第3話 二人ぼっち
「おうち、楽しかったよ。でも、セラはタクミとナナミと遊ぶのも楽しいんだよ」
一時帰宅から帰るたびに、セラは弱っていく。
今よりも人々がその類の問題に無関心だった時代の話。僕も兄も、あの優しかった先生たちでさえ、それをどうすることも出来なかった。それでもセラは気丈に振る舞い、僕たちのような親族が迎えに来ないような子どもたちに気を使っていた。
一、
次の日は雨だった。
この地方の夏によく降るバケツをひっくり返したような雨。僕は一昨日、昨日とよく眠れなかった分を取り返すように十時過ぎに起きると、持ってきたパソコンでメールを確認する。
幾つかの事務的なメールにまぎれて、海外の雑誌に投稿していた論文のアクセプトを伝える英文メールが届いていた。普段の僕なら、それを喜んで声を上げただろう。でも今は、どこか心が冷めていてそのメールの本文も開くことなく、パソコンを閉じる。
一階のフロントに降りるとあの仲居が居て、挨拶をする。まだ僕に気づいていないようだった。
「何か食べるものありますか?」
フロントにそう尋ねると、朝食はもう終わってしまっていて、昼のバイキングは11時30分からと少し時間が空くようだった。それまで暇にしているのも嫌だったので、タクシーを呼んでもらい、駅前まで向かうことにする。
この街には第三セクターの電車が止まる駅が三つある。
どれも新幹線が通る前まではJRの駅で、そのうち二つにはちょっとした飲食店が併設されていて、本州の雑誌でも紹介されたことがあるくらいには人気の店だった。ただ、それも第三セクターになる頃には無くなって、今はその時の面影もない。
その中で一番大きな、初日におりた駅の前までタクシーでつける。
三千円ちょっとの料金を払ったついでに、この辺りでご飯を食べるところはないかと尋ねる。ああ、それならと年配の運転手が教えてくれた店まで歩くことにして、フロントで買った透明なビニール傘を広げる。ボツボツと雨粒が粗末な傘を揺らして、僕はある出来事を思い出した。
その日もちょうどこんな雨の日だった。
僕はいつものように保育園の送迎バスを降りて、傘をさして自宅に向かっていた。前の日に保育園の園庭で擦りむいた膝小僧に道路で跳ねっ返った雨粒が当たってしみる。早く帰って再放送のウルトラセブンを見たかったってことだけは本当によく覚えている。
僕が玄関にたどり着いて、いつも鍵をかけていない扉を開けると、兄が居間の方からゆっくりと廊下を歩いてくる。
僕の記憶の中のこのシーンはいつもスローモーションで再生されていて、本当の出来事がどうだったのか、実はよく覚えていない。
兄は当時通っていた小学校の制服のシャツのボタンを外しながら、僕に声をかけてくる。その声の様子はいつもとほとんど一緒で、僕は「おかえり」くらい言えばいいのにと思ったのも覚えている。
ご飯を詰めて保育園に持っていく弁当箱をちゃんと流し台に出せだの、保育園の服はちゃんと洗濯カゴに入れろだのいつもと同じ兄としての注意を僕に伝えてくる。
その最後になって、「あ、そうそう」と何かを続きを伝えようとする。
「やっぱり、母さん出て行くってさ。今日から二人っきりだな」
この台詞だけは31歳を迎えた今でも鮮明に再生することができる。抑揚のないいつもどおりの調子で、変声期前の兄の声で。
そして小学一年生の兄と、保育園児だった僕は、バブル景気に向かって豊かになっていく日本のなかで、二人ぼっちで飢えに苦しむ人間になった。
次の日から保育園に持っていく弁当がなくて困った僕達は、もう保育園を休もうという結論にたどり着いた。浅はかといえばそうなのだろうけど、当時の僕も兄もこれ以上のアイデアはなかった。
学校給食のある兄が「いつも給食のパンも牛乳も余るから、もらって来てやるよ」と言うと、その言葉が凄く頼もしげに聞こえて、兄を尊敬の眼差しで見上げた。思えば、線の細かった兄が僕の前ではいつも強がって見せていたのはこの時が始まりなのかもしれない。
僕がわぁと無邪気に喜んでいるのを見て、
「レーズンパンの時にはな、もっと余るんだよ。その時はいっぱい持って帰ってくるからな」
と、鼻をならしながら言う。兄は中学校が終わるまで、ずっと給食で余ったパンをもらって帰ってきてくれた。
それで幾日か過ぎた頃、僕達の前に日曜日という試練が訪れる。かろうじて、土曜日は半ドンの帰りに牛乳を確保できていたのに、日曜日は何もない。
僕が腹が減って声を上げて泣くと、兄もつられて泣いた。ただただ、どうしようもなくてわんわんと大声を上げて泣くしかなかったんだと思う。そこから数週間して、どうなってそうなったのか覚えていないけど、僕と兄はあの山奥にあった建物に連れて行かれることになる。
三、
ふらふらと足が勝手に動いて、あの二人ぼっちの家のあった場所にたどり着く。
そこはもう区画整理をされていて、ただの更地になっていたのだけれど、(あ、此処が玄関か)とか(だとすると、此処が台所か)とか、記憶を想起させていく。
裏にあったドブ川は
タクシーの運転手から教えてもらった寿司屋に着いた時にはもう十二時をまわっていて、カウンターの席はYシャツ姿のサラリーマンでいっぱいになっていた。近くの銀行の社員なのか身なりもきちんとしている人が多い。
「空いてますか?」
「ええ、カウンターでよければ。どうぞ」
やはりこの主人も中学の頃の同級生で、(ああ、やっぱりか)と心の中でつぶやく。この野球部だった彼からも酷いいじめを受けたのだが、気づく気配もない。
ここ数日のことで、僕はそれについて慣れていたし、何より朝から何も食べてなくて腹が減っていたせいもあって、あまり気にせずランチメニューだという寿司に手をのばす。
「……あの……お客さん、どうかしたんですか?」
坊主頭の主人が心配そうに覗きこんでいる。僕の両隣に座っていたスーツ姿の男女も怪訝けげんな顔で僕を見ている。「えっ」と自分の顔に手をやると、頬が濡れている。
僕はいつの間にか泣いていたのだった。
「どこか具合でも悪いんですか?」
と心配する店主に、「あ、いえ大丈夫です。すいませんでした」と、代金をカウンターにおいて店を出る。
自覚がない涙に僕自身が一番
兄さんと一緒に来たかったな、と――
(続く)
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