第2話 墓参り

「タクミ! ナナミ! ねぇ、エビ取りに行こ!」


 セラがそう言って僕らを誘うときは、決まって施設に帰りたくない日だって僕たちはだいぶ前から気づいていた。磯辺にいる透明なエビのような生き物を取るのを最初に教えたのは兄だったけれど、兄はもうとっくにそれに飽きていたのも知っていた。


 それでも、あの頃の兄は年長者という使命感だったのか、それとも単純にセラのことが好きだったのか、それはわからないにしても、ブツブツと文句をいいながらも必ず付き合ってくれた。


 その帰り道、あのコンクリートで出来た短い橋のあたりで、やっぱり決まって、「あーあ、検査行きたくないなぁ」と、ふてくされたように言うセラが、本当に行きたくない場所を僕たちは知っていたのだけれど、それと同時にどうしようもないってことも知っていた。



一、

 伯父の家に着くと、仏壇の誰かの写真に手を合わせるように言われて、儀式のようにそれを済ませる。僕にとってどこかで血がつながっている人なんだろうけど、正直、誰なのかさえわからない。


 線香と今年張り替えたばかりだという畳表の匂いが、田舎の家という雰囲気を出していて、普通の、少なくとも故郷に対して良いイメージを持っているような人であれば郷愁きょうしゅうのようなものを感じるのだろうか。あいにくと僕にはそのようなものはなくて、ただの少し鼻をつく匂いにしか感じない。



 伯父に呼ばれて縁側に出ると、伯母の切ってくれたスイカが皿に盛ってある。


 芝生も生えていない赤い粘度質の土が剥き出しになっているだけの庭には、小さな男の子が二人、それに赤い帽子を被ったそれよりも一回り小さい女の子が走り回っている。


「孫……だっけ?」

 僕がそういうと、伯父は目をまんまるにしてはぁと大きなため息をつく。

「ひ孫だ、ひ孫。お前達の従兄弟の孫だよ」

 やれやれという口調でそういう伯父の言葉を聞いて、伯父の横に座っていた伯母が

「ナナミはもう随分と帰ってきてなかったからね。仕方ないよ」

と、笑い出す。

 どちらも中学校の国語の先生だった伯父と伯母らしく、この地方の独特ななまりは出てこず、あるいはもう此処を離れて久しい僕のためにあえて方言を出さないようにしてくれているのかもしれない。庭で遊んでいる子供たちの方が、昔、僕や兄が使っていたような方言で話している。


「こうしてひ孫達を見ていると、お前達が子供だったときを思い出すなぁ」


 伯父がそういうと、「ええ、本当に」と伯母がうなづく。僕は表面上はそれを穏やかに聞いていて、心の中ではその話題が早く掻き消えるのを待っていた。


 軒先に吊るしてある風鈴がちりんと鳴る。



「…………そういえば高松君の墓に行く日決めておかないとな」

 思い出したように伯父が亡くなった恩師の話題を切り出したのを、僕はどこかほっとして聞くと、「伯父さんに合わせるよ。二十日までは休み取ったから」と答える。



(――違うよ、伯父さん。僕達はいつも痩せていてあんなにふっくらしていなかったし、それに、あんな綺麗な服なんて着せてもらったことなかったんだ)




二、

 明日に決まった墓参りの打ち合わせを終えて山の上のホテルの部屋に戻ると、僕宛の小さな封筒が届いていた。

 フロントに電話をして尋ねると、なんでも僕がタクシーに乗って出て行った直ぐ後で部屋の前に落ちていたらしい。確かに表にはサインペンのような太い黒字で僕の名前が書かれていて、一応、フロントの係の人が金属などが入っていないかを透かして確認したところ、そんな危険なものも入っていなさそうなので、僕の部屋に届けたとのことだった。

 僕もそれを部屋においてあったスタンドライトで透かしてみると、手紙のようなものが見えるだけで、他には何もなさそうだった。それにしても封筒が色せていて、その点がどうにも引っかかっていた。


 ええいと封を開け中身を取り出すと、二枚の便箋が出てくる。一枚は古くでボロボロになっていて、インクが滲んで文字が読めない。反対にもう一枚は真新しく、整った字で一行だけ文章が書いてあった。




 それを見た僕は慌てて客室の扉を開け、周囲を確認する。

 エレベーターはこの階で止まっている。エレベーターホールの脇にある扉を引いて、階段に出るとそこを下まで降りて、また屋上の手前まで上がる。三時間くらいも前のことなのだから、どう考えても封筒をおいて行った人物がこの場に居ないことは明らかだったのに、僕はそうしないと落ち着かないとわかっていた。




『八月七日、あの時行けなかった光礁ひかるぜを。あこう園で待ってる』





 その文章は、僕と兄、そしてあの僕たちの小さな友達だけが知っているはずの内容だった。


(一体、誰がこんなことを?)


 僕はそれから夕飯をとるのも忘れて、古ぼけた方の便箋に何が書いてあるのかを確かめようと頑張ったのだけれど、ついぞそれは叶わず、一ヶ月後にあの山奥の何もない場所でこの手紙を置いた人物に聞かなければならないようだった。




三、

 高松先生の眠っている墓は、僕たちの故郷の港町から離れた隣の市にあった。高松先生は僕の中学校の二年生と三年生の頃の担任で、僕が先生と呼ぶ人のなかで一番お世話になった人だと思う。そして、伯父の旧制中学校時代の後輩でもあった。


 たぶん、この人と伯父が居なければ、僕は大学に進学することもなくどこかでひっそりと死んでいたに違いない。

 大げさでもなんでもなく、両親もなく、年老いた祖母の年金だけで暮らしていた当時の僕や兄の生活は毎日の食事にも事欠いていて、高校なんか考えることもなく、かと言って中卒で働き口があるほどこの街は豊かではなかったので、ただぼんやりと最後には飢えて死ぬんだろうなと思っていた。


 高松先生は、僕が中学校に入った時にはもう三年生だった兄に進路指導の先生として高校進学を勧め、らちがあかない祖母を諦め、自分の先輩でもあった伯父に直談判し、高校へと進学させ、そして僕の時にも同じようにそれをしてくれた。



 ただ、僕の進学の時にはすでに祖母が亡くなっていて、生活費を含めて兄と僕の二人の面倒をみることはできないと伯父にはっきりと言われた。それでも高松先生は方々をあたってくれ、僕に

「ナナミ、高専に行け。勉強を頑張る限り、学費はタダになる。入学にかかる費用は先生がなんとかする。落ちたら、伯父さんの言うように働けばいい。だから最後、賭けだと思って受験して来い」

そう言って、二万円弱の受験料を出してくれた。


 不登校だった僕を、最後まで見捨てずにいてくれた唯一の先生だった。


 それでも高専や大学、そして大学院に進むにつれ、その思いはだんだんと希薄になって行き、正直なところ伯父さんからの連絡があるまで、高松先生のことなど忘れていたし、ここ数年の間、病気で入院していたことも知らなかった。


 伯父さんを恨む義理はないのだけれど、もっと早く連絡をくれていればちゃんと就職した今の姿を見せることが出来たのにと、考えても仕方ないことを行きの車中で少しだけ考えていた。

 他愛もない話題で伯父さんと笑っている伯母さんのあの時の不機嫌そうな顔と強い口調の言葉たちも、僕の頭蓋ずがいの奥にはまだべっとりとこびりついている。たぶん、僕がこの街に帰りたくない理由の一つなんだろう。




 高松先生の墓参りを済ませて、その奥さんの住む家で線香を上げ、伯父さんの家に戻る途中で、僕は伯父さんに寄り道を頼む。故郷の街に差し掛かってすぐの国道を、第三セクターの線路を横切って、山側に入って行く。


 田んぼの脇の小さな道を進んで、傾斜のきつい山道の下まで来ると、僕は車を止め、「ちょっと行ってくる」とトランクのなかに積んであったもう一束の仏花を取り出す。


 祖母の墓も、もう二十年ぶりくらいになる。


 僕の父親の兄である伯父にとって、母方の祖母の墓はいわば他人のそれであるらしく、車を降りようともしない。


 山道を五分ほど登っていくつかの墓が並ぶ場所に着くと、その中でも一番奥の崖になっている手前の祖母の墓の前に向かう。背の高いこの地方独特の墓は、表に彫ってある丸に剣片喰の紋がかすれて見えなくなっているものの、綺麗に掃除されていてまだ新しい花が左右に添えられている。その手前に置いてある湯のみには水が張ってあった跡がある。


 ――誰かが此処に来たことは確かだった。おそらく、あの手紙の送り主が。


 僕は花を添え終わると、誰かが来ていたことを伯父たちには告げず、黙って車に乗り込み、伯父の家を目指した。




(続く)

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