第9話 写真

「ひかるぜって知ってる? 海の岩がね、ぴかーって光るの」


 セラの言ってる『光礁ひかるぜ』は僕もその前の年に社会の地域のことを調べるっていう授業で習った内容だったし、兄もそうだったのだろう、「知ってるよ」と返事をしている。それがどうしたの、と兄が尋ねるよりも早くセラはあこう園の園庭を駆け出して、一つだけ設置してあった小さなブランコのところで僕と兄の方に振り返る。



「ねぇ、三人で見に行こうよ。ひかるぜ。セラとタクミとナナミの三人だけで」


 兄は優しく微笑む。


「今はちょっと早いかな。毎日出るわけじゃないし、夏がいいみたいだよ」

「見れる日と、見れない日があるの?」

 うんと兄がうなづくと、セラが見るからに悲しそうな顔をしたので、兄は慌ててこう続けた。


「光礁の光を見た人はほとんどいないんだけど……でもね、見たら願いが叶うんだ」




一、

 僕は岩切の言葉に打ちのめされて、ふらつきながら小田急に乗り、大和で乗り換えて相鉄線を職場に向かっていた。昼時ということもあって電車の中は空いていて、僕は座席に座りながらぼんやりと外を眺めていた。

 確かに、僕は岩切の言う通り兄のことについて無関心だったのかもしれない。

 僕は高専に進学してから、兄とゆっくり話しただろうか?

 大学への編入学のときは?

 ……そう考えると、ただただ胸が痛くなって窓の外を見るくらいしか出来ないでいた。


 上星川で降りて坂道を上がっていく途中で携帯が鳴っているのに気づく。

 電話をかけてきたのはまっちゃんで、八月七日にもう一度あの街に帰るときに泊まるところどうするんだとかそういう話を続けたところで、僕の暗い声に気づいて「何かあったのか」と心配してくれる。


 いや大丈夫だよ、というつもりが心の弱い僕は誰かに話して楽になりたいとどこかで思ったのかもしれない。まるで何かに向かって叫ぶようにまっちゃんに話していた。まっちゃんは、それを黙って聞いていてくれた。



「……ナナミ。その話、おかしいぞ」


 僕のどうしようもない話を全部聞いた電話口のまっちゃんは、冷静にそう一言いう。僕が「どうして」というと、まっちゃんは電話の向こうではぁとため息を吐いて、「いいか、よく考えてみろよ」と話し始める。


「俺も三流大学だけど大学に通って半期ごとの授業料半額免除受けてたからな。その条件とかは知ってる。お前の家計の状況だと普通は全額免除だろ? 確かに奨学金でカバーできない生活費とか入学金なんかはタクミさんが負担してたのかもしれないけど、それほどか? お前が罵倒されるくらいの? そんなわけないだろ」

「でも、だとしたら……」

「しっかりしろ! その岩切ってやつ、なんか隠してるか、嘘ついてるか、それともタクミさんにはお前以外に何かの事情があったってことだ。ナナミ、そっから藤沢って遠いのか? 引き返して、もう一回聞いて来い。そして、タクミさんがお前を邪魔者扱いなんかしてなかったってことを確かめて来い。タクミさんとお前の関係がそんな薄っぺらなものじゃなかったってことは、俺も母ちゃんも、姉貴だって知ってる。行って来い、ナナミ!」


 僕はまっちゃんの言葉を力に、今来た坂道を一気に下る。もう一度、自分の兄を確かめるために。




二、

 僕がもう一度藤沢に着くころには夕方になっていたので、昼間に聞いた岩切がやっているという居酒屋で待つことにした。駅の近くの喫茶店で冷たい珈琲をすすりながら時間をつぶしていると、次々に駅に到着する電車が帰宅するたくさんの人を吐き出していく。そうしてあたりが少し暗くなる頃に、僕は右手の拳をギュっと握って気合を入れると、南口から少し離れた岩切の店へと移動する。



「いらっしゃい……っと、へぇー早かったな」

 僕が来るのを予測していたかのように、岩切がグラスを拭きながら僕には視線を向けずに言う。まだ早い時間なのか僕以外に客はいない。

 「まぁ座りなよ」という岩切の言葉通りに、僕は六つ椅子が並んでいるカウンターの端から二番目の席に着く。その間もじっと岩切を睨みつける。


「何か言いたそうだな」

 岩切は僕の前にグラスを置く。

「……昼間の、あなたが昼間僕に言った兄の言葉はどこまでが本当なんですか?」

 ふぅんと息を短く吐くと岩切は、「どこまで、というと?」とおどけてみせる。


「僕の学費は……確かに兄の負担にはなってたと思いますが、僕は授業料免除もしていましたし、奨学金もありました。あなたの言う通り、兄が自分の稼いだ金を百パーセント自分のことに使えていたわけじゃない。でも……でも、勝手かもしれないですけど、兄がそれをあなたに愚痴っていたとは思えない。だから、こうしてさっきの話が本当なのか確かめに来たんです」

「やれやれ、金額の問題じゃないだろう……」

 そう続けようとした岩切を、僕はじっと睨む。

「わかった、わかった。ちゃんと話すから、そんなに睨むなよ……少し待ってろ」

 そう言って岩切がバックヤードに引っ込む。数分後に戻って来た時には、手に写真が握られていた。


「君が俺を探しているって片貝さんから聞いた頃から、毎日持ち歩いてたからな。ほら」

 岩切は二枚の写真を僕に渡すと、「呑んでくだろ?」テーブルに置いたグラスに赤ワインを注ぐ。


 色あせた二枚の写真には、あの施設に居た頃の僕と兄、そしてその間にセラが写っている。


 一枚目と二枚目の日付と僕と兄の着ている服は違うものの、構図は同じで、これは園の先生たちがそうさせていたことによる。セラだけが、二枚ともたまたま同じ赤いだぼついた服と白のスカートを着ている。


 僕が不思議そうにしていると、岩切が「裏だよ、裏」と、裏を見るようにうながしてくる。そこには黒のマジックペンで短い文が書かれていて、僕はそれを見た瞬間から視線を外せないままでいた。



「……それはな、タクミが倒れてから病室に行ったときに『弟に渡してくれ』って言われて預かったんだ。自分で渡せよって断ったんだけどな……それがさっきの答えだ」



 そういうと岩切は煙草に火を点けて、大きく吸い込んでからふーっと吐く。僕の両方の目からポタポタと涙が落ちているのを見た岩切は何か言おうとしていたのをやめ、僕から離れた場所に移動する。そこには震えた文字でこう書かれていた。




『ナナミ、大学院までよくがんばったな。兄ちゃん、うれしいよ。仕事がんばれよ』





三、

「…………もう平気か?」

 僕の嗚咽おえつが止むのをまっていた岩切が声をかけてくる。

 僕はポケットからハンカチを出して涙を拭うと、「すいません」と返事をしてグラスのワインを口に含む。僕にはワインの良し悪しはわからなかったけど、いつも出てくるワインよりも飲みやすく感じる。


 しばらく無言のままちびちびとワインを飲んでいると、岩切の方から「さっきは、その……すまなかったな」と切り出してきた。

「こちらこそ突然押しかけておいて、すいませんでした」

 僕も謝る。

 岩切は「いいさ」と言うと、空いたグラスにもう一度ワインを注ぐ。そのワインボトルを元の場所に戻そうとすると、何かを思い出したように「あっ」と声を上げる。



「そうだ、忘れてた。その二枚の写真な。お前に渡した後にこう言えってタクミに言われてたんだよ…………『違いがわかったか?』って。何かわかるか?」



 そう言われて二枚の写真を見返しても、何も違いはない。むしろセラに至っては着ている服まで同じだ。僕がぶんぶんと頭を振ると、


「そうか。あいつ、『弟は頭がいいから、すぐにわかる』って言ってたんだけどなぁ」


 と、ため息をつく。


 その瞬間、タイミングよく僕の携帯が鳴って、メールが届く。そこにはあの古びた手紙の復元が終わったので、職場のメールに画像を送ると書いてある。僕は岩切に断って、テーブルにノートパソコンを広げ、それを確認する。そこにはにじんでまったく読めなかった文字をはっきりと見えるように加工した画像が写し出されている。


 僕はその内容を見て慌ててさっきの二枚の写真を交互に見比べる。



「そうか……そうだったのか……兄さん、本当に、本当にありがとう……」



 僕は薄暗い店の電灯に二枚の写真をかざして、涙をためながらそう呟いた。




(続く)

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