第8話 面影

「タクミ……あっちで一緒に…………」


 そう言って兄が着ている誰かのお下がりの服の袖をセラがかるく引く。いつも明るくて元気なセラには、周期的に塞ぎこんでしまって周りの子どもたちとあまり遊ばなくなることがあって、そういう時は決まって兄と室内で遊んでいた。

 また、こういう時は毎回すぐに体調を崩してしまって、先生たちがあのスーツ姿の男を呼ぶことになった。


 その様子を離れた場所から見ていた僕や園の他の子供たちは、きっとセラは兄のことが好きなんだろうと思っていた。



一、

 次の週になって、僕はあの古ぼけた手紙を古文書などの復元サービスを行っている民間の会社に頼んだ。先に届いた見積はかなりの値段で、いつもの僕ならだいぶ迷ったんだろうけど、今回はすぐにお願いすることにした。手紙に書かれていた八月七日までに間に合わせたいというのもあったし、何より、中身が本当に気になっていたというのもあった。


 それと同時進行で、僕は兄の会社の同僚だった片貝かたがいという男と横浜駅東口で待ち合わせていた。


 何かの小説で読んだように、本当に増殖しているんじゃないかというくらい毎日様子が変わっていく横浜駅は、相変わらず人が一杯だったけど、片貝という人とは一度、兄が倒れた時にあっているので、たぶん見ればすぐに思い出せるはずだ。



 しばらくして、携帯電話が鳴る。


 僕はそれに出て、二言、三言話をしながら、あたりでキョロキョロしている男性を探す。(ああ、あれか)と僕よりも少し大きい痩せた眼鏡の男に声をかける。

「ご無沙汰しています、今回はありがとうございます」

 僕が丁寧に挨拶すると、「ええ」と少し詰まりながら頭を軽く下げる。スーツ姿で、おそらく会社帰りなのだろう、ビジネス用のカバンを下げていて反対の手のハンカチで額の汗を拭いている。僕は片貝さんをうながしてエスカレーターを降り、そごうへ向かう大通りを曲がって、軽くお酒が飲めるようなイタリア料理の店に入る。

 夕時には少し早かったものの、すでにテーブル席の多くは埋まっている。テーブルに着いて、いくつかの料理とワインを選んでから、ふぅと一息つく。僕は少しの間、近況について話をした後で、飲み物が届く前に本題を切り出した。


「先日別の用事で故郷の街に帰ったのですが、そこで兄について親族や兄の友人から色々と聞かれまして。と言っても、僕は最後には立ち会いましたけど、働いていた頃の兄のことは何も知らないですし……それで、あの時僕に連絡をしてくれた片貝さんであれば何か兄の当時の生活などご存知ではないかと思って連絡差し上げました。ほんの些細なことでもいいんです、例えば休日はどのように過ごしていたとか、会社での仕事の話とか、話せる範囲のもので結構ですので、教えていただけませんか?」


 片貝さんはまた額の汗を吹きながら、

「そう言われましても、あの時に話した以外のことはないですし、それに四年も前のことなのでもうあんまり覚えていないんですが……」

と、困惑したように返す。


 そこに料理とワインが届いて、僕はどうぞと勧める。しばらく、僕も一緒に料理を口にしながら待っていると、「ああ、そういえば」と何かを思い出したように話しはじめる。


「南別府君と仲の良かった元同僚が居ましたね。岩切いわきりっていう名前の。たぶん、南別府君と休日にどこかにでかけたりしてたような気がします。歳は同じくらいで、今はうちの会社を辞めていますが、ちょっと連絡を取ってみますよ。それでよろしいですか?」


 僕は「ありがとうございます、助かります」とお礼をいい、残りの時間で兄の仕事ぶりをいくつか聞いて、代金を払って片貝さんと別れた。


 片貝さんの話は四年前に聞いたのとほぼ同じで、営業だった兄の仕事ぶりは真面目で、営業成績もよかったもの、結構無理をするタイプで、年に何回か会社や出先で体調を崩すことがあったとのことだった。

 最後の日も同じように営業に向かった先の道路で倒れたことを考えれば、おそらくそうだったんだろうという印象を受ける。これと言って、新しい話はなかったことに少しだけ気落ちすると、(岩切って人の話を聞くしかないか……)と心のなかでつぶやいた。




二、

 それからまた数日経って、7月がもう終わろうとする頃に岩切という男から、僕の携帯あてに電話があった。電話口で簡単に自己紹介をすると、「ああ、君が」と少し大げさな反応を示す。


 電話で話してみると、今は藤沢市で居酒屋の経営をしているらしく、夕方から夜は時間が取れないから、昼間、こちらに来てくれないかということだった。僕はまだ有給休暇も三十日以上余っていたし、構いませんよと答えると、「見せたいものもあるし、必ず来てくれ」と、何か含んだような物言いをする。


 少しだけ引っかっかったものの、兄の情報を得る方法が他にない以上、僕は秘書の山口さんに頼んで、明後日の有給を申請するのだった。



「よく来たね」


 握手を求めてきた男は浅黒く筋肉質で髪の毛は黄色と、何から何まで僕とは正反対のタイプだった。

 小田急の藤沢駅から少し歩いた場所にあるマンションの一室に案内されて、中にうながされると、部屋の一角の壁には趣味なのだろうか、車の写真やサーフィンの写真がベタベタと貼ってある。


「ほら、これ」


 岩切はそう言って、その中の一枚を指差す。

 そこには何人かの男女と一緒に笑っている兄の姿が写っていた。こんな趣味があったというのは意外だったし、何よりこんなに楽しそうに笑っている兄を見るのが初めてだった。



「……意外だ、と思ってるんだろ?」


 岩切が缶ビールを一つ差し出しながらそういうと、僕はぐっと言葉に詰まる。岩切は少しだけ口角を上げ、自分の分の銀色の缶を開けると、「まぁ飲めよ」と僕にもそれを勧める。


「逆に、俺は君を見て『予想通り』だったけどな」


 そう言う岩切に、僕は缶ビールに口をつけないまま、「それはどういう意味ですか」と切り返す。


「そのままの意味だよ。タクミが話していた通りの感じってこと」


 岩切はもう一度ビールを呷る――少し、というかだいぶ印象が悪い。

 それはきっとお互いなのだろうが、しばらくの間会話の糸口を見つけられずに、嫌な雰囲気が流れる。



「……君は、タクミが何を考えて、どうやって生きてきたかってのを知りたいんだろ? 俺からしてみれば、兄弟の間でそんなことを、ましてや他人の俺に聞くなんてどうかと思うけどな――つまり、君はな、タクミに関してそれだけ無関心だったってことさ。大学入った頃の学費だったり、入学金だってタクミが払ってるのにな」



 何でこの男がそんなことを知っているのかということよりも、僕が兄に対して無関心だったと言われたことに関して激高してしまい、「違う!」と思わず声を荒げる。それでも岩切は悠然ゆうぜんと構えながら、残っていたビールを空けると続きを話し始める。


「じゃぁ聞くけど、君はこっちに出てきてからのタクミの何を知っている? アイツの趣味は? 仕事の内容は? 彼女は居たのか? ……何も知らないだろ?」


 言葉に詰まる。そんな僕を見て、岩切は視線を写真が貼ってある壁に移す。


「……たまに君の話をしていたよ。最初の頃、まだ俺も会社員だったときは『自慢の弟』だった。でもな、タクミと一緒に遊んだりするうちに、君の学費の話だったり、連絡がなかったりすることについての愚痴が多くなった。君が誰にも相談せずに大学院に進むのを決めたことだって、これまで学費の一部を出していてくれたタクミに一言あってもよかったんじゃないか?」


 僕が答えられないのを横目に岩切が続ける。


「君は自分で苦労して頑張ってきたと思っている。それはそれで正しい。受験勉強もその後の勉強や試験も君の努力だ。でも、周りの援助は本当になかったのか?」


 そう言ったところで、岩切は目を閉じて息を溜める。



「君のこれまでの人生は確かに苦労の連続だったかもしれない。俺も君たちの小さい頃の話は聞いているからね。でも、それが『誰かの犠牲の上で、その程度に軽減されていた結果だった』ということに、君は気づいていなかったのさ。


 少なくとも高校を出た後は、タクミはタクミで自由に暮らしていけるはずだった。それを君の面倒をみたり、大学の学費だったりでいつも百パーセント自分の好き勝手にはできなかったはずだ。自分の働いた給料なのにな……知っていたか? アイツにはな、年下の彼女が居たんだ。こっちに来てからのな。そんな中でも、君の学費の都合をつけていたんだぞ?」



 ――知らない。聞いたこともなかった。


 そもそも僕は高専に進学してから、兄さんとそんなに話していただろうか。僕は岩切から聞かされる僕の知らない兄の姿に、完全に自分を失い、夏だというのにガタガタと震えていた。



「君は悲劇のヒーローだったのかもしれないけどな、アイツもそうだったってこと、君は忘れてはいけないんだよ」




三、

 祖母の家は二階建てになっていて僕と兄はいつも二階に布団を敷いて寝ていた。

 風呂はなかったので、白飯と味噌汁に漬物が何枚か、それに何か別にあれば豪勢な方という食事が毎日で、僕たちはそれを早々に平らげるとほとんど映らないテレビに愛想をつかして二階の自分たちの部屋でよく話しをした。


 施設から引き取られて間もないころは、まだ僕へのいじめもそれほど酷くなかったので、みんなはどうしてるだろうかとか、それにセラの話題をよく話した。学年が上がっていくにつれ、僕は不登校になっていき、たまに出た学校で受けたいじめのことも兄には話さなくなっていた。



 そうやって月日が流れて、僕の中学卒業の年になって、祖母の具合がいよいよ悪くなり入院する頃になると、高校二年生になって帰るのが遅くなってきた兄とはほとんど話すこともなくなっていた。



 その日も兄は夜遅くに帰ってきた。



 一瞬だけ電気が点いて、隣の敷いておいた布団に寝転がる。


「ナナミ、起きてるか?」


 僕が「起きてるよ」と言うと、兄は「さっき、伯父さんのところに行ってきた」と返す。僕の進路の話だったんだろう、高松先生に何か言われたのかもしれない。僕は言いたいことも何もかも押し殺して、黙っていた。



「……なぁ、ナナミ。セラのこと、覚えてるか?」



 意外な質問だったけれど、僕がそれを忘れるはずがない。「もちろん覚えてるよ」と答える。


 それからしばらく黙った兄が起き上がって豆電球だけを点ける。そして僕ににっこりと笑いながら、


「ほら、見ろよ」


はりの上に飾られていた母方の先祖の写真を指差す。


「覚えてるか? まだナナミが小さかった頃に、この写真見て『見られてるみたいで怖い』って言ってたの」


 兄が吹き出しながら言う。僕は少しふてくされたように「覚えてるよ」というと、兄は続きを話し始める。


「この人たちな、誰も大学に行ったことないんだって。伯父さんの家がどうまでは聞かなかったけど、母さんの親族には誰もいないって、よく考えると凄いよな。もう平成だってのに」

「それがどうかしたの」

 僕はそう尋ねた。


「だから、ナナミ。お前くらいは大学に行け。兄ちゃん高校卒業したら働くから。伯父さんにも頼んでおく。だから、お前は大学に行け」



 あの時、確かに兄はまたにっこりと笑ってこう言ったんだ――




(続く)

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