第14話 伊都にも堪忍袋の緒はあるのです





 ……。


 ……。


 …………そうして、学校に到着した伊都は確信した。閉じられた正門をよじ登って入った伊都には、はっきりと見えていた。



 それは、明かり一つ灯っていない旧校舎から漂っている、強い負の念だ。



 ともすれば粘着質にも感じ取れる気配に、「――貴女達は、ここで待っていてください」伊都は遅れて付いて来た舞香たちにそう言った


 何故なら、『力』を持たないから。この中で知識を持ち合わせている舞香であっても、今回の相手は悪過ぎる。


 感じ取れる気配から察するに、これはもう『念』等という生易しい状態ではない。時に命をも脅かす、『悪霊』と呼ばれる存在に成り果ててしまっている。



 ……悪霊とは、文字通り、悪い霊の事だ。その発生原因は恨み辛みを始めとした、強い負の念が元となっている場合が多い。



 その性質はそれぞれ異なっているが、共通しているのは他者の命……すなわち、『魂』を糧に自らを増大させる性質が有るということ。


 ただの幽霊……知識さえあれば対処出来る相手ならまだしも、悪霊となると、知識だけではどうにもならない。


 必要となるのは、霊的存在と渡り合う『力』だ。だからこそ、伊都は舞香たちに来るなと強く命じたのであった。



「――ここまで来て、止めてちょうだい。止められたって、行くわよ」



 だが、舞香は首を縦には振らなかった。いや、舞香だけではない。見れば、華子も真人も力強く頷くだけで、一歩も下がろうとはしていなかった。



(……本気、ですね)



 目を見て全てを察した伊都は、「ならば、邪魔だけはしないでください」そう言って旧校舎へと向かった。後ろで、全員が付いてくるのを気配で感じ取りつつ……旧校舎の入口前にて止まる。


 舞世の自室の鍵を開く時と同じ要領で、鍵を開ける。そのまま、たかたかたと階段を登って……『心霊研究部』がある階へと踏み込んだ――瞬間、伊都は足を止めた。



 ――一言でいえば、凄まじい悪臭であった。



 腐った卵のような腐乱臭とも、漏れ出たガスのような刺激臭とも、少しばかり違う臭い。100人に聞けば100人が顔をしかめるであろうソレは、むせ返りそうになるほどに廊下に満ちていた。



「――うっ!?」

「あまり嗅がないように。生者が吸って良い類のモノではありません」



 後に続いて来た舞香たちだが、臭いに気づいた瞬間、一斉に顔をしかめた。まあ、そうなって当然である。


 何せ、この臭いは死者の臭い。恨み、妬み、悲しみ、苦しみ、様々な負の念が澱んで凝り固まって溢れ出た、忌避すべき代物なのだから。



(……なるほど、昼間に感じ取った気配は、コレだったのですね)



 そんな最中、伊都は冷静に分析を続けていた。



(徹底的に身を隠し、時間を掛けて『力』を蓄えていた。通り掛かる浮遊霊を取り込み続け、少しずつ膨張していったというわけですか……不覚です)



 ちらりと、臭いの先へと目を向ける。



(気配は……ある。舞香さんに似た気配と、これは……『らっきー』ですか。なるほど、『らっきー』は主を護る為に助けを訴えていたのですね)



 伊都は、するりと両腕を広げ――ぱん、と力強く胸の前で合掌した。途端、伊都の総身より放たれた『力』によって、周囲の臭いが瞬時に消し飛んだ。



(正しく、忠犬。そして、恥じるは我が短慮。安易に『力』を分け与えるのではなく、何故助けを求めていたのか……その事に足を止め、しっかりと耳を傾けるべきでした)



 そう、そうなのだ。今回の事にしたって、全てがそうなのだ。


 元を辿れば、最初に己がもう少し積極的に……いや、それを己に問う暇はない。



「仏説・摩訶般若波羅密多時 観自在菩薩・行深般若波羅密多時 照見――」



 静かに……それでいて御経に乗せられた『力』が、周囲に広がる。


 効果は、すぐさま現れる。『力』を持たない舞香たちには分からなかったが、代わりに臭いが薄れてゆくという形で現れた。



 ……『般若心経』は、(その種類によって内容が異なるけれども)大まかには心や魂の根源、幸福や不幸の本質、それらに対する身や心の置き方を真正面から説いた有り難い説法である。



 エクソシストのように悪魔(悪霊)を直接的に祓い、あるいは攻撃して追い出すような攻撃性はない。だが、般若心経はこういった負の念……取り込まれてしまった被害者に対しては、特に有用である。


 何故なら、般若心経とは攻撃の為ではなく、自身の奥底に溜まった苦しみを少しでも軽くするための経典であるからだ。


 実際、この場では伊都にしか見えなかったが、般若心経によって、澱み固まっていた負の念が解れてゆき、取り込まれていた霊魂が続々と澱んだ空間から落ちていっている。


 剥がれ落ちる直前は苦悶に満ちていたそれらが、完全とまではいかなくとも……ほっと、苦悶を和らげる。そうして、続けられる般若心経に釣られるがまま、その身を薄く淡く……黄泉へと誘ってゆく。


 追い払うのでもなく、退治するのでもない。ただ、苦しみを和らげ、在るべき場所へと誘うだけ。けれどもそれは、臭いの除去という形で舞香たちにも伝わっていた。



「……あれ?」



 窓を開けてもいないに臭いが途切れ始めている事に気づいた舞香たちを他所に、かこんかこんと下駄を鳴らした伊都は……扉を蹴破って、『心霊研究部』へと足を踏み入れた。



 ――わんわん!!



 途端、室内に響いたのは……切羽詰まった犬の怒声。と、同時に、廊下とは比べ物にならない悪臭が漂う室内の中央には……異形としか言い表しようがない存在がいた。



 ――そいつは、人の形をした脂肪の塊であった。



 辛うじて人の体を成してはいるが、それだけだ。指先足先までぱんぱんに詰まった脂肪のせいで、まるで手足を棒に付け替えたかのような有様となっている。


 手足がそうなら、顔もそうだ。髪はなく、耳も脂肪で見えない。鼻も潰れ、頬は今にも破裂しそう。首と顎の境目はほとんどなく、澱みを溜めに溜め込んでいるのが一目で分かる有様であった。



 こいつが……あの時感じ取った『負の念の大本』か。



 油断なく悪霊を見据えながら、伊都の視線が……そいつの前方にいる、犬のラッキーの霊と、その後ろにいる少女……舞世の霊に向けられる。


 大きく愛嬌のある顔を強張らせ、必死の形相で吼え続ける後ろで、舞世は震えていた。状況を理解出来ず、腰を抜かしたように尻餅を付いていた。



「――ラッキー……まい、よ? ま、舞世!!」



 普段は見えない霊的存在も、この場……悪霊が放つ『力』と、伊都が放つ『力』がぶつかり合って飽和状態になっているからだろう。霊視能力を持たない舞香たちにも、幽霊であるラッキーと舞世の姿を見る事が出来た。


 そして、当然といえば当然だが、我を忘れた舞香が妹の下へと飛び出した――が。



「ちょっと待った、邪魔をするなと言ったでしょう」



 それよりも早く、伊都の裏拳が舞香の腹部を叩いた。


 見た目が華奢で小柄ではあるが、半人半神である伊都は己よりも20センチは高い男性を自在に投げ飛ばす。


 ぐふっ、と青ざめた顔で蹲る舞香を「ほら、さっさと退きなさい」強引に真人へと押し出した伊都は、改めて合掌すると、再び『力』を込めて般若心経を唱え始めた。



「仏説・摩訶般若波羅密多時 観自在菩薩・行深般若波羅密多時 照見――」



 般若心経の効果はてき面であった。見る間に室内にこもっていた澱みは浄化され、薄まり、脂肪という形で取り込まれていた霊魂が剥がれ、旅立ってゆく。


 それは、悪霊にとっては苦痛を伴う事なのだろう。


 異変に気づいた悪霊の視線が……伊都を捉える。ぶしゅう、と顔らしき部分より悪臭を放った悪霊は、野太い腕を伊都へと放った――が、無駄であった。



「不生不滅 不垢不浄 不僧不減 是故空中――」



 伊都を中心に放たれた、強い光。それが、まるでバリアのように悪霊の拳を防いだからだ。



  ――っ!?



 これには悪霊も驚愕し、脂肪で潰れていた眼をわずかに開いた。それを好機と見た伊都は、かこん、と一本歯を強く鳴らした。


 途端、『――っ!?』悪霊より向こうにいた舞世の幽霊が、ふわりと円を描いて伊都の後ろへと引っ張られる。「ま、舞世……!」気づいた舞香たちが、一斉に舞世を取り囲んだ……その、傍で。



 ――わん!



 悪霊へと勇敢に立ち向かっていたラッキーが、伊都の傍にて立ち止まる。お礼を述べるかのように一声鳴くと、再び悪霊へと唸り、吠えた。



 ――一人に任せるつもりはない、ということなのだろう。



 真に天晴れな忠犬だと、伊都は思った。大好きであろう主人たちやその友人に甘えるよりも、この犬は恩に報いろうとしているのだ。



 ……その気持ちだけで、十分だ。残された時間が多くない以上、今は愛する者たちの傍へと行きなさい。



 そう、伊都はラッキーに促す。ラッキーはしばし迷いを見せたが、「――私なら、大丈夫です」伊都の言葉を聞いて……くうん、と鳴いた。


 そうして、わん、と最後に鳴くと……舞香たちの下へと向かっていた。見えはしないが、背後から舞香たちの歓声が届いたのを耳にした伊都は……浮かべていた笑みを引き締め、悪霊を睨みつけた。



「その姿に成ったのは、全ては貴方の心が招いたこと。見方を変えれば、心の持ちよう一つで貴方も成仏が出来るということ」

『――っ、――っ』



 明言はされなくとも、何をされようとしているのかを察したのだろう。


 悪霊はこの場から逃亡しようとしたが、既に張り巡らされていた伊都の術に阻まれ、逃走は出来なかった。


 だからなのか、悪霊はぶしゅうと鼻息荒く悪臭を振りまくと、再び拳を伊都へと振るった。


 当然、その拳は伊都に届くことはなく……伊都の鋭い眼光が悪霊を貫いた。



「さあ、耳を済ませなさい――真実不虚 故説般若波羅密多呪 即説呪曰 」

『――っ、――っ』

「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 」

『――っ、――っ』

「――般若心経」



 唱え終えた伊都は、最初からもう一度、御経を唱え始める。それは悪霊を弱ませる意味合いもあったが、それよりも成仏を願っての思いが強かった。



 ……悪霊となってしまった霊的存在は、基本的に周囲に害しか及ぼさない。



 この『脂肪の塊』がそうであるように、姿を現す、ただそれだけで周囲の者の命を蝕む。こうまで密かに『力』を蓄えていたのは驚嘆したが、それを差し引いても……危険な存在であることには変わりない。


 一度でも『悪霊』に堕ちてしまったら、悲惨だ。


 何故なら、待っているのは確実な地獄行だから。加えて、自ら成仏するのではなく、他者より強引に成仏させられた分、より深い地獄へと落ちてしまう。


 それだけじゃない。存在しているだけでより長く罪を重ね続けてしまう以上は、一刻も早く成仏した方が、結果的にはより軽い地獄行きで済むのだ


 故に、伊都は自ら成仏するよう促す。悪霊とはいえ、元は善良な存在。犯してしまった罪は消えないが、それでも……そう、思っているのに。



『――っ!』

「――っ!? 封滅清浄――喝っ!!」



 悪霊の心に、伊都の思いは届かなかった。


 苦し紛れに放った悪臭……すなわち、負の念を伊都の背後へと放つ。寸でのところでほとんどを防いだ伊都だが……漏れた一部が、舞香たちへと向かう。



 ――ぎゃうん!



 けれども、それは舞香たちには当たらなかった。何故なら、その前にラッキーが自らを盾にして負の念を受け止めたから。「――ラッキー!!」力無く横たわったその身体に、舞香たちは一斉に駆け寄った……その、瞬間。



 ……ぶちり、と。



 伊都の中で、何かがキレた。


 それはいわゆる『堪忍袋の緒』というやつなのだが……久方ぶりに(転生前を含めて、数十年ぶりに)頭に血が上ってしまった伊都の顔から……表情が消えた。



「――そうですか。あくまで嫌だと仰るのであれば、何も言いません。手を掴むのも振り払うのも、貴方の勝手なのですから」



 変化は、一瞬の事であった。



「故に、容赦もしません。その身に宿した澱みと共に、地獄の裁きを受けなさい」



 伊都の小さな掌に浮かぶ、光。それを、吐息と共にフッと悪霊へと吹きかければ、光輝く『文字』が音も無く悪霊の全身に絡み付いた。


 伊都がやったのは、たったそれだけのこと。


 だが、たったそれだけのことで――悪霊の手足を瞬時に切り裂き、消滅し、身動きを完全に封じてしまった。


 後に残されたのは、『――っ!?』己に何が起こったのか分からないまま瞬き一つ出来なくなった悪霊である。


 次いで、その悪霊の足元に『文字』が素早く這い回り――気づけば、ぽかりと真っ黒な大穴が開いていた。



 ――それは、ただの穴ではない。



 真っ暗な穴の底にあるのは下の階ではなく、この世とは異なる世界。『根の国』とも『黄泉の国』とも呼ばれる、あの世へと通じる最中に待ち構えている……閻魔たちの裁判所であった。



 ――気配が、空気が変わる。



『力』を持たぬ者たちには、その暗闇の奥を見る事は出来ない。それは幽霊である舞世も同様で、せいぜいが、穴が突然現れた……という程度だろう。


 だが、見えずとも分かってしまう。


 あの『穴』に、触れてはならない。近づいてもならないし、不用意に見るのも駄目だ。下手に近づけば、引きずり込まれてしまう。それを本能的に、誰よりも顕著に感じたのは、やはりというか、霊体である舞世であった。



 ――だが、舞世が恐怖を見せるよりも前に、りん、と。



 伊都が懐より取り出した鈴の音が、場に満ちようとしていたナニカを一変させる。それは悪霊とて例外ではないようで、伊都から少しでも距離を取ろうともがいていた……が、遅い。



「――夜は下る、闇は下る。降りるべき場所へとその身を誘い、落ちるべき場所へとその身を宿す」



 りん、りん、りん、りん。


 伊都が鳴らす鈴の音に合わせて、呪文が響く。それはけして大きな声ではなかったが、不思議なぐらいに誰の耳にも届いた。



「おいでませ、おいでませ、常闇の彼方へと、遍く旅路の果てに訪れる彼方へと、おいでませ、おいでませ、おいでませ……」



 りん、りん、りん、りん。


 鈴の音が、大きくなる。それに伴って、穴の向こうから……白い、白粉を振りまいたかのような真っ白い腕が、伸びる。その腕は、迷うことなく悪霊の身体を掴んでゆく。


 一つ、二つ、三つ、四つ……瞬く間に数を増やしてゆく腕が、遂にはその身体の半分近くを覆い隠した……その、直後。



「どうか、良い旅路を――」



 ぽつりと零された、軽やかな言葉。ひと際強く鳴った鈴の音が、りん、と辺りに響いた瞬間――ぐん、と。悲鳴一つ上げる事も出来ないまま、悪霊は穴の向こうへと引きずり込まれていった。






 ……。


 ……。


 …………気付けば、穴は消えていた。漂っていた悪臭も消え、場の空気は正常と呼べる状態になっていた……その中で。



『――っ! ――っ!』



 幽霊の舞世が、力無く倒れ伏しているラッキーの身体を揺さぶっていた。幽霊の姿は見えても、その声が生者に聞こえるかどうかは別だ。そしてそれは、生者の声が死者に聞こえるか否かという意味でも同じであった。


 舞香たちも、ラッキーに声を掛けている。その身体を揺さぶろうとしているが、彼ら彼女らには触れられない。必然的に、ただ見守ることしか出来ない……のを見やった伊都は、かこんと下駄を鳴らして歩み寄った。



(……ふむ)



 見上げた舞香たち……特に、舞世から強い視線を向けられる。それらを意図的に無視した伊都は、横たわるラッキーの腹に手を当て……軽く、『力』を送る。



 手応えは……ある。



 だが、かなり弱弱しい。いや、これは弱弱しいというよりも……不意に、伊都の視線が……いつの間にかこちらを見上げているラッキーと交差した。



 ……良いのですね? 引き返すことは、出来ませんよ。

 ――っ。



 言葉に出さなくとも、伊都には分かる。人の言葉を持たぬ者とはいえ、その思いを感じ取る事が出来る伊都にとって……彼の声を聞くのは容易いことであった。



 ――っ、――っ。

 ……そう、ですね。それが、本来の形なのですから。

 ――、――っ。

 ……分かりました。では、私からみなさんにお伝えしましょう。



 伝えたいことを終えたラッキーは、再び目を閉じた。それを見て、『――っ!』最悪を予感した舞世が声無き声を上げ、舞香たちも悲痛な面持ちとなって……けれども、伊都はあえて口にした。



「みなさん、旅立ちの時です。在るべき場所に、彼を送ってやりましょう」

「――え?」



 ため息にも似たその声を発したのは、誰だったか。ぽかんと呆ける舞香たちを前に、伊都は……りん、と鈴を鳴らした。



 その――瞬間。



 誰よりも、何よりも早く伊都へと飛び掛かったのは、幽霊の舞世であった。『――っ!』舞世の声は、周囲には全く聞こえない。だが、その形相から、如何に少女が怒っているのかを如実に表していた。



「このままでは、『らっきー』は確実に悪霊となります。貴女は、悪霊となってでも、彼の気持ちを無視してでも、この世に留まっていてほしいのですか?」



 だが、その程度で怯む伊都ではなかった。逆に、顔色一つ、眉一つ動かさずにズバッと言い切った伊都を前に怯んだのは、舞世の方であった。



「……いいですか、舞世さん。良くお聞き、良くお考えなさい」



 唇を噛んで憤る舞世の肩を押さえ、目線を合わせる。



「死した『らっきー』が、どうして成仏せずに貴方の傍にいたのか、その理由を貴女は考えましたか? 悪霊を前に一歩も引かず貴女を護ろうとした気高い彼が、どうして理(ことわり)に反してまで貴女の傍に居続けたのか、その理由が分かりますか?」

『…………』

「貴女が、好きだったからです。そして、己がいなくなった後、あまりにも悲しむ貴女を想って離れられなかったから、彼は貴方の傍に居続けたのです。貴女が泣き止む、その日まで」

『――っ』



 ハッと、俯いていた舞世は顔を上げた。



「まだ幼い貴女に『家族』の死を受け入れろというのも酷な話でしょう。ですが、貴女の勝手なワガママで彼を縛り付けてはなりません。それは愛情ではなく、未練です。貴女の未練が、いずれは彼を苦しめることになる」

『…………』

「悲しいでしょうが、受け入れるしかないのです。生きるというのは死に向かうということ。転生を果たした私ですら、訪れる死は免れない。故に、貴女が彼に出来るのは、縋って引き留めるのではなく、送り出すこと」

『…………』

「彼は、十分生きたと仰っていました。幸せにしてもらったとも仰っていました。未練無く天命を全うしたと思わせたのは、貴女のおかげでもあるのです。俯くのではなく、胸を張って送りなさい」



 ……舞世は、俯いた。



 肯定も、否定もせず……ぽつりと、何かを呟いた。


 その、瞬間……ぴくりと眉根を痙攣させた伊都は……無言のままに、舞世の頬を張った。霊体だからなのか、ぱん、と音はしなかった。


 だが、この場にいる誰もがその音を耳にして、反射的に飛び出しかけた舞香を視線で押し留めた伊都は……呆然としたまま頬を押さえている舞世を、初めて、厳しく睨みつけた。



「――独り善がりも大概になさい! 子供だからとはいえ、何もかもが大目に見て貰えると思ったら大間違いです!」



 ともすれば舞世とそう変わらない背丈の少女が発したとは思えない、怒声。その力強さは部屋の窓を揺らし、旧校舎全体に響き渡るほどであった。



「彼が死した事で貴女は悲しんだ。それと同じように、貴女がそうなったことで、どれだけの人々を……貴女の家族を悲しませたのか、それを分からないとは言わせません!」

『…………』

「こうなった事を私は責めません。しかし、こうなった事で悲しむ者たちの想いを無視してまで独り善がりを望むのは駄目です。貴女のお姉さんが、どれほど悲しんだか……それを想像することすら出来ないのですか!」

『――っ!』



 その瞬間、呆然としていた舞世の目が大きく見開かれた。直後、振り返った舞世は……はっきりと頷いた己の姉と、兄と、良くしてくれた姉の友人を前に……ぎゅう、と唇を噛み締めた。




 ……。


 ……。


 …………舞世は、何も言わなかった。けれども、心は決まったのだろう。


 伊都の横を通り、伏しているラッキーの胸元に顔を埋め……ぺろりと、頬を舐められた舞世は……するりとラッキーから離れ、舞香の下へと駆け寄った。



「……良いですね?」



 返事は、来なかった。しかし、舞世が……わずかに頷いたのを見やった伊都は……りん、と鈴を鳴らした。



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