第3話 本人はふざけていないのです




 ――あれから、さらに五日間の時間が流れた。その間、伊都は学業以外では何をしていたかといえば……主に、掃除である。



 あの日の翌日より、毎日だ。



 放課後になるたびに、伊都は掃除用の服に着替えて空き部屋の掃除に取り掛かっていた。とにかく掃除しなければ部室が使い物にならないからだ。


 しかし……未だ、掃除は終わっていなかった。


 伊都自身が完璧主義というか凝り性なのも理由の一つだが、そうまで長引く原因は他にもある。


 それは、伊都が想定していた以上に室内の汚れが酷かったからなのと、伊都が神通力を初めとした『力』をほとんど使わなかったからだ。


 そこには特別、深い理由はない。ただ、普通の子が『力』を持っていないように、伊都もそれに倣っただけのことであった。


 そもそも、むやみやたらに『力』を使うことを、伊都は嫌っている。どうしても必要になった時には、必要な分だけの、鍛えに磨いた『力』を行使する。


 その考えが根底にあったが故に、こういう時は、『力』を使わずにやらなければならないだろう……そう、思ったからであった。



 だが、しかし……それが苦行の始まりでもあった。



 まず、汚れが目立つカーテンだが、教室に取り付けられているカーテンは一般用のそれよりもはるかに大きい。大きいということは、洗うのにも非常に手間が掛かるということだ。


 神通力を初めとした『力』を使えば容易いことだが、伊都の基準では……難しいところだ。けれども、それ無しでやるのは相当な重労働である。



 ならば、他の部室などにあるカーテンはどうしているのだろうか?



 先生方に尋ねてみれば『通常は学校を介して業者に連絡して洗ってもらう』との回答を貰った。それじゃあ、そのようにと伊都も頼もうとした……が、ここで問題が一つ発生した。


 それは、学校側を介して業者に頼むことは出来るが、その際に掛かる費用は生徒側(使う人、この場合は親御さんだ)が負担するということであった。



 どうしてそうなるのかと尋ねてみれば、答えは明快。



 予算と制度の関係上、学校がクリーニングを発注出来る回数は夏と冬の年2回までと定められており、それ以外の場合は使用する側の自己負担になるとのことであった。


 学校側の言い分としては、だ。多少なりとも実績さえあれば、部費や活動費として幾らか補助することは出来るらしい。


 しかし、伊都がやろうとしているのは廃部となって久しい俳句部だ。


 過去の実績があるとはいえ、過去は過去。現状、賞の一つも取れていない俳句部に配慮する理由が学校側にはない。そもそも、俳句部が残されている事自体、ある意味では特例扱いなのである。


 だから、部室として使用許可が出ているだけで十分だろう、という話らしい。その点については伊都も納得したので、カーテンは箒を用いて埃を落とす程度にしたが……そこでまた、新たな問題が発生した。


 例えば、あまりに埃が溜まり過ぎて、窓を開けられないということだ。


 下手に風でも吹けば、埃が廊下や外へ散らばってしまう。そうなると、隣や下の階の者が迷惑を被ってしまう。故に、伊都は締め切った室内での掃除を余儀なくされた。


 他にも……天井などの高い場所の掃除。


 同年代の平均身長より少しばかり(当人曰く、他の人達が大き過ぎるだけらしい)低い背丈の伊都にとって、天井の掃除は中々に骨が折れる作業だ。


 何時もなら浮遊して拭くところだが、今はそれが出来ない。なので、両手が届かない位置よりも高い場所は全て、脚立や踏み台を用いて掃除を行うこととなった。


 それを、伊都は一人でやっているのだ。


 いくら掃除とはいえ、上がったり下りたり腰を曲げたり伸ばしたり、短縮出来ない作業は多い。半神半人であるが故の体力のおかげで疲労することはなかったが、どうしても時間は掛かった。


 ……まあ、そのおかげで、だ。


 現状、特に何かが変わったというわけではないし、学校生活自体は依然と変わらず、遠巻きにされるばかりではあった…・・が。やることがあるおかげで、あまりに気にならなくなったのは……まあ、確かであった。


 ……ただ、少しだけ。


 旧校舎に入った初日以来、お隣さんである心霊研究部の扉がずっと閉まりっぱなしであるのが……気掛かりではあった。


 忙しいのか、それとも理由があって閉じているのか。


 それは伊都には分からなかったが、結局、五日目の放課後。外が薄暗くなり、旧校舎の外に出て振り返った時にも……電気は、付いていなかった。







 ……。


 ……。


 …………伊都が……彼女自身が住んでいた場所が、まあまあな田舎だと思っていた伊都だが、それが誤りであることに気付いたのは、高校入学前のこと。


 自宅からは遠すぎるという理由から入学に合わせて移り住んだ場所を見て、伊都は己が住んでいた場所が、如何に田舎であったのかを思い知らされた。


 ……というのも、だ。


 それまで伊都が住んでいた所では、徒歩一時間圏内の所にコンビニやスーパーはなかった。コンビニも夜の11時には閉まり、飲食店に至ってはそれよりも前に店を閉める。


 テレビを付けても映るチャンネル数は片手で収まり、天気が良ければ辛うじて両手に……という具合で。夜に店を閉めるのは当然だと思っていた伊都にとって、夜でも店が開いているというだけでも衝撃的なことであった。


 何故って、夜に店を開けているのである。夕方でもなく、夜に、だ。


 そんなのは皆が起きて動く昼にすることであって、夜は大人しく家で読書なり何なりに勤しむ時間ではないか……というのが、伊都にとっての常識であった。


 ……そりゃあ、伊都だって夜に出歩くことは度々あった。


 しかし、それはあくまで修行の為の山籠もりであって、遊びの為に出歩いたことは一度としてない。


 そんな伊都にとって、『暇だから外を出歩く』という行為自体が、未知の世界でしかなかったのだ。



 ――だが、新たに居を移して、二か月弱。



 たったそれだけの時間だが、たったそれだけでも、如何に己が人とは違う常識の中にいたというのを思い知るには……十分過ぎる時間であった。


 そして今日、その日。


 伊都は、生まれて初めて……大した用もないのにコンビニへ行くという一大決心を固めていた……というか、固めた。


 ぶっちゃけ、わざわざ夜に行くことに何の意味があるのかと思わなくはなかったが、これもまた普通に近づく一歩だと考え、すぐさま決行することにした。







 ――そんなわけで、時刻は夜。



 至る所に照明器具が設置されている都会とは違い、伊都がこの春より住まうこととなった、あまり明るくはないアパートへと、視点を移す。


 そこは、築十数年足らずでありながら、家賃は月に1万2千円という破格の値段で貸し出されている、二階建ての六戸(つまり、6部屋)のアパートであった。


 名は、『不知火荘(しらぬいそう)』。


 狭いが、台所(コンロはセット済み)、風呂トイレ別。押し入れなどの収納スペース有りと、良い所を並べれば誰もが羨むものであった。


 まあ、当然だ。常識的に考えれば、風呂トイレ別でコンロ付、収納スペース有り。それで家賃1万2千円なんて、破格以外の何物でもない。


 伴侶や恋人と一緒に暮らすのであれば手狭だが、学生の一人暮らしならば十分だ。仮に第三者がその話を聞けば、どうやって見つけたのかと疑問すら抱いたことだろう。


 ――だが、しかし。薔薇には棘があるように、上手い話には裏がある。案の定というべきか、不知火荘にも隠された闇があった。


 というのも、家賃を含めて実にお買い得な物件である、この不知火荘。現時点で住んでいるのは伊都だけで。付け加えるなら、両隣、向かいの家も空き家である。


 どうして、そうなっているのか……理由は様々だ。



 例えば、駅より離れていて不便であるということ。

 例えば、最寄りのコンビニまで徒歩で30分。

 例えば、スーパーまでは自転車で20分以上掛かるということ。

 例えば、近くに郵便局や銀行がないということ。



 該当する理由は、色々あった。


 けれども、不知火荘をはじめとした周辺に入居者がいない理由は、それらではない。


 本当の理由は、不知火荘をはじめとして、周辺には曰く付きのモノや事件があまりに多く、地元の者は怖がって誰もそこに住みたがらないからであった。



 ――その曰くというのは、だ。



 まず、不知火荘の裏手は墓地なのだが、そこはただの墓地ではない。どうも墓地の管理者が行方不明というか連絡が取れなくなっているみたいで、長年放置されっぱなしの墓地なのだ。


 立地条件としてはそう悪くないのだが、管理者不在が常態化しているのに問題になっていないだけあって、墓参りに訪れる人は滅多にいない。


 敷地面積自体がそう広くはなく、最近に建てられた墓石が30年以上も前なこともあって、お盆の時期ですら人を見かけないぐらいにそこは寂れている。


 故に、敷地内は荒れ放題の雑草だらけのゴミだらけ。


 墓地を囲うフェンスは一部に穴が空いているばかりか、ゴミ置き場代わりに置かれた入口傍の金タライは錆びてぼろぼろで、雨水が溜まっている。


 石畳は当然のこと、墓石も雨風にさらされっぱなしのせいで苔やらカビが生えている。一部はひび割れて家名が分からなくなっているのもあり、如何に人の手が入っていないのかが敷地の外からでも窺い知れた。


 そして、墓から視点を移し、向かいの家と両隣の家。


 そこには、真新しい一軒家が並んでいる。一見するばかりでは、不動産屋が一斉に家を建てて売りに出しているように見える光景だろうが……実際は、違うのだ。



 一つは、痴情のもつれから発覚した、夫婦の失踪によって生まれた空き家。

 一つは、金銭トラブルから発展した友人同士の殺人事件で生まれた空き家。

 一つは、人間関係から精神を壊してしまった者の自殺で生まれた空き家。



 他にも、このアパートが建てられてすぐ、周辺では大なり小なり様々な事故やら事件やらが発生していたとか……まあ、色々とあったらしいのだ。


 だから、いくら家賃が安いとはいえ……安いとはいえ、そうまで事件や不幸が周辺に起これば、忌避されるのは当然のこと。


 少なくとも、背に腹は代えられないという者以外は、そこを選択肢にすら入れる者はいなかった。しかも、そのうえ、だ。


 冗談のような話だが、当の不知火荘の入居者にすら、不幸が頻発したのだ。



 ある者は不知火荘に越してきてすぐに家族が事故死した。

 ある者は不当な借金を強引に背負わされ、夜逃げした。

 ある者は強盗に襲われ、治療の甲斐なく命を落とした。



 本当に、冗談のような話だ。けれども、何一つ冗談ではなく、実際に起こったことなのだ。周辺住民が怖がるのも、致し方ない話である。


 故に、実際に不幸に見舞われていなくとも、話を知った傍から引っ越す者が後を絶たず、今では入居者0。今では住めば不幸が訪れる有名なアパートとして知られている、曰くつきの物件なのであった。


 ……ただ、まあ、それは、あくまで一般人の話でしかなくて。


 半神半人の伊都にとっては、『ああ、そんな気質を感じますね』と軽く流される程度の事でしかなくて。ぶっちゃけ、気にも留めていなくて。


 そんな曰くつきのアパートに住まう、現在の伊都の胸中にあるのは、粗相をせずにコンビニで買い物を済ませるという固い決意だけであった。







 ……まあ、そんな感じで日が暮れてから、幾しばらく。玄関から廊下へと出た伊都がまず感じたのは、夜の臭いであった。


 ――かちゃり、と。


 玄関の鍵を締めた伊都は、軽く息を吐く。薄暗い廊下の照明に照らされた伊都の頬は僅かばかり紅潮しており、緊張感を纏っているのが傍からでも分かる有様であった。


 ……よし、と。


 しばしの間、息を整えていた伊都は改めて覚悟を固めると、敷地の外に出る。とすとすと地面を踏みしめていた一本歯が、かこんかこんと古びたアスファルトとぶつかった辺りで……伊都は、立ち止まった。


 ……何とも言い表し難い感覚だと、伊都は思った。


 真っ暗なアスファルトから漂ってくるのは、雨の臭い。その中に混じっている、夜風の冷たさ。通り雨程度に少しばかり降っただけなので、未だ昼間の熱気がそこには籠っていた。


 見上げれば、雲一つない夜空の向こうに星々が輝いているのが見える。天気予報を見た限りでは、明後日の夕方まで晴れ間が続くらしい。


 星々なんて見飽きていると思っていたが、この時ばかりは不思議と……と、思った辺りで伊都は我に返った。


 ――いやいや、待て待て落ち着け、と。


 我知らず舞い上がり掛けた己の心を宥めながら、伊都はそう己に言い聞かせた。ぱん、と己の頬を叩けば、その分だけ心が落ち着くのが分かった。


 修行以外で夜間に出歩くのはコレが初めてだが、考えてみればただ出歩くだけだ。今時、小学生だって出歩いてもそう珍しくはない話であることは、勉強済みだ。


 やること自体は、何てことはない。行き先が、山からコンビニに変わる程度のこと。むしろ、当たり前の事になっただけのこと。


 人の気配がない山奥の修行場(伊都が勝手にそう定めている所で、常人が入れば命の危険がある)と比べれば、はるかに安全だし、距離も近い。


 なので、緊張する点は皆無に等しいのだ……が。



(な、何を買いましょうか……思い返せば、コンビニなる万屋に行くのはコレが初めてですね……!)



 当の本人にとっては、山奥に一人分け入る方が、はるかに気が楽な作業であった。


 そう、御年15歳になる古都葉伊都はこれがコンビニ初体験であり、実はスーパーですらよほどの用が無い限りは入る事すらしない、筋金入りのアレであった。



 それでよくこれまで生活出来ていたのかと不思議に思うところだが、まあそれはアレだ。



 山奥に入って自生している木の実を食べたり、無人営業所や味噌屋などを利用したり、基本的に粗食で甘味を初めとした感触を一切取らないから……まあ、いい。


 とにかく、伊都にとっては全てが初体験。


 見方を変えれば、セルフ的な『初めてのおつかい』なのだ。そんなわけで、感動に打ち震えていた伊都が平静を取り戻し、歩き出したのは……だいたい5分後のことであった。






 ……。


 ……。


 …………さて、歩くこと幾しばらく。最初は緊張に少しばかり挙動がおかしくなっていた伊都も、その頃にはすっかり平静を取り戻していた。


 そうなれば、次に意識が行くのは周囲の景色である。市街の中心部ではまだ、所狭しに人が出歩く時間ではあるが、さすがにここらでは通行人を見掛けない。


 単純に、中途半端な時間だから。それでも、少しばかり歩いて表通りに出れば、騒がしさは相当に激しくなるのは想像するまでもなかった。


 かこん、かこん、かこん。下駄の一本歯が、アスファルトに跳ねて独特の音を立てる。


 目的地となる最寄りのコンビニまで、徒歩で30分。普通に考えれば自転車を使う距離だが、自転車を持っていない伊都には歩くしかなかった。


 けれども、山道を歩き慣れている伊都にとって、それは何ら不便を感じない作業であった……と。



(――き、来ました!)



 かこんかこんと下駄を鳴らし続けていると、気付けば数十メートル先に目的地となるコンビニが見えた。


 出入り口らしき傍には数台の自転車が並んでおり、隣の駐車場には車が4台停まっていた。


 ……ほ、本当に店が開いている。


 知ってはいたが、実際に目で見ると感動もする。思わず、伊都は懐から取り出した懐中時計で時間を確認する。


 ……ここでスマフォを出さずに懐中時計とくる辺り……いや、止そう。


 とにかく時間を確認した伊都は、逸る心を抑えつつ傍へと向かう。近づくにつれて、どんどん店の外観がはっきり分かるようになってくる。


 まあ、明かりがなくともフクロウ並みに夜目が利く伊都にとっては……止めよう。伊都は、普通の少女として生きると決めたのだ。


 とりあえずは、そんな感じで入口前へと立ち止まった伊都は、一つ息を整えると。よし、と気合を入れてから……店内へと入った。


 ――途端、ぱんぽろぱんぽろ、と聞き慣れないBGMが鳴る。


 既に保護者(例の弁護士)を通じて予習は済ませてある。なので、大して驚くこともなく伊都はからんからんと下駄を鳴らして店内へと足を進めた。


 ……とはいえ、店内の空気が少し変わったことに気付かない程度に、伊都は緊張していた。


 その場にいた客はもちろんのこと、店員の視線が何気なく伊都に向けられては、もう一度見るということを繰り返す。失礼な所作だったが、客観的に見れば、そうされても仕方のない話であった。


 何せ、伊都の恰好が格好……つまり、『人間サイズの市松人形』と比喩される、何時もの着物姿なのだ。


 只でさえ、夜遅くにそんな姿の女の子が一人で来店すれば、目立つのだ。仮にここが京都であったとしても、視線の一つは向けられて当然であった。


 おまけに、かこんかこんと一本歯の下駄を鳴らして店内を歩くのだから、目立って仕方がない。


 当の伊都は緊張しているのに加え、蛍光灯の眩しさにくらくらしていて視線には気づいていなかったのが……ある意味では、救いであった。



(はああ、ま、眩しい……夜の店とは、このように眩しいものなのですね……)



 両手で影を作りつつ、伊都は何度も目を瞬かせる。基本的に夜は蝋燭程度の明かりで過ごす伊都にとって、夜間のコンビニ……すなわち、蛍光灯の眩しさは目に強すぎる。


 けれども、ここで挫けるわけにはいかない。それに、人の身体とは慣れるものだ。半神半人とて例外ではなく、かこんかこんと下駄の音が響くこと、少しばかり。



(……はて、どうしましょう。コレといって欲しいモノがありません)



 ようやく、動ける程度に目が慣れてきた光の中で、それでも目を細めながら商品を眺めていた伊都は、困ったように首を傾げた。


 元々、伊都は常人よりも物欲が薄い。身に纏う着物だって自作した物だし、金銭だって生きる上で必要な分だけあればいいと本気で思っている。


 いちおう、来るまでは何を買おうかと思ってはいたが、コンビニに来たというだけで一先ずの満足を得てしまった。なので、伊都にとってこれ以上のことは……なんというか、余分にしか思えなかったのだ。



 ――しかし、せっかく来たのだ。



 このまま帰るのは冷やかしになってしまうし、理由もなく帰るのも……何だ。そう思った伊都は改めて店内を回りつつ、商品を見回し……ふむ、と小首を傾げた。



(無難に食べ物にしようかと思いましたが……)



 パッと見た限り、弁当類は軒並み全滅であった。通勤の帰宅時間を過ぎて大分経っているせいだろう。辛うじて残されているのはおにぎりが少々と、素麺とざる蕎麦が一つずつあるだけであった。



 ……久しぶりに蕎麦にしようか。



 残った蕎麦を手に取った伊都は、次いで、ほうじ茶のペットボトルを取って、菓子のコーナーに回る。ジュースやスナック菓子には興味がないので、必然と伊都の目が向くのは和菓子である。


 しかし、並べられている和菓子を見やった伊都は……軽く息を吐いた。


 専門店と比べるのは酷だが、正直、品ぞろえが悪いなあと伊都は思った。


 和菓子ならば貴賤なく同じぐらいに好きだが、それでもその日に応じた好みの気分はある。


 本日の舌は……餡子を求めていた。


 なので、しばし迷った後に伊都は……小さい羊羹を手に取ると、それをレジに持って行った。


 ぽかん、と呆けていた店員は、そのまま呆けた顔のまま商品をレジに通した。



「……えっと、678円になります」



 言われて、伊都が懐より取り出したのは……がま口タイプの財布であった。



「ぽ、ポイントカードはお持ちでしょうか?」

「…………?」

「お持ちでないのなら、お作りに――」

「…………?」

「――いえ、322円円のお釣りになります。ご確認ください」

「はい、確かに。ああ、わざわざ袋に……ご丁寧に、ありがとうございます」

「え、あ、はあ、どういたしまして」



 呆けている店員と、じろじろと様子を伺っている客たちを尻目に、伊都は店の外に出る。


 ぱらぽんぱらぽんと鳴るBGMを背に、かこんかこんと歩き出した伊都は……むふう、と鼻息を吹いた。



 ――とりあえず、笑顔を浮かべていれば大丈夫。



 そう助言を聞いていたので実践してみたが、本当に上手くいった。『ぽいんと』だとか『かーど』だとかよく分からなかったが、何事もなく事が済んで良かった。


 戦利品にも等しい蕎麦と羊羹が入った袋を片手に、伊都は歩く。


 こうして、また一歩。普通の子と同じように買い物を行い、普通へと近づけた気がする。淡い達成感を抱きながら、伊都は機嫌よく帰路に就いたのであった。









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