落ち着くまでここにいろ」と僕を店の休憩室のような場所まで通す。

 店の中も僕がアルバイトで訪れていたあの頃と変わらずに、配達で持ってきた物品を置くスペースまでそのままになっていた。


 一時間ほどした後で、弁当を買いにくる客が途切れたのを見計らって、冷たい缶珈琲を持って松崎君がやって来る。それから僕は時間をかけて、この街を出てからのことや今回の帰郷についてのことをゆっくりと話す。それを時々相槌を打ちながら、昔の友人は少しも嫌な顔をせずに聞いてくれていた。



 一通り話し終えた後で、まずは今の僕の職業について「頑張ったんだな」と自分のことのように喜んでくれた。

 次にこの街での反応のことについて、「ナナミはタクミさんと違ってまず学校に来てなかったからな。そこは仕方ないんじゃないか?」と冷静に返す。


 そして最後に僕が高専から大学院までの間苦労したことについては、少しだけ同情を期待していたのだけれども、反応はまったくの反対で怒りだしてしまった。


「確かにお前はいじめられていたかもしれないけど、俺やたっちゃん、いっこ下の有村とか一緒に遊んでたやつらも居るだろ? それに母ちゃんだって凄く心配してたんだぞ。なんでそういう大変な時に声をかけないんだよ」


「松崎君……」

 と何か言葉を発しようとすると、それにも怒りだして、

「昔のまま、"まっちゃん"でいいんだよ!」

と、腕を組みながらぶっきらぼうにいう。


 まっちゃんは、確かにこんな感じの友達だったなと僕の古い記憶が想起されると、思わず吹き出してしまう。そんな僕の様子を見て、まっちゃんはやっぱり腕を組んだままふふんと鼻を鳴らして口角を上げる。



 それからしばらく他愛もない話を続けて、僕が思い出したように「そういえば、おばさんは?」と尋ねると、いつも明るいまっちゃんの顔が少しだけ曇る。「二年前に癌でな」、という答えを聞いて、僕はさっき感じた時間の流れをまた実感する。


 何とか話題を変えようとしたまっちゃんが、「タクミさんは?一緒じゃなかったのか?」と口にしたのを受けて、僕はさっきまっちゃんがそうしたのと同じ表情を浮かべる。


 そうか、と小さく言った後で、それ以上詮索せんさくすることもなく、まっちゃんは黙ってしまった。



二、

 十分ほど時間をおいて「何でも出来る人だったからなぁ」と、まっちゃんがつぶやく。

 確かに兄は勉強もスポーツも何でもそつなくこなす人だった。

 勉強の成績も良かったし、中学校の二年生の頃には県のスポーツ大会で陸上の新記録を出した。そうかと思えば、読書感想文や写生大会の絵が表彰されることも度々あった。


「知ってたか? 俺の姉貴、小学校の時にタクミさんにラブレター出してたんだぜ?」


 僕はえっと驚く。兄のそういう恋愛話は一度も聞いたことがなかった。

 兄はいつも学校の友達が読んだ後の少年ジャンプを貰って帰ってきてくれて、それを回し読みするのが僕と兄の楽しみになっていたのだけど、僕が小学四年生かそこらにちょっとエッチな忍者ものの漫画が載っていたのを、慌てて「これは読むのは早い」と顔を真赤にして止めるような奥手な人だった。


「そういえば、タクミさんとナナミって顔はあんまり似てないな」


 そう、まっちゃんが何気なくいった言葉の答えを、僕と兄は祖母が亡くなる数週間前に聞かされていたのだけど、それは黙っておくことにした。


「母ちゃんが生きてる時に帰ってきてればなぁ」

「おばさんは僕のことを覚えていたの?」

 そう尋ねる。すると、まっちゃんは答えを教えるかわりに、

「横浜に帰るの、明日なんだろ? 俺んち、久しぶりに寄ってけよ」

と言い、店が終わる夕方七時くらいにこの弁当屋よりも少し離れた、僕達の中学校の近くの自宅へ誘われるのだった。




 タクシーを校舎が建て替わっていた中学校で降りて、まっちゃんの家までの数百メートルを歩く。


 うるさいくらいに鳴くウシガエルや羽虫の声も、まっちゃんの家に行くために曲がる交差点の脇にある駄菓子屋もそのまま残っていた。何もかも潮風で錆びていくこの地域だけあの頃に取り残されたように、何も変わっていない。



 まっちゃんの家で芋焼酎を少しだけ口にして、「店の残りで悪いけど」と言って出された唐揚げやさつま揚げをつまむ。しばらく雑談をした後で、「ほら、見てみろよ」とまっちゃんが一冊の古いノートを僕に渡す。そこには日付と、まっちゃんのお母さんの名前が書いてあって、中身はどうやら日記のようだった。



「母ちゃんな、あの店を出す前は俺たちの小学校で給食のおばさんやってたんだよ。それで元々まめな性格だから……ほら、ここ見てみろ」


 そう指された場所には『タクミ君、パン渡す』と書かれている。えっと僕が小さく声を上げると、まっちゃんはおばさんによく似た優しい顔をして話しを続ける。


「母ちゃんがな、もういよいよ危ないって時に少しの間だけボケちゃったんだよ。俺や姉貴の顔もわからないくらいにな。そんな時に、『あ、濱崎さん、今日はタクミ君にパン渡したかしら?』って、病院のベットの上でうわ言のようにタクミさんの名前を何回も呼んでてな。それで気になって俺と姉貴でこの日記を探して読んだんだ…………なぁ、ナナミ。お前とタクミさんがあの施設に入れられたときの経緯、覚えてるか?」



 僕が無言で頭を横に振ると、そうかと息を溜めてゆっくりと口をあける。



「……ナナミ。お前はこれから、自分がどうやって生きてきたかを振り返らないといけないのかもな。お前の周りの人、もちろんタクミさんは当然にして、それにあの『施設の子』も含めて。そして、その一番最初は、たぶん俺の母ちゃんの話だ」




(続く)

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