それでも貧乏な子は大学に行く
トクロンティヌス
タイムカプセルとおまじない
第1話 帰郷
東シナ海に面したある地域に、古い言い伝えがあった。夏の夕暮れ、あるいは早朝に海に浮かぶ小さな岩礁が日の光と同じオレンジ色ではない、幻想的な銀色に光るという。また、その光を見たものは幸せになれると言われている。多くの伝説がそうであるように、どうしてそのような話が出来上がったのかは定かではない――ただ、それはバラバラになっていた僕たちをつなぐ、大事なものとして、確かにそこに存在していた。
一、
「……セラちゃん、やっとゆっくりできるね」
そう先生がボソッと呟いたのを、今でも鮮明に覚えている。真冬の寒い日だった。この南国には珍しく雪が降ったその日、僕と兄、そして先生の三人だけが見送るなかで、その小さな友人は、
第三セクターの駅で降りて改札を出ると、高速道路の建設を目指す時代遅れのスローガンがかかれた看板に、色あせた何かの動物の銅像が出迎える。もう長いこと手入れをする人がいないのであろう、ロータリーの中央の植え込みのツツジは半分以上が枯れている。
駅の正面にある漁港から吹いてくる湿った潮風が、べっとりと肌にまとわりついてきて、「ああ、帰ってきたんだな」とそう思わせる。
僕は十数年ぶりに故郷に帰っていた。
とはいっても、すでに実家と呼ばれるものはないし、親戚も伯父の家族が住んでいるだけで、元々友達も少なかった僕にとっては、故郷と呼べるのかどうかさえ怪しい。それに、生まれ自体も別の県だったのだし、故郷というよりは幼少期を過ごした街の一つというのが近い。この街にいると、幼少期の嫌な出来事を思い出してしまって、成人してからは自然と足が遠のいていた。
十年も連絡を取っていなかった伯父から突然連絡をもらい、伯父の後輩でもあった中学校の頃の恩師が亡くなったというので、あまり気乗りしないまま、この小さな港町に赴くことになった。
駅前ロータリーの右側の端に暇そうに止まっていたタクシーに乗り、助手席の後ろに貼ってある運転手のネームプレートを見ると、偶然にも中学の同級生だったのだが、彼は僕に気づくことなく、他の客にもそうしている様にかしこまって「お客さん、どちらまで?」と声をかけてくる。僕が行き先を告げると、少し驚いたような顔をして、「え、ええ。わかりました」と車を走らせる。
車は海沿いの国道を離れ、山の中を走っていく。
それでもしばらくは田畑が見えて人の気配がしていたが、もうしばらくすると道幅は車一台通るのがやっととなり、あたりに人家はなくなってくる。
そこからさらに数分車で山道を上がると、道は行き止まりになっていて、そこには『売土地』と不動産屋の連絡先の書かれた立て看板のある開けた場所に着く。
「しばらく待っていてもらえますか?」
僕がそういうと行き先を聞いた時と同じように目を丸くして、はい、と運転手が答える。確かにこんな何もない山奥で急にこんなことを言い出したら、奇異に映るだろうなとは思う。
――それでも此処には来たかったのだ。二十年ぶりに。
雑草や野辺に咲く花々が、時折吹いてくる風でゆらゆらと揺れると、あたりに二十年近く前と同じような子供たちの声がするような気がして、まさかと思ってもつい首を左右に動かす。もちろん人の姿はなく、居るのは不審そうに僕の方を運転席から覗き込むあの運転手だけだった。もう一度、夏風が吹き抜けて行くと、僕も諦めたようにタクシーへと戻る。
タクシーに乗り込むと、僕は「この街で一番高い場所というと、どこでしょうか?」と尋ねる。突拍子もない質問に
「ああ、それでしたら此処よりもだいぶ海側の山の頂上にホテルがあるんですが、そこの屋上が多分一番高いんじゃないですかね。昔、国民宿舎だったところ」
運転手が振り返り、僕の顔を見ながらそう言う。
「……そうですか。ホテルならちょうどいい。ではそこに行ってください」
最初に来た道をしばらく走っていたところで、「お客さん、この街は初めてですか?」と、運転手がまだ不審そうに尋ねてくる。
僕はそれに「伯父が住んでいるんですよ」と、窓の外を眺めながら答える。
窓の外には名前もしらない木々が
此処からあの国民宿舎までなら、三十分ほど。うとうとするには最適だろう、と考えでてのことであった。
二、
一万と数百円の料金を払ってタクシーを降りると、「また次も呼んで下さい」と写真付きの名刺を渡される。名刺の右脇に載っていた写真は、確かに中学の頃の彼の面影があって、(絶対に呼ぶものか)と声を出さずに呟く。
とびこみではあったものの、幸運なことに滞在を予定していた全日程で部屋が取れたので、そのまま荷物を預ける。下がズボンになっている簡易の着物をきた女性の仲居が僕の荷物を持って、「ご案内します」と先に行く。
あの運転手と同じく中学の頃の同級生であったにもかかわらず、やはり、僕のことには気づかないようだった。
それもそうだろう。
僕は
受付に「屋上に近い部屋を」とお願いしたので、エレベーターに仲居と一緒に乗り込む。、仲居の方から声をかけてくる。
「お仕事ですか?」
「いいえ、知り合いの葬儀に」
仲居が申し訳無さそうにすいませんと頭を下げる。気まずそうな顔をして中からホテルの外の景色が見えるようになっているエレベーターの階数ボタンを押す。
ホテルの外に広がるそこそこ綺麗な景色が縦に動き始める。
「どちらからいらしたんですか?」
「え、どうしてですか?」
「お客様、垢抜けてるというか……都会っぽい感じがします」
僕は頭が痛くなりそうな答えを聞いても、「そうですか、ありがとう」と当たり障りのない返事をしておく。それでもその先の答えを期待しているような目でこちらを見るので、「横浜です」と答えると、
「うわぁ、カッコいい!いいですね、何回か行ったことあるんですよ」
と、やっぱり頭が痛くなりそうな返事が返ってくる。その後のやりとりも似たようなもので、(この人、こんな感じの人だったのか)と驚く。
仲居がそのやりとりの中でふと見せた笑った時の口を手で隠す仕草で、「あっ」と当時のことを思い出す。
僕は小学五年生の時にこの仲居と同じクラスだったことがあって、文化祭で踊るフォークダンスの練習中にこの仕草で笑われたことがあった。その頃の僕は、兄と二人で祖母の家に住んでいて――――とにかく貧乏だった。
祖母の家には風呂がなく、一週間か二週間に一度、近くの伯父の家で入らせてもらうような生活で、これが県外の学校を受験してこの街を出て行くまでの間続いた。
その頃の僕は、とても酷い臭いがしたに違いない。
この仲居は他の女子と一緒に鼻をつまみ、フォークダンスの際の手を触ることを拒否して、学級の担任がそれを諌めると、「だって、臭いんだもん」と言い、さっきと同じ仕草で笑った。それにつられて学級の担任も大笑いをし、僕は恥ずかしさで顔を真っ赤にしたものの、誰も助けてくれる人などいなかった。
結局、僕はその文化祭を欠席して、祖母の家の裏の山のなかで、ただじっと夕方になるのを待っていたのを覚えている。
僕を彼らが覚えていないように、僕も彼らのことを何も知らない。
それはある意味当然で、いじめを受けていた頃は彼らの趣味だったり、考え方だったり、好きなミュージシャンだったり、変な癖だったり、そんなものを知ることなんて出来なかったのだから。僕はあらためて、この街が幼少期に数年間をただ過ごしただけの場所だったことを確認する。
「タクシーを一台お願いできますか? 可能であれば、さっき乗ってきたタクシー会社とは別の……ええ、一時間後にお願いします」
このホテルから少し離れている伯父の家に行くため、タクシーの配車をフロントに頼むと、真っ白なシーツが敷かれているベッドにごろんと身を投げ出す。
飛行機と新幹線、それに第三セクターの電車を乗り継いで疲れているのも確かで、寝転がると直ぐに眠気がやってくる。
ぼんやりとした意識のなかで、どこからか「おかえりなさい」とだけ、小さな声が聞こえたような気がした。
(続く)
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