第9話 伊都は気づかぬうちに信用を得たようです
……それから、幾しばらく。
時間にして、真人の運転する車(セバスに負けず劣らずの、滑らかな運転であった)に乗せられてから、20分少々。「――ここだ」促されるがまま車を降りた伊都と華子を出迎えたのは……一軒の、小さな喫茶店であった。
喫茶店の外観は、何処となくログハウスを彷彿とさせる。けっこう洒落た外観だけれども、事前に真人から説明がなかったら、ここが店であることすら気付かなかっただろう。
何せ、喫茶店だというのに、店の前には看板はおろか立札すら設置されてはいない。そのうえ、店が開いているのか閉まっているのかすら、外からは分かり難い。
辛うじてドアの鍵穴の少し上に『OPEN』の札が掛けられているが、商売をする気が有るのか無いのか。趣味でやっているかもしれないが……まあ、いい。
外観が何であれ、例えそう見えなくとも、喫茶店なのは事実。「へえ、いい雰囲気ですね」実際、案内されて中へと先に入った華子の感想がそれであり、僅かに香る匂いは珈琲のソレであった。
店内は、外観に見合う内装をしていた。カウンター席が4つに、テーブル席が二つ。客の姿はなく、全体的に木目調のそれらは清潔に保たれており、店の奥からは人の気配がしている。
……耳を澄ませば、流されている音楽が聞こえて来る。
誰かが演奏を……いや、違う。ラジオの音だ。伊都には分からなかったが、流れている音楽は少し前(だいたい、5年ぐらい前)に少しばかり流行った曲である。
この店の趣味なのか、たまたまこの音楽が掛かっているのか。それは店の者以外には分からない事だが、「……懐かしい」その音楽を知っていた華子が、少しばかり反応を示していた。
……時刻は、既に18時をとおに回っている。
梅雨の足音が徐々に迫って来ている6月とはいえ、外は僅かばかり薄暗くなっている。外灯とは違う、それでいて店内の雰囲気を崩さないように計算された照明によって、店内は何処か温かい雰囲気が醸し出されていた。
「俺はちょっと店主を呼んでくるから、メニューでも見ていてくれ。奢るから、遠慮はしなくていい」
そう言い残すと、真人は店の奥へと入って行った。
「……相変わらず強引な兄ちゃんだ」
後に残された華子は、一つため息を零して近くのテーブル席に腰を下ろした。次いで、何処となく慣れた様子でメニューを手に取ると、真剣な眼差しをそこに向けた。
……沈黙が、訪れる。
まあ、当たり前か。店内には、華子と伊都の二人しかいないのだ。その内、積極的に会話を行うのは華子であり、伊都は常に受け身側。なので、華子が黙れば場が静かになるのは必然であった。
(こ、これが噂に聞く、き、喫茶店……な、なんとハイカラなのでしょうか……!!)
……とはいえ、例え華子が話しかけたとしても、今の伊都にまともな返事を期待しても無駄であった。
そう、お察しの通り、これが伊都にとっての喫茶店デビューである。
コンビニ初デビューに加えて、二度目の初体験。
そういう店があることは人伝で知っていたので、何もかもが未知というわけではなかったが……やはり、実際の空気の前では何の役にも立たない程度のモノであった。
……いちおう伊都の名誉の為にも補足させてもらうなら、何も飲食店に入った経験がないわけではない。
ただ、伊都が入ったことのある店は……こう、昔ながらの食堂というか、まあ……そういうやつだったという話だ。
「……? 伊都ちゃん、座らないの?」
何時まで経っても席に腰を下ろさずに立ちっぱなしの等身大市松人形に気づいた華子が、不思議そうに市松……いや、沈黙している伊都を見上げる。
「す、座りますよ……ちょ、ちょっとだけ心の準備をしていただけです」
「心の準備……って、何の準備? ほら、隣においでよ」
「お、お気になさらず。もう、大丈夫ですから」
当然といえば当然の流れに、伊都は少しばかりぎこちない動きで椅子を引くと、華子の隣に腰を下ろした。学校のモノとも違う、独特なクッションの弾力に……むふう、と鼻息を吹いた。
次いで、メニューを手に取る。
さあ、自分も遂にハイカラデビューだぞと、一人意気揚々とメニューを開いた伊都は……すぐに、閉じた。そして、もう一度開き……ごくりと、唾を飲んだ。
――こ、珈琲(こうひい)だけで、いっぱい種類がある……!
それは伊都にとって、正しく青天の霹靂、叩きつけられたイナズマに等しい衝撃であった。誰が聞いても大げさだろうと思うだろうが、伊都にとってはそれぐらいの衝撃であった。
何故なら、伊都にとって珈琲はあくまで苦い飲み物に過ぎない。豆の種類だとか挽き方だとか濃さだとか、そういうのが有るということすら、伊都の頭にはなかった。
例えるなら、お茶は麦茶しかないと思っていたところに、紅茶やら緑茶やらウーロン茶やらルイボスティーやら、実は両手両足では到底数えきれない種類があると教えられたようなものだ。
しかも……イナズマは珈琲(こうひい)だけではない。
様々な珈琲の名と値段が記されたページの隣には、これまた様々なデザートの名が印字されていて、さらにページを捲れば幾つか……そのほとんどが、伊都にとっては未知の文字列であったのだ。
(い、『苺のしょうとけえき』は分かるのですが……ほ、他がさっぱり分かりません……!)
ここは無難に、ソレを頼むべきなのだろうか。
それとも、思い切って冒険をしてみるべきか。
どちらを選んでも初めてなこともあって、伊都はどちらを選べば良いのかが分からなかった。
「……伊都ちゃん、もしかして喫茶店は初めて? というか、こういう感じな店に入るのも、初めてだったり?」
そうして、伊都がひとり頭の中で悩んでいると。不穏な気配を漂わせた伊都に気づいた華子が、話しかけてきた。
ハッと我に返った伊都がメニューから顔を上げれば、小首を傾げている華子と目が合った。
「……お恥ずかしながら、何を頼めば良いのかが分かりません」
「あ~、そっか。まあ、初めてだとちょっと緊張するよね。私も、初めてマックを一人で利用した時は意味もなく緊張したよ」
あははと笑う華子を前に、伊都は頬を赤らめる。
……まあ、今更隠しても仕方がない。
そう思った伊都は、「メニューを見ても分からないのです、何を頼めば良いのでしょうか?」素直に華子に助言を求めた。すると、華子は「別に、好きに選べばいいんだよ」そう答えた。
「どうせ奢りだし、不味かったら不味かったで話しの種になるし、こういうのはちゃっちゃと選んじゃえばいいんだよ」
そう、華子が答えた……直後。
「――すまない、待たせた」
店の奥から、真人が戻ってきた。「あ、いえ、そこまで待って、は……」ほとんど無意識の内に、そちらへと振り返った二人は……奇しくも、同時に絶句した。
何故かといえば、真人の背後より姿を見せた男に問題があったからだ。一言でいえば、迫力が凄いのだ。ぶっちゃけてしまえば、滅茶苦茶怖そうであった。
パッと見た限りでも2メートル近くあるのではないかという長身に加えて、体格やら筋肉やらが凄い。首も胸も腕も足も分厚く、シャツが今にも破れそうなぐらいにぱんぱんになっている。その上に身に纏ったエプロンが、まるでコスプレをしているかのように似合っていない。
無差別格闘技の世界チャンピオンと自己紹介されたら、疑うことなく納得してしまうぐらいに筋肉が隆々としている。遠目からでも、露わになっている肌に血管が浮き出ているのが見える。素手で、リンゴどころかパイナップルを引き千切りそうだ。
これで顔が優しければまだ良かったのだが、室内なのに付けたサングラスと、もじゃっと生やした髭。この二つのせいで、その外見すら恐ろしい。片手に持ったトレーに乗せられた三つのグラス(お水)の違和感も、凄い。
この場に真人がいなかったら、仮に一人でいる時にこの男が現れたら……まず、だいたいの者が怖がって逃げ出してしまいそうな……そんな、風貌をしていた。
……いちおう言っておくが、大げさではない。現に、華子は完全に言葉を失くしていた。
ぽかんと開かれた大口は閉じられる気配はなく、その目には先ほどまであった楽しげな様子は欠片もない。
ほとんど、無意識の行動なのだろう。腰も引けていて、その男から少しでも距離を取ろうとしているのが……伊都の目に映っていた。
「――俺の名はミスター・ダンディ。本名は言いたくねえから、ダンディと呼んでくれ。この店を切り盛りしている、しがない店長だ」
見た目も怖いのに、声色も低くて怖かった。
「あ、は、はあ、店長さん……ですか」
「おう、ついでに言えば、コックでもある。少しの間だけだが貸し切りだ……遠慮せずに注文してくれ……!」
恐る恐る……文字にすればそんな感じで返事をした華子に対して、ダンディと名乗ったその男(店長兼コック)は、にやりと笑った。
途端、びくっ、と華子は背筋を伸ばし、慌てたようにメニューへと視線を向けた。
……おそらく、ダンディ的には、にっこり笑ったつもりなのだろう。それでいて、怖がらせないように優しく話したつもりなのだろう。
だが、傍目から見る限りでは、それは笑顔でもなければ優しそうにも聞こえなかった。
それはまるで羊を脅す狼のように鋭く厳つく、子供が見れば100人中100人が泣き喚いて逃げ出しそうな凶悪な表情であった。
「店長、俺はアイスコーヒーを一つ……頼んでいいのかな?」
「おう、今のお前は客だ。代金は安くしたりはしねえから、遠慮なく頼め……で、そっちは?」
「――えっ」
「まだ決まってないのか? それなら先にコーヒーを用意してくるが、どうする?」
この店に案内しただけあって、真人は慣れているのだろう。特に怖気づくこともなく注文をし、テーブルを挟んだ向かい側に座る。
ダンディも気にした様子もなく、手早くグラスをテーブルに置いて……その視線が、伊都と華子の二人へと向けられた。
「じゃ、じゃあ、この和風サラダパスタを……」
「なに、サラダパスタだあ?」
「い、いえ、面倒なら違うのでも私は全然――」
「中々良いチョイスをするじゃねえか。今日は新鮮な野菜が手に入ったからな、上手いパスタを作ってやるよ」
「あ、ありがとうございます……」
「それで、デザートと飲み物は? コーヒーは苦手かい?」
「え、いや、苦手ってわけじゃ……」
「それじゃあ、特製カフェオレと特製コーヒーゼリーだ……で、お前は?」
何やらしどろもどろしている華子を他所に、ダンディの視線が華子から伊都へと向けられる。
それを受けた伊都は、緊張している華子と、こちらを見つめる真人と、見下ろすダンディを前に……伊都は、微笑んだ。
「おススメは、何でしょうか?」
その瞬間――伊都の目には、ダンディが少しばかり驚いたように見えた。いや、華子と真人も息を呑んだ気配が……伊都には思念として伝わって来ていた。
「……そうだな、オムライスだ」
時間にして、数秒ほど。間を置いたダンディは、そう言葉を続けた。
「それでは、それをお願い致します」
「……飲み物は?」
「『かふぇおれ』、とは、どのような飲み物なのでしょうか?」
「……飲んだことねえのかい?」
「はい、全く。珈琲(こうひい)は苦手なのですが……『かふぇおれ』とは、美味しいのでしょうか?」
「そりゃあ……美味いよ。なんてったって、俺が自信を持って店に出すやつだからな。苦手なら、呑みやすいように甘めに作ってやるが……どうする?」
「はい、お任せします」
そう伊都は言い終えると、メニューを畳んで元の場所に戻した。一拍遅れて気づいた華子もメニューを戻す。そうして、訪れた沈黙(BGMは流れているけれども)の中で……からん、とグラスの氷が音を立てた。
……。
……。
…………あれ?
立ち尽くしたまま動こうとしないダンディに、グラスに手を伸ばしていた伊都は小首を傾げた。
見やれば、ダンディもそうだが、真人もどこか呆けた様子でこちらを見つめている。いや、よく見れば、華子からも似たような視線を向けられていた。
(……何でしょうか?)
何か、言いたいことがあるのだろうか。ならば、さっさと言えばいいのに……そう思って二人(ついでに、華子も)の視線を見返せば、「――す、すまねえ」我に返ったらしいダンディが少しばかり慌てた様子で頭を掻いた。
「私に、何か?」
「い、いや、ただ、俺を前にして怖がらずに注文してきたやつが珍しくてな」
「珍しい、とは?」
発言の意味が分からずに尋ねれば、「この人、とにかく見た目が怖いせいだよ」真人が苦笑しながら先に答えた。
「だいたいの初見さんは、華子ちゃんみたいに怖がってしどろもどろになってしまう。だから、怖気づかずに注文した君が珍しかったんだよ」
何とも失礼なその説明を、ダンディは苦笑するばかりで否定をしなかった。
「……そう、なのですか?」
思わず華子に目線で尋ねてみるが、華子は答えなかった。
けれども、ちらりとダンディを見やった後……分かるか分からないか程度に頷いたあたり……そうなのだろう。
……まあ、確かに。見た目だけを考えたら怖いだろうなと、伊都も思った。
自分よりも圧倒的に強いのが分かる見知らぬ人物が傍に来れば、警戒心を抱くのはある種の本能だ。特に、ダンディのように見た目からして迫力があれば……華子の態度もまあ、仕方ないことだろう。
けれども……けれども、だ。
伊都にとって、己を見下ろすダンディは何ら恐ろしい存在ではない。それは純粋な強さ云々の話ではなく、もっと別の……この場においては伊都にしか分からないであろう理由からであった。
「そんな、怖がることなんてありませんよ。だって、だんでいさん、とてもお優しいお人じゃないですか」
「……どうして、そう思うんだ?」
「どうしてって……そんな、大した理由ではありません」
本気で分からない、そう言いたげにこちらを見やるダンディと、興味深そうに視線を向けてくる真人と華子を前に……にっこりと、伊都は笑みを浮かべた。
「だって、だんでいさんのお肩に乗っている白猫が、安心しきったご様子で欠伸をしていますから。よく、貴方に懐いていらっしゃったのですね」
――そう、伊都が答えた、その瞬間。
伊都を除いた全員の視線が、その視線の先へと向けられた。当然、そこには何もなく、エプロンの紐を引っ掛けている逞しい肩口には、猫どころか生き物の影一つ、そこにはなかった。
――だが、伊都には見えていた。伊都にだけは、はっきりと分かっていた。
呆然とするしかない三人を他所に、伊都は……黙って、ダンディの肩口を見やる。そうすれば自然と、三人の視線が再び何もないその場所へと集まった。
傍目には何もない、その空間……この場においては伊都にだけ感知されているその存在と、しばし視線を交差させた伊都は……今度は、ダンディに向けて笑みを向けた。
「ナゴちゃん、貴方の身体に乗るのが好きだったようですね」
「……どう、して?」
「色々と、ナゴちゃんが教えてくれました」
「……ナゴ、が? ここにいるのか?」
驚きのあまり掠れ声になっているダンディに、「はい、おりますよ」伊都は言葉を続けた。
「亡くなった御婆様が飼っていらっしゃった猫なのですね。品が良くて、物静かで……頭の良い猫なのですね。私が前に暮らしていた場所で見掛けていた猫よりも、ずっと悠々として……御立派です」
率直な、伊都の感想。それを前に、ダンディは……フッと、笑みを零した。
「……ああ、そうだよ。なんてったって、近所の野良猫全部を束ねていたぐらいだったからな」
「そのようですね……でも、御婆様には頭が上がらなかったみたいで。貴方は……随分と、顎で使われていたみたいで……よく、晩飯のおかずを奪ったのだとか」
「そう、そうなんだよ。よくおかずを奪い取られてな……年老いてからもすばしっこくて、何時も捕まえられなかったんだ」
「まあ、相手は猫ですから。すばしっこさで人が勝てるわけもありません」
「くくく、違いない。今でも、あいつよりすばしっこい猫は見た事ねえからな」
昔を、思い出しているのだろう。おもむろにサングラスを外した(目つきも、印象通りに鋭かった)ダンディは、天井へと遠い眼差しを向けた。
そんな彼に、傍観者でしかない真人と華子の二人は何も言えなかった。ただ、目を瞬かせてダンディと……伊都を、交互に見やることしか出来なかった。
……。
……。
…………そうして、少しばかりの沈黙の後。「……あのよ、一つ聞いていいか」視線を下ろしたダンディが恐る恐るといった様子で尋ねてきた。
「――大丈夫です」
だが、伊都はそれよりも早く、そう答えた。「……え?」呆気に取られるダンディを他所に、「大丈夫、ちゃんと伝わっていますよ」伊都はもう一度言葉を続けた。
「最後に貴方がお腹に当ててくれた掌。それのおかげで痛みも苦しみも引いたと……だから、今はどこも痛くないし苦しくない。そう、仰っていますよ」
「……そうか」
「成仏せずにいるのは、あなたがあんまりにも落ち込んでいるのが見てられなかったからだそうです」
「俺が……?」
「『図体ばかりデカい泣き虫め、何時までも世話を掛けさせるな』、だそうです。そのうち、頃合いを見て成仏するつもりみたいですね」
「はは、ははは……そうか……そうか、そうか……」
……。
……。
…………ダンディは、それ以上は何も言わなかった。
時間にして、だいたい二十秒ほど経ってから。大きく、それはもう大きく息を吸って……深々と吐いたダンディは。
「……ありがとよ」
そう、呟いた。
……。
……。
…………再び訪れた、沈黙。
けれども、今度は先ほどよりもずっと柔らかく、穏やかで。「――すまねえ、それじゃあちょっくら作ってくるぜ」再びサングラスを掛けたダンディは、そう呟いて伊都たちに背を向けた……と。
「――真人、こいつは本物だ。お前が見てきた本物の中でも、とびっきりの本物だ」
ぽん、と。体格に見合う大きな手を、俯く真人の肩に置いた。顔をあげた真人の目は……不安に揺れていた。
「店長……」
「少なくとも、俺はこの子をとびっきりの本物だと思っている。でなければ、お前にも、誰にも話していない昔の飼い猫の名を、この子が知っていることの説明がつかねえ」
「…………」
「だから、お前も信じて話してみろ。たぶん、この子なら……全部、解決してくれるだろうよ」
そう告げると、ダンディはさっさと店の奥へと向かって行った。
後に残されたのは、今しがたの空気が残る沈黙と、どうしたらいいか分からず視線をさ迷わせる華子と、ダンディの言葉を受けてさらに俯いてしまっている真人と……それを見つめる、伊都の三人だけ。
……ダンディが調理を終えて戻って来るまで、数分だろうか。
厨房に他のスタッフがいるかもしれないが、だからといって調理が早まるにも限度がある。とりあえず、しばらくはこの沈黙に身を浸すとしよう。
そう判断した伊都は、こくりと、冷えたお水で喉を潤す。水滴の浮いたグラスをテーブルに置き、さて、と好奇心のままに店内へと視線を向けた――その、時。
「――頼みたい事がある」
ぽつりと、真人が呟いた。
伊都が視線を向ければ、いつの間にか真人は顔を上げていて……力強くも、どこか弱弱しくも見える、不思議な眼差しが向けられていた。
「失礼な態度を取ったのは重々承知のうえで、頼みたい。どうか、聞いてくれるか?」
「聞くも何も、私はまだ何も言われておりません。それに、貴方にも貴方なりの何かが有った……私にとって、貴方の口にする『失礼な態度』なんて、その程度のことですよ」
「……そう言って貰えると、気が楽になる。それじゃあ、単刀直入にお願いする」
そう話した、直後。真人はテーブルに両手を突いて、深々と……テーブルに額が付くぎりぎりまで頭を下げて。
「――頼む、舞香を救ってやってくれ」
そう、言った。「……舞香さんを? 妹の、舞世さんではなくて?」これには、さすがの伊都も面食らって居住まいを正した……が。
「舞世は……もう、いない」
「え?」
「あれは、舞世じゃない。中身は、違うんだ!」
その後に続けられた真人の言葉の前では、その程度の取り繕いなど……無意味であった。
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