第4話 本人は何が何だか……なのです





 帰路の最中、不意に、伊都の足が止まった。



「……ん?」



 その目が向けられた先にあるのは、建物と建物の間。大人が二人、ギリギリ通れるかどうかというぐらいの、狭い路地裏であった。


 普段は住人の生活道路として、使われているのだろう。電柱に取り付けられた街灯が一つあるだけで、通行人はおらず、暗がりの向こうを常人では確認することは難しい。



 ……だが、しかし。半神半人である伊都の目が、捉えていた。



 明かり無しでは手元すら確認出来ない暗がりの向こうにいる、一人の人間を。電柱の陰に隠れて見えにくいが、そこに蹲っているのを伊都の目は確かに捉えていた。


 人が、蹲っている。事実だけを見れば、それ自体は大変なことだろう。伊都がその場に出くわしたなら、すぐに駆け寄って介抱するなり人を呼ぶなりしているところだ……が、今回はそうならなかった。



 ――ずいぶんと、酔っているわね。



 何故なら、離れていても伊都は感じ取っていたのだ。蹲っている影からの冥々混沌とした感情を。


 これまでの経験から、そういう感情を発する時の相手の状態に予測がついたからこそ、伊都は焦らなかった。


 ……まあ、放っておくのもなんだ。とりあえず、茶でも飲ませておこう。


 そう思った伊都は、小走りに暗がりの中へと入って行く。明かり一つない路地であっても、伊都にとっては昼間も同じ。かこんかこんと蹲る者へと駆け寄った伊都は……おや、と目を瞬かせた。


 驚くべきことに、蹲っている者の正体はまだ幼い顔立ちの少女であった。


 それも、ただの子供ではない。品の良い、寝間着らしき薄いネグリジェに身を包んではいるが、両足は剥き出しで、よく見やれば体中泥まみれだ。



 ……いったい、どうしたことだろうか。



 くん、と鼻を鳴らしてみて、伊都は、はて、と小首を傾げた。


 酒の臭いが、しないのだ。経験からの予測が、外れた。嗅ぎ取れるのは泥の臭いと、少女から立ち昇る汗の臭いぐらいだ。


 そのどれにも酒気の名残が無い。それはつまり、少女が一滴も酒を召してはおらず、酔っていないことを明確に物語って……んん?



 ――はて、これはどういうことだと、伊都は首を傾げた。



 眼下の少女は、確かに普通の少女だ。だが、どうしたことか……感じ取れる気配が、人のそれではない。


 いや、おそらくは少女のものと思われる気配を察知することは出来るが、大半はこう……人間のそれではない。


 まるで……そう、まるで獣のソレだ。


 プラスかマイナス、100か0かー100かという、純粋無垢な心の形。人間とは根本から異なる純粋な感情は、山中などで幾度となく感じ取ったことがある、獣のソレに酷似していた。



(これは……まさか!?)



 嫌な予感が、伊都の脳裏を過った。いや、それはもう予感を通り越した直感……違う、既にそれは確信となっていた。


 伊都が傍に来ていることにすら気付いていない少女の肩に、「もし、どうなさりました?」伊都は手を置いて強引にこちらへ向かせた。



 ――瞬間、やっぱり、と頭を掻いた。



 少女の形相は、一言でいって理性あるそれではなかった。目じりは吊り上り、頬は引き攣らんばかりに痙攣し、口元からはだらだらと涎を垂れ流している。僅かに開いた眼は焦点が合っておらず、う~う~と、低いうなり声をあげている。


 誰がどう見ても、『ヤバいやつ』と断言する有様であった。


 昼間に遭遇すれば距離を置かれるし、夜に出会えば四の五の言わず走って逃げる。そんな、凄まじい形相の少女を前にして、伊都は……じっくりと、少女の状態を確認し……うん、と頷いた。



(『狐憑き』を見るなんて、何時以来かな?)



 ――狐憑き。それは、動物等の霊が憑りついた状態を差す。


 狐に例えられるのは、比較的そういったことが出来るのが狐に多いというだけだ。古来より、狐は何かとそういう『力』を持っていることが多いのだ。


 だから、実際の所は『狐に憑かれたから狐憑き』というわけではない。その証拠に、現在、少女に乗り移っている霊は狐ではなく……犬であった。



(憑りつかれやすい体質ではなさそうだし、運悪く捕まってしまった……といったところかしら?)



 とまあ、説明はここまでだ。原因は何であれ、見付けた以上は放って置くつもりはない。


 何故なら、狐憑きは今すぐどうこうなる類のモノではないが、心身に負担を掛けるからだ。それは、憑りついている動物霊自身も例外ではない。



 ――少々強引ではあるが、追い出してやろう。



 そう決めた伊都はコンビニ袋を傍に置くと、合掌する。次いで、少女に負担が出ないように『力』を調節しながらタイミングを見計らうと……えい、と小さな頭を叩いた。


 途端、ふわりと……少女から霊が離れた。


 仮にそれを見られる者がいたなら、少女の身体から中型サイズの犬の霊が飛び出したのが、確認出来ただろう。フッと脱力する少女を抱き留めた伊都は、漂う犬の霊を見上げ……夜空を指差した。



「さあ、お行きなさい」


 ――っ?



 へっへっへ、へっへっへ……ともすれば聞こえてきそうな犬の吐息に目を細めつつ、伊都は優しく……促した。



「道標は私が作りましょう。あなたは、私が指し示す先へ向かいなさい」


 ――わん!



 最初は混乱していた犬の霊も、伊都の言葉に我を取り戻す。まるで、伊都の言葉を理解しているように、犬は返事をした。


 いや、実際に理解しているのだ。半分が神である伊都は、言葉を解さぬ動物とも対話が可能なのであった。


 伊都が、夜空へと手を伸ばす。それを見た犬の霊は、その指先が示す先へと……飛び立つ。その動きは素早く淀み無く、一直線に駆け上ってゆく。


 けれども、どんどん小さくなってゆくその後ろ姿が、一度だけ止まる。『――わん!』と、振り返った犬の霊がまた吼えると、再び空へと駆け出し……その姿が完全に消え去った頃にはもう、名残すらそこには見られなかった。






 ……。


 ……。


 …………少しばかりその場にて見送っていた伊都は、さて、と切り替えて少女を見下ろす。先ほどの形相とは打って変わって穏やかな寝息を立てており、相応の寝顔を見せていた。


 まあ、当たり前だ。人の身体は、犬のように動き回れるようには出来ていない。


 どれぐらい憑りつかれていたのかは分からないが、泥だらけの手足を見れば、心身の疲労は明白だ。除霊の影響のせいもあってか、軽く揺さぶっても起きる気配は微塵もなかった。



(……仕方ありません。目を覚ますまで、私のところで寝かせておきましょう)



 そう判断した伊都は、脱力している少女を背負って立ち上がる。さすがに、人助けの時は伊都も信念だとかは脇に置いて、『力』を使う。


 ……そうして、嫌でも分からされてしまう、『力』を使っているを差し引いても、見た目よりも軽い少女の体重。


 こんな華奢な身体で狐憑きとは、真に不運な子だわ。少女の境遇に憐れみを抱きつつ、伊都は路地を出て表通りに――出て、すぐ。



 ――前触れもなく、ぎゅぎぎぎぎ、と。



 眼前の車線道路、そこを通り過ぎた車のヘッドライトに軽く目を細めた直後、その車が急ブレーキを掛けて停止した。



(……び、ビックリした)



 さすがの伊都も、ちょっぴり驚く。何だと思ってそちらを見やれば、初老の男と年若い女性が懐中電灯を片手に車から降りたのが見えた。



 ……何だ何だ、どうした?



 ぽかんと呆気に取られていると、懐中電灯の光がぐるぐると辺りを見回し……不意に、伊都を照らす。その瞬間、伊都は思わず……同時に、その女性も思わず。



「――崎守さん?」

「――伊都ちゃん?」



 そう、お互いの名を呟いていた。








 セバスチャン(曰く、何でもやる執事なのだとか)が運転する車……いわゆる、高級車と呼ばれている類の座席に腰を下ろしている伊都は、幾分か落ち着かない様子で車内を見回していた。


 車に乗ること自体、伊都は初めてではない。保護者の運転する車に同乗したことはあるし、電車やバスにだって乗った経験もある。


 しかし、リムジンの内装が醸し出す高級感は初めてで……これまで伊都が経験してきたそれらとは、根本から異なっていた。


 例えば、室内を照らす照明器具だとか内装だとかが綺麗というか豪華というかは置いといて、まず思い知らされたのは……腰を下ろしている座席。


 これまで伊都が腰を下ろしてきた座席は石で出来ていたのかと錯覚してしまうほどに、柔らかく。慣れない内は浅く腰掛けると良いと舞香より助言されなければ、伊都の尻は座席に埋もれて大変なことになっていただろう。


 加えて、座席に使われているシートもまた上質のようで。肌触りが良いというか、温かいというか、滑らかというか。うちの布団よりも寝やすいのではないかと思えるぐらいに、心地よい。


 さらに、高級車なだけあって、道路を走っているとは思えない程に車内はとても静かだ。


 運転席の方がどうなっているかは仕切りがあるので覗き込まないと分からないが、伊都たちを乗せた後部座席は、外観で想像していたよりもずっと広かった。


 誇張抜きで、両手足を思い切り伸ばせる広さだ。まあ、伸ばしはしないけど。


 視線を向ければ、L字型に設置された座席の正面にはジュースなどが収められた小さい冷蔵庫と、小さいワインセラーが設置され、その中央にテーブルが設置されているのが目に止まる。


 テーブルには、栓の空いたジュース瓶と空のグラスが置かれている。御代わりはあるから遠慮せず飲んで良いと、舞香が自ら冷蔵庫より取り出して用意してくれたものである。


 伊都としてはそこまでしてもらわなくともという思いでいっぱいだったが、まあ、せっかく用意してくれたのだ。遠慮するのも失礼かと思い、また、緊張を解したい思いもあって、伊都はちびちびとジュースで唇を湿らせていた。



 ――さて、話を移そう。というか、戻そう。



 どうして伊都が家に帰らずに車に乗っているかといえば、それは舞香より「御召し物が汚れてしまったから、代わりの服を用意する」と強引に連れ込まれたからである。


 言われてみれば、伊都の着物は汚れていた。まあ、無理もない。泥だらけの少女を背負ったのだから、いくら気を付けたとしても、多少なり泥がこびり付くのは当然の結果だ。


 とはいえ、泥自体は洗い落とせば済む話だし、着物自体も値が張るものではない。というか手作りだし、せいぜい材料代ぐらいだ。


 なので、伊都としては、気にするな、の一言でお終いである。実際、伊都にとってはただ、それだけのことであった。



 ――しかし、当の舞香(と、執事とだけ自己紹介した初老の男)はそう思わなかったようだ。



 帰ろうとする伊都を強く……それはもう強く引き留め、家に来るよう提案したのだ。


 曰く、彼女の家には何着か着物があるらしい。専属のクリーニング屋もいるので、今の物は一通り綺麗になったらお返しするとのことだ。


 受けた好意には厚意で報いるのが家訓らしく、このまま好意に甘えたままなのは辛いのだという。それならばまあ、仕方がないといった形で、伊都はこうして舞香の自宅へと御邪魔することとなったのであった。



(……気まずい。強引にでも帰るべきだったかしら)



 けれども、既に伊都は後悔し始めていた。高級感溢れるこの空間では、どう足掻いても気分が落ち着かないのもあったのだろう。


 瓶一本分(250ml)のジュースを飲みきった伊都は、失礼とは思いつつ……座席にて膝枕をしている舞香と、膝枕をされて眠っている少女を見やった。


 改めてみれば、二人は似ている。顔立ちもそうだが、雰囲気というか、気配が似ている。考えるまでもなく、姉妹なのだろう。


 尋ねたい気持ちが沸々と湧いて来たが、他所様のこと。不用意に立ち入ることではないと思い、伊都はあえて尋ねることはしなかった……が。



「私たちね、姉妹なの。名前は、舞世(まいよ)っていうの」

「――へえ」

「今年小6、来年には中学生。ちょっと齢が離れているし生意気なところがあるけど、けっこう可愛い子なんだよ」



 そう思った直後に舞香の方から紹介されて、伊都は返事が遅れた。


 こいつ、もしかして読心術(相手の心を読む術)でも嗜んでいるのかと伊都は目を細め……すぐに止めた。


 ……たまにだが、いるのだ。舞香のような、本能的に勘が鋭いやつが。


 舞香に『力』がないのは、最初の出会いの時に分かっていた。今のは、ただの偶然だ。そう己を納得させた伊都は、グラスに残ったジュースを飲み干し、テーブルに置いた。



「――この子、病気なの。本人も気にしていることだから、今日の事は誰にも話さないで」

「え?」



 途端、タイミングを見計らっていたかのように舞香が口を開いた。ちらりと見やれば、「いいわね、絶対に、誰にもよ」舞香の真剣な眼差しを目が合った。



「ここまで来て、とぼけないで。もう、見たんでしょ?」



 見た……それはつまり、あの動物霊に憑りつかれている時のことを……いや、まずはそれよりも、だ。



「まあ、見たといえば見ましたけど……でも、病気とは少し違うのでは?」



 伊都からすれば、それは当然の疑問であった。


 何せ、舞香は『心霊研究部』なる部活の部長だ。『力』を持たないとはいえ、心霊に関する知識が世間一般よりも広く深いのは想像するまでもない。


 加えて、こんな高そうな車を所持しているぐらいだ。西洋東洋問わず、出来うる限りの医学的な治療は行っているはずだ。


 常識に疎い伊都とて、今の医術が相当に進んでいることは知っている。だからこそ、妹の症状の原因が何なのか……それぐらい、とうに見当を付けているはずだと、伊都は思った。


 狐憑きは、あくまで動物霊が憑りついただけであって、病(やまい)ではない。霊さえ祓えば済むだけであり、元の人間が損なわれたわけではない。



 それを、わざわざ病人扱いするのは……些か、かわいそうではなかろうか。



 そう、伊都は言葉を続けたかった……のだが。



「――知った風なことを言わないで!」



 そうする前に怒鳴られてしまった為、伊都はそれ以上何も言えなかった。



「……怒鳴って、御免なさい。とにかく、誰にも言わないで。話したら、私はあなたを許さないから」



 それで、この話はおしまい。


 そう言わんばかりに一方的に会話を打ち切って、妹の頭を撫で始めた舞香を前に……その時になってようやく、伊都は彼女の複雑な内心を察した。



 ――考えてみれば、当たり前のことだと伊都は思った。



 基本的には『力』を持たねば姿を見ることも出来ない『幽霊』というやつは、存在を証明することは確かに難しい。それは、今でも変わらないことである。


 伊都が神の御許にて仕えていた数百年前ですら、『力』を持つと口にした傍から『嘘っぱちのうつけ者』扱いされることも、そう珍しいことではなかった。


 ――当然の話だ。何せ、常人には見えないからだ。


 声も聞こえないし、触れることも出来ない。仮に『力』を持っていたとしても、伊都のように物理的な現象を引き起こせる程の『力』を持っているやつなんて、百年に一人というぐらいの割合だ。


 一般人からすれば、居るのかどうかも定かではない存在が引き起こしたことを、何をしているのか分からないが対処してくれる……そんな者たちを信じろと言われて素直に信じるやつなんて、稀なのが普通なのだ。


 口では信じると話しても、いざ、直面した時の彼ら彼女らの言葉はいつも同じ。



『そんな者はいない、馬鹿馬鹿しい話は止してくれ』

『人をからかうのは止めろ』

『頭がおかしくなったのか』



 だいたい、この三つ。心霊が当たり前のように信じられていたかつての時代ですら、そうなのだ。


 例え、舞香たちが原因を『狐憑き』であることに思い至ったとしても、それを不用意に表には出せないだろう。


 何故なら、下手に出せば心無い誹謗中傷が向けられてしまう。それは想像するまでもない、現実であった。



(……やはり、私は世間知らずだ)



 優しく、慈愛に満ちた手捌きで妹の頭を撫でる舞香を見ながら、伊都は反省する。

 普通の子になろうと思っているが、まだまだ世間知らずであることを改めて思い知らされ……ん?



(――何ぞ?)



 不意に、伊都の視線が二人から動く。理由は、この車へと近づく妙な……霊的な気配を感知したからであった。


 近づいてくる幽霊からは敵意を感じない。しかし、確実に、車の方へとまっすぐ近づいて来ている。


 偶然……いや、違う。これは、明確な意志を持って近づいて来ている。


 だが、いったい何が目的なのだろうか。そう、伊都が首を傾げていると、気配の主がするりと車内に入って来た。



 ――瞬間、伊都は軽く目を見開いた。



 何故なら、車内に入って来たのが先ほどとは違う、また別の犬の霊であったからだ。加えて、その犬の霊はぐるりと車内を見回し……あろうことか、膝枕されている舞世の中へと、するりと憑依したのだ。



 ――それは、伊都にとってにわかに信じ難い光景であった。



 というのも、動物霊というのは、成仏出来ずに迷い出るということが人間ほどない。死んだことに気付かずにさ迷うことはあるが、人間のように未練を抱えることが少ないからだ。


 それは動物が楽観的……ではなく、良くも悪くも人間よりもはるかに純真であり無垢であるから。


 だから、憑りついたとしても、何かの拍子に抜け出てそのまま成仏する……というのも、けして珍しくはない。


 故に、動物霊が意図的に誰かを選んで憑りつくという光景に、伊都は驚いた。だが、呆然と驚いている暇は、伊都にはなかった。


 何故なら、憑依されてしまった舞世が唐突に目を覚まし……唸り声をあげて舞香へと襲い掛かったからであった。



「きゃあ、ああ、やめ、止めなさい!」



 その動きはまさに、獣であった。吊り上った目は白目のまま、なのに明確な意志を持って舞香の喉へと伸ばされた少女の腕。それを寸での所で押さえられたのは、単に舞香自身の運動神経のおかげであった。


 無造作に出された舞世の足が、テーブルを蹴りつける。倒れこそしないものの、グラスの水面が揺れる。ぐるるる、人とは思えない唸り声と共に、少女の腕に血管が浮かぶ。と、同時に、寸での所でその手首を掴んでいる舞香の腕にも、血管が浮かぶ。


 同性なれど、片や高校生、片や小学生。小学生の方は疲労し今の今まで寝息を立てていた。順当に考えれば、高校生である舞香の腕が、小学生である舞世を逆に抑え込む……はずなのだが。



「……っ!?」



 不可解な事に現実は逆で、それは何とも奇妙な光景であった。姉妹の腕の太さは、おおよそ一回り違う。太っているのではなく、骨格の太さが違う。


 なのに、目に見えて舞香が押し負けている。妹を傷つけないよう無意識に加減していることを差し引いても、それは異様な光景であった。



「――お嬢様!? 如何なされました!?」

「わ――たしは大丈夫! セバスチャンはそのまま運転し――っ、へっ、ぇ……!」



 後部座席の異常に気付いた執事のセバスチャンが声を荒げるが、舞香はそれを抑えて命じた。


 一刻も早く、自宅に戻った方が良いと判断したのだろう。だが、その時にはもう、舞香の喉には細い指先が絡み付いていた。


 ――一拍遅れて、甲高いブレーキ音が車内にも響いた。途端、テーブルの上に置いてあったジュース瓶が吹っ飛び、床にぶちまけられた。



(――おっと、危ない)



 その中で、ほとんど反射的に『力』で己を防御した伊都は、素早く二人の身体に守護を掛ける。


 そのおかげで、慣性によって投げ出された姉妹の身体が仕切りにぶつかって床に落ちても、傷一つ負うようなことはなかった。


 しかし、そのせいで二人の均衡は一気に崩れた。体勢が変わっても少女は全く力を緩めず、むしろ、さらに力を込める。ギリギリと締め付けが強まると共に舞香の顔が紅潮し始める――その、次の瞬間であった。


 運転席にいたセバスチャンが、「――お嬢様!」血相を変えて後部車内へと乗り込んできた。特有の異臭が車内になだれ込むと同時に、素早く舞世の背に回り……羽交い絞めにして、強引に二人を引き離した。



 ――ぐげ、ごほ、ごほ、ごほ。



 顔どころか首筋にまで冷や汗と脂汗を掻いた舞香が、大きく咳き込んで蹲る。「大丈夫ですか、お嬢様!」かなり苦しでいるのは傍目からも明白であったが、舞香は青ざめた顔のまま震える指先を座席下へと滑らせ……小さなアタッシュケースを引っ張り出した。


 ぱかりと乱暴に留め具を外せば、中には大小様々な……御札が収まっていた。そこに描かれている文字や図形には、何ら共通点はない。古今東西の、ありとあらゆるところから取り寄せた物であるのが、一目で伺えた。


 それを、舞香は無造作に掴むと、まるで平手で湿布を打ちこむかのように妹の身体へと叩きつけた。次から次へと、何度も何度も。大小様々な札が辺りに飛び散り、あっという間に車内は札だらけとなった。



 ……いったい、何をしているのか?



 仮にその場を目撃出来た一般人がいたなら、誰しもがそう思ったことだろう。しかし、傍で傍観者となっている伊都は違った。舞香たちがやろうとしていることを瞬時に理解し――次いで、目を細めた。


 何故かといえば、伊都の目には、『効力を失われた御札』を必死に使おうとしているようにしか見えなかったからだ。


 例えるならそれは、使い古した冷え切ったカイロをもう一回使おうと一生懸命擦り合わせている……といったところだろうか。あれでは、何の意味もない。



 やはり……彼女は気付いている。



 妹の症状の正体が『狐憑き』か、あるいは心霊に類する何かが原因であることに。この土壇場にて御札なんてものを使おうとしているのが、その証拠だ。



(あまり立ち入ってほしくないようでしたが……そうも言ってはいられませんね)



 まあ、それらについてはひとまず横に置いて、とにかく、まずは大人しくさせねばならない。只でさえ、舞世の身体は消耗しているのだから。


 このままでは、下手すると取り返しのつかない危険な状態になると判断した伊都は、懐より取り出した封筒サイズの紙にすぐさま『力』を込めた。



 ――変化は、すぐに現れる。



 白色無地の紙に音もなく盛り上がる、黒い文字。紙を抓む伊都の指先から、まるで極細の黒蛇が這い出ているかのように、紙面に『目の模様』を描き終えて止まった。


 それは、伊都の術によって『力』の方向性が定められた、特製の札だ。


 霊的な攻撃性は皆無だが、ありとあらゆる霊的存在の動きを止める事に特化した、いわば捕縛用御札である。


 それを、伊都は舞世へと躊躇なく放ち……一寸の狂いもなく、少女の小さな額に当たって、張り付いた。



 ――途端、びくん、と舞世の動きが止まった。



 その変化はあまりに突然で、一時停止ボタンを押したかのようで。「――えっ?」それまで必死に押さえ掛かっていた二人も変化に驚き、次いで、振り返った。



 二人の視線の先にいるのは、やれやれとため息を吐く伊都しかいなかった。



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