伊都はかく語りき
葛城2号
プロローグ
時刻は、夜の23時に差しかかろうとしている。
家々が立ち並ぶ住宅街より、少しばかり離れている。田んぼや畑などはそこまで見当たらないが、駅からはそれなりに時間が掛かり、都心からは遠く離れたその場所に、年紀を感じさせる古ぼけた家があった。
その家は、お世辞にも綺麗とは言い難い有様であった。
例えば、正面の門は一部が腐り、一部にカビが生えている。一見したところ玄関は大丈夫そうだが、よく見ると玄関の外灯ランプは割れている。瓦が並べられた屋根は雨風にさらされたことで汚れ、元の色合いより大分白くなっている。
中に入れば、また凄い。
建て付けが悪くなっているのか、扉の隅の辺りには僅かながら隙間が見られている。玄関を上がってすぐの廊下には明かり一つ点いておらず、まるで密閉された箱の中のようだ。
うっすらと嗅ぎ取れるのは、古い家屋特有の臭い。草木を思わせる青臭さとも、新築特有の接着剤の臭いとも違う、独特な臭い。
それが、手元すら確認出来ない暗闇の網から漂って来る。
人の気配が途絶えて久しいのか、それとも建物が古いせいなのか。
敷地面積自体はそれなりにあり、建物自体もそれに見合うサイズであり、庭が付いていて畑に使えるスペースもある。文字に並べれば良い所ばかりなのだが、何というべきか……こう、色々と酷かった。
そして、近隣住人の一部は空き家と思っている、その家の中。明かり一つ点いていない廊下を進み、僅かばかり明かりが漏れ出ている襖の向こう。
煌々と燃える『大きな蝋燭』に照らされた、その和室の中を見た者は、まず思ったことだろう。果たして、この部屋には本当に人が住んでいるのか……と。
……そう思っても、仕方ない。
畳の匂いが薄らと嗅ぎ取れるその室内には、人が住んでいるのか住んでいないのかがよく分からない。とりあえず、パッと見た限りでは、誰も住んでいないようには見える。
だが、どちらもすぐに断言することは出来ない。何故なら、そうなる理由が幾つかあるからだ。
例えば、部屋の中央にてぶら下がっている照明器具。
丸型蛍光灯の紐で引っ張るやつで、何処にでも使われている一般的なモノだ。しかし、実際に使用しようとすると、寿命が来ているのかいくら引っ張っても明かりが点くことはない。
なのに、器具には埃一つ被っていない。蛍光灯の交換はしないで放置するのに、定期的に掃除が行われている。部屋に入った者は、まずその歪さに首を傾げることだろう。
例えば、押し入れの襖。
松が描かれたそれは薄暗い中においても新品であることが分かるが、中を開けば小さな衣装箪笥と布団一式だけ。枕や替えのシーツといったものを除けば、あるのは隅に置かれた防虫剤だけ。
例えば、床の畳。
張り替えたばかりなのかどれも青々としており、うっすらとイ草の匂いが嗅ぎ取れる。しかし、テレビ等の家電製品は全くなく、その畳に乗せられているのは……部屋の隅に立て掛けられた折りたたみ式の丸テーブルだけ。
誰かが住んでいるというのは、諸々から見て取れる。
だが、生活感というものがあまりに感じ取れない。時計はおろか、カレンダーもない。漫画雑誌などの本は一冊もなく、ジュースやお菓子のゴミも全くない。
申し訳ない程度に部屋の隅に置かれた小さなゴミ箱は洗浄されたかのように綺麗で、あるいは、つい今しがた店で購入してきたかのように、使用した形跡が見られなかった。
そんな、何とも言い表し難い部屋の襖が……するりと、音もなく開く。
いったい誰が……明かり一つ見当たらない真っ暗な廊下から室内に入って来たのは、おかっぱ頭の着物姿をした美貌の少女であった。
その少女の外見は、まさしく『人間サイズの市松人形』と誰もが思う程のもので。薄暗がりの中でその姿を目にすれば、思わず誰もが足を止めるぐらいに……こう、何とも言えない雰囲気を醸し出していた。
はたして、この少女は人間なのだろうか。
いや、人間なのだとしても、生きているのだろうか。ぼんやりと照らし出された明かりの中でもはっきり分かるぐらいに青白い肌をした少女は、するりと室内に入った。
次いで、無言のままに襖を閉めると、しずしずと蝋燭の前に腰を下ろす……正座で。
その動作には一切の淀みがなく、普段から着物に慣れていて、正座が当たり前の生活をしているのが窺い知れる滑らかな所作であった。
ぼんやりと、少女は正座のまま蝋燭を見つめる……いったい、この少女は何者なのだろうか?
――学校や役所の記録には、こう記されている。
少女の名は、『
この世に生まれ出て現在では15年。両親は彼女が幼い時に事故死し、6歳の時に祖父の家に引き取られていた。
どのような経緯を経て引き取られることになったのかは不明だが、とにかく彼女はそれからの日々を祖父と共に過ごした。
その際、多少なりとも身元の引き受け関係でごたごたはしたらしい。
小学校での成績は、中の上。友人関係は希薄で、特別仲の良い友人はいない。特定の分野に対しては壊滅的に覚えが悪いという点と、他者とのコミュニケーションに著しい問題があるという点を除けば、特に問題を起こさない模範的な生徒である。
そして、伊都が12歳を迎えた頃。
つまり、今より三年前に保護者となっていた祖父が病死した。
その際、伊都自身の意思と、残された遺言によって祖父の家を離れた彼女は、祖父の知り合いの弁護士が保護者となる形で、その時よりこの家で一人暮らし(いちおう、定期的に顔を身には来る)を続けている。
生活費等は祖父の遺産より、弁護士を通じて十分な額が月末ごとに振り込まれるようになっている。
必要な書類は弁護士を通じて指定された相手に送られるので、家事全般や生活費の管理を一人でこなす必要はあるが、今の所児童相談所が動くような事態にはなっていない。
それが、今の所役所で把握している少女の事情であり、その情報に誤りは特になかった。
実際、辛うじて少女のことを知っている者はみな、間違っていないと首を縦に振るぐらいには正確な情報であった。
……しかし、誰もが知り得ていないことだが、少女の事情はそれだけではなかった。
簡潔かつ正直に述べるのならば、少女は人間であって人間ではない。
見た目は変哲もない少女である伊都の正体は、数百年の時を経て現代に転生を果たした現人神であった。
現人神とは、神が人の姿で降臨した際の呼び名である。
しかし、伊都の場合は半分だけ違う。元々は普通の人間であったのだが、死後、長きに渡る修行の果てに紆余曲折を経て半神半人(はんしんはんじん)という存在に至ってから肉体を得て転生を果たした存在であった。
半神半人とは、文字通り人と神との境目に位置する存在である。
故に、本当の意味での神ではない。あくまで神の頂に半身が届いているというだけであるので、半分だけというのが正しいのであった。
だが、その精神は確かに数百年の時を重ねている。
少女が暗闇にも眉一つ動かさないのは、数百年という記憶の積み重ねがあるから。暗闇に恐れを成すほど初心ではない故に、伊都は平静であったのだ。
……そんな存在の少女が、どうしてこんな場所にいるのだろうか。
肉体を持つ人間とはいえ、その身に宿る『力』はその気が無くとも人知を超える。世が世なら教祖として名を残すことも容易く、願えば札束を畳のように敷き詰めて寝ることも可能なのに、だ。
答えは……伊都自身がそれを望んでいないから。
精神だけとはいえ、伊達に数百年という月日を重ねているわけではない。金銀財宝に囲まれるということは、同時に、そのお零れに群がる魑魅魍魎どもにも囲まれるということを、伊都は知っていた。
だから、一般的に贅沢と呼ばれるソレらに対して、伊都は謙遜を抜きにしてそれほど魅力を覚えていない。だから、他者からどう見られようが、コレで良いのであった。
しかし、気持ちの上では納得しているのかもしれないが、それで身体は大丈夫なのだろうか……安心してほしい、実際に大丈夫である。
――というのも、だ。
神通力(要は、不思議パワー)を操る伊都にとって、熱さ寒さは無縁である。ひと月食事を取らなくとも平気だし、性欲や排せつ欲も自由自在。真っ暗なこの家の中も、伊都にとっては昼間も同じである。
……まあ、それらを差し引いたとしても、だ。あくまで、客観的に見れば、だ。
薄暗い室内にて無表情のままに蝋燭の明かりを見つめるその姿は、異様という他ない。
ぴんと伸びた背筋に押さえつけられているかのように、唇一つ開く気配が見られない。
そんな少女の姿は、傍目から見れば、ただただ恐ろしさと不気味さだけを増長させているだけであった。
……そのまま、どれほど伊都は正座をし続けていたのだろうか。
時計のないこの部屋では分からなかったが、だいたい、蝋燭の長さが半分になるぐらいの時間である。
立ち昇る蝋の臭いがいくらか室内にこもり始めた……その辺りで、僅かに炎を揺らせる蝋燭を眺めつづけていた伊都が……初めて動いた。
ゆるやかに、それでいて静かに。そっと、両手で顔を覆い隠した伊都は、何かを抱え込むかのように俯いた。
その顔色は、傍目からは窺い知れない。そのまま、するすると頭を下げていき……とん、と床に額を押し付けると。
「幽霊扱いされるとは……己の未熟さに腸が煮えくり返りそう……!」
腹の底から振り絞ったかのような呻き声と共に、伊都は畳の中に嘆きを吐き出した。その両手よりはみ出た両耳は……苺よりも赤く熟していた。
……。
……。
…………いや、まあ、あれだ。とりあえず、経緯を語ろう。
それは、単純明快……今より少し前のことだ。
家から三十分程離れた場所にある小山にて行っていた日課の修行を終えた伊都は、何時ものように帰路についていた。
その途中、たまたますれ違った通行人に会釈した際、そのようなことを言われた……ただ、それだけであった。
しかし――だが、しかし。当の伊都にとってはそれだけなどで済ませてよい問題ではなかった。
例えるならそれは伊都にとって、メジャーリーガーが小学生から『野球のやの字も知らない素人』と言われたようなものであるからだ。
『全に至るは無限の未熟を重ねるべし』
その言葉を座右の銘にしている伊都にとって、幽霊扱いされるというのは、それだけ未熟だと言われたに等しい言葉でもあった。
……修行が足らないのだろうか。
……もしかすると、転生したことで気が緩んでいるのだろうか。
……ならば、弛んだ性根を叩き直す必要があるのではないか。
……しかし、それで幽霊扱いされないようになるのだろうか。
ちりちりと蝋燭の炎がゆらめく中、ぶつぶつと室内に響く伊都の独り言。
苦悶に呻きつつも額を畳に擦り付けたまま呟くその姿は、客観的に見なくとも、物凄く不気味であった。
……仮に一連の経緯を知る者が居たら、誰もがこう伝えたことだろう。「ぶっちゃけ、間違われるのは当たり前だろう」、と。
何故なら、伊都が通行人と出会ったのは夜の10時頃。
東京などの都会ならいざしらず、ここらには街灯という御立派なものはそう多くない。
伊都が住まう子の辺りはm夜の10時にもなれば道路は真っ暗になる。常人ならば、懐中電灯なくしては手元すら確認出来ないほどだ。
加えて、近所には24時間営業の店なんてない。遅くやっている店でも21時頃には閉まってしまう。
だから、用事があったとしても、夜に出歩く人はそう多くない。
大人ですら中々すれ違わない(家に帰っているので)そんな時間に、明かり一つ持たずに少女が一人夜道を歩く。
恰好は着物姿で、その後ろを見やれば山々ばかり。昼間ですら怪しさが滲み出ているというのに、夜に出会えば……通行人の反応も当たり前であった。
……しかしそんなことを知る由もない伊都の頭には、その当たり前がなかった。
――このままではいけない。
しばし俯いていた伊都は、煮え滾っていた羞恥心が治まるに連れて顔をあげる。そこにはもう、先ほどまであった赤みはない。だが、その目には煌々と燃え上がる決意が宿っていた。
――考えてみれば、己は今まで何をしてきたのだろうか。
そう、伊都は己に問い掛け、過去に思いを馳せる。
脳裏に浮かぶのは修行、修行、修行の日々。
目が覚めれば座禅を組み、日が昇る前に滝行に励み、夜になれば闇に蠢く魑魅魍魎へ念仏を唱え、迷う霊魂に成仏を促す。
そんな毎日を、ただひたすら繰り返した。
傍目からは常軌を逸した子供にしか見えなかっただろうが、転生する前は息をするように修行をしていたのだ。
伊都にとって、それらは日常の延長線上でしかなかった。
しかし……それが良くなかったのだろう。
……己が、一般的な子供とは掛け離れているというのは自覚していた。
見た目はどうあれ、中身は子供ではないのも事実。子供は子供同士で遊ぶのが一番と考え、遠巻きに眺めるに徹していた……その結果が、この有様だ。
己を幽霊と間違えた通行人は、何も間違ってはいない。
親しい友人も作らず、和の中にも入らず、来る日も来る日も山に籠って滝に打たれて座禅を組んでいた……己が、間違っていた。
――そう、間違っていたのだ。伊都は強く強く、ただただ己を恥じた。
神の御許にて仕えていた時ならいざ知らず、今の己は『力』を持つ人間に過ぎない。
これまでの日々は、信念を持って人の生き方を捨てていたのではなく、ただただ慣性に流されて同じことを繰り返していただけでしかない。
それは、なんと空虚なことなのだろう。満たされてはいたが、中身がない。人の身に生まれ変われたというのに、その意味がまるでない。
新たな肉体を得て生まれたその時より、今日まで。
恥ずべき事に手を出すようなことはせず、己を高めるがままに修行を重ねてきた。しかし、それを考え直す時が来たのかもしれない。
(……これからは、人として普通に生きましょう。それが、人として再び生を受けた私の使命。友を作り、伴侶を得て、子を産み、育て、そして老いて、生を全うする。それで、良いのです)
そう、伊都は強く己に誓った。
(――でも、どうしましょう)
だが、そうなると、だ。
(何から始めれば良いのか……見当がまるでつきません)
恥を受け入れて己を変える決意を新たにしたとはいえ、伊都は早速途方に暮れた。まあ、無理もない話であった。
何故なら、伊都には常識が足りていないからだ。
ごく一般的な生活を営んでいたならまだしも、昔の日々を繰り返していた伊都には、現代の常識が圧倒的に足りていない。
流行の歌は当然の事、ファッションも知らないし、遊びに行ったこともない。ゲーム機器を始めとした電子機器なんてとんと触って来なかったし、携帯電話すら一度も所持したことがない。
そんな伊都にとって、いきなり一般的な学生たちと同じようになろうと思っても、出来る事ではなかった。
……だが、やらねばならない。
ここで諦めてしまえば、固めた決意が無駄になるばかりか、己に抱いた恥を自ら証明してしまうも同じこと。
分からなくとも、分からないなりに動き出さねばならないのだと、伊都は己に言い聞かせる。
……心機一転、とりあえずは己の現状を変えよう。
そう考えた伊都はおもむろに立ち上がると、部屋を出て電話機(黒電話)へと向かう。あれこれ一人で考えるよりも、餅は餅屋。
己の保護者代わりとなっている、祖父の知り合いへと相談しようと思った伊都は、受話器を耳に当てて……あっ、と手を止めた。
すっかり忘れていた。そういえば、電話機は壊れていたのだ。
うんともすんとも言わない受話器を戻した伊都は、しばし俯いた後……ハッと顔をあげた。家の電話が駄目なら、外の電話を使えば良い。玄関に置いてある小銭を片手に外へと飛び出した伊都は……あっ、と足を止めた。
伊都の家から最寄りの公衆電話までは、歩いて片道40分程(自転車はない)。加えて、既に時刻は夜の23時をとおに回っている。
今ならまだギリギリセーフだろうが、到着する頃には日付を跨いでいるだろう。全力を出せば余裕だが、また誰かと遭遇したら……止めよう。
「……無念です」
仕方がない、また明日だ。
しぶしぶ踵を翻し自室へと戻った伊都は布団を出すと、着替えを用意しようと押入れを開けた……その時。
ふと、あることを思い出した伊都は押入れ箪笥の引き出しから、幾つもの封筒を取り出した。
中身は、願書が同封された高校のパンフレットである。
女子高、共学、商業、私学、公立、とにかく選択肢が多くあると認識するだけでも気持ちは楽になるという担任の方針の下、半ば強引に取らされた数々であった。
そのどれもが真新しく、封を開けた形跡すらない。何故なら、伊都自身、学歴というものにあまり興味はなかったからだ。
無くても生きていけるし(強がりでも何でもなく)、それよりも修行に身を置きたかった伊都は、近場の高校で良いだろうと漠然と進路を定めていた。
学費等は祖父の遺産と、伊都が得ている個人収入で何とかなる。
さすがに外国へ留学して云々となると心許ないが、公立ならば大学を視野にいれても余裕がある。
だから、軽く考えていた……しかし、今後はそうも言っていられない。
現状を変えるということは、すなわち環境を変えるということ。これも一つのキッカケだと思った伊都は、この日初めて……封を開けたのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます