小さな浜辺と鈍色の指輪

第11話 小さな浜辺と鈍色の指輪


 海岸沿いに南北に走る国道には、いまだに片側一車線しかないような区間があって、その区間内に止まる第三セクターの駅で一両しかない電車を降りる。


 降りた途端に目の前に広がっている海岸線から潮風が吹いて、このところ忙しくて少し伸びすぎていた髪を揺らす。口うるさい母がまだ生きていたのなら、「だらしがない」と叱ったのだろうか。僕はそのオレンジ色をした堅い切符を誰もいない駅舎の改札に置かれた箱に入れて、駅を出る。


 すぐ脇にあるまだJRの駅だった頃からある駅舎の蕎麦屋を過ぎて国道の駅側の歩道に出ると、眼前には細い道路と反対側の歩道とあちこち錆びて茶色くなっているガードレール、古ぼけたバス停――それに青い水平線が見えている。


 夏というにはまだ少し早くて、僕も薄手の上着を羽織っていたのだけれど、なんだかそれが馬鹿らしいように思えてきて、脱いで肩にかける。

 国道のすぐ脇はこの区間ではほとんど崖になっていて、この場所から見ると、国道の先に東シナ海が伸びているように見える。水面のところどころから岩礁が顔を出していて、それにぶつかった波が白く、そしてキラキラと輝く。


 そう言えば、このあたりの海岸には伝説というまでは仰々しいものではないものの、一つの言い伝えのようなものがあって、初夏から秋口までの夕暮れ、あるいは早朝に海に浮かぶ小さな岩礁が日の光と同じオレンジ色ではない、幻想的な銀色に光るらしい――と言っても僕はそれを結局一度も見ることはできなかったのだけれど。



 海と駅舎を挟んで反対側の奥にはそれほど高くない緑に覆われた山々が続いていて、海も山も同時に目の奥に入ってくる。叔父が住んでいたそのあたりの集落も、誰もいなくなってしまい、地区の名前が一つ地図から消えてしまった――そういう寂れた町だった。



 僕はしばらく国道沿いに歩いていく。


 すぐ横の国道はまだ昼だからか、時折トラックが通るくらいで車も少ない。

 道路とは反対側の脇には第三セクターの線路が同じ方向に続いているのだけれど、そちらも、さっき僕を乗せてきた電車が行ったっきり、何も通る気配はない。時折、思い出したように風が吹いて、ただ静かに時間が過ぎていく。



 三十分ほど歩くと海岸線は少し目線の奥に引っ込んでしまって、代わりにぽつんぽつんと民家が見えてくる。どの家も潮風で表面は傷んでいて赤錆が浮いている。

 それからもう十五分ほど歩いて、砂浜が見え始めると誰もいないはずなのに、子供たちの「わぁわぁ」という声が聞こえてくるような気がする。僕は小走りになって細い国道を跨いでいる横断歩道を横切る。



 何もかも――――あの時のままだった。



 狭い、軽トラックでもなかなか入れない小路の入口には小さな駄菓子屋があって、そこから小路はずっと西側に海岸線までまっすぐ伸びている。路の両脇には民家があって、少し離れたところに小さな小学校がある。まだ廃校になってなかったんだと、嬉しくなってよく見ると、小学生だった頃の僕たちが通った通学路は、『子供の飛び出し注意』という標識までがそのまま残っている。



 駄菓子屋のサッシの引き戸を開けると、売り物まであの時のままで、今では見たこともないような名前のわからない駄菓子が並んでいる。


 僕はその陳列棚の下に、氷水をいれた青いバケツを見つけると、そこに刺してあった割りばしを一本引き抜く。割りばしの先には綺麗な緑色をしたキュウリが刺さっていて、よく見るとバケツのすぐ隣に置いてある段ボールの切れ端に10円と書かれている。僕は――あの頃もそうしていたように――財布から10円玉を取り出すと、陳列棚の端に置かれたクッキーの空き缶に入れ、レジの奥の畳が見える部屋に向かって声をかける。


「おばちゃん、ここに置いとくよ!」


 顔を出すわけでもなく、畳の部屋の奥から「あーい」と弱々しく返事があると、僕たちが小学生だった頃からお婆さんだった駄菓子屋のばあちゃんもまだ元気なんだと安心する。



 東京の大学に進学して、そのままここから逃げるように都内で働くようになって、もう何年にもなる。


 僕の記憶のなかのこの町はだいぶ霞んでいたのだけれど、この町に住む人々にはあの時と同じままの日常がずっと続いていて、時間が止まっているのかと思えるほど変わっていない。

 僕は浅漬けになっているわけでも、味がついているわけでもない、ただ冷やしてあるだけのキュウリにかじりつきながら、でこぼこ道を海岸までまっすぐ歩いていく。

 自分の少し前にいたハンミョウがひょーんひょーんとまるで道案内をするように、僕の一歩前、また一歩前へと飛んでいく。


 そうやって、誰も名前を知らない古い神社の鳥居の前を過ぎて、あの道を越えれば――――



 そこには僕たちの秘密の砂浜が広がっていた。



 低い堤防で区切られた先には細かな白い砂が両端の岩山で遮られるまで続いていて、そこに半円状に波が入ってくる。そんな小さな小さな湾のなかに穏やかな波が寄せて、そして返すと、湿った砂が花びらのように見えることから、地図アプリにも名前が載っていないその砂浜を、地元の人間は『花咲浜はなさきはま』と呼んでいた。


 僕はしばらくの間、誰もいない、地元の人間だけが知っているこの小さな砂浜でぼうっと波を見ていた。


 子供の頃はこんなにもじっと見ることはなくて、だいたい遊び場として浜を駆けていて、そこには何人もの友達が居た。頭に思い浮かんだ順に「そう言えばアイツはどうしてたんだっけ?」と、時折、右手のキュウリをかじりながら思い返していく。


 一人はここから少し離れた県庁所在地で嫁さんと子供と暮らしてるって年賀状にあったっけ。そういえば、クラスのアイドルだったあの子は横浜で旦那さんとフランス料理の店を出してるって言ってたな、行ったことはまだないけど。

 あのガキ大将は確か野球選手になろうとしてどこかの球団の二軍に――と、ぶつぶつと独り言を言っているうちに手元のキュウリはいつの間にかもうなくなっていた。



「…………相変わらず、”独り言”多いよね」


 突然の後ろからの声に吃驚びっくりするわけでもなく、まるで昨日もそうしたかのようにゆっくりと振り返る。


 そこにはもうすぐ30歳になろうとしている浜辺を駆けまわっていた子供の一人が立っていて、やはり僕と同じように手には割りばしに刺さったキュウリを持っていた。胸や尻など年相応の体つきになっていたその同級生は、黒い髪を後ろでまとめて、あの頃はかけていなかった眼鏡をしているものの、右頬の真ん中、涙の通り道にある黒子と、特徴的な耳の形があの頃のままだった。



「いいだろ、別に。平日の昼には"ここ"には誰もこないよ」

 そう言って僕はいつもの癖で右手で襟足を掻く。

「……それ、前から『やめなさい』って言ってるでしょ」

 はぁと僕はため息をつく。ひょっとしたら、つい先週別れたばかりの二年間付き合った彼女よりも、こいつの方が面倒くさいのかもしれない。「はい、はい」と適当に返すと、ふんっとそっぽを向く。


「で、今度は何があったわけ?」

「……何が、とは?」

「あんたがここに来るときはだいたいなんか会った時でしょ。前に来たときは、就活で失敗して死にそうな顔してた」

 そうだっけ、と思い返して苦笑いをする。確かにそうだったかもしれないなと、また襟足を掻く。

「だから、それをやめろって。フケが舞うのよ、それ」

「ああ、ごめん」

「……で、何なの?」

 上手く誤魔化せると思っていたわけではないけど、敵わないなとため息をつく。

「彼女と別れてな。少しは結婚も考えてたんだけどさ……住む世界が違ったというかなんというか……」

 僕がそう言うと、少しだけ気まずそうな顔をして俯く。言葉つかいがぶっきらぼうなのに、意外と物事を気にしがちなのも、昔のまんまだった。


 お互いに次の言葉を見つけられないでいた。




「なぁ、光礁ひかるぜってこの浜でも見えるのかな?」


 僕の方から沈黙を破る。


「さぁ……あ、でももう少し南の方の岩場の方じゃなかったかなぁ。ほら、セラちゃんたちが住んでたあたり」

 すっかり忘れていたほんの少しの間だけ一緒に過ごした同級生の名前が出てきて、ちょっとだけ驚く。


「なぁ、ちょっと行ってみないか? 確か、今くらいの夕方に見れるんだろ?」

 僕はそう言うと堤防に立ち上がって、亜弥に向かって手を差し出す。子供の頃と同じように僕の手に左手を伸ばした亜弥が、何かに気づいて、とっさに手を引っこめる。

 僕はその薬指に鈍色に光っているものを見つけたのだけれど、気づいていないふりをすることにした。



 止まっているように見えるこの街でも、時間は確実に流れているという当たり前の現実を突きつけられて、少しだけ、ほんの少しだけ胸のあたりが痛んだ。




(続く)

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