第2話 本人に悪気は無いのです




 ……何だろうか?



 思わず、伊都は周囲を見回す。周囲に、人の気配はない。しかし、確かに有る。正確な位置は分からないが、気配はある。


 危険という程ではないが、微弱ながらもよろしくない気配。あまり触れるべきではない類のソレだと、伊都は判断した。



 ――伊都が感じ取ったのは空間、あるいは物質にこびり付いた思いの欠片である。



 想いの欠片というモノ自体は、特にコレと定まっているわけでもなく、様々な言い方をする。伊都はそれを、『思念』と呼んでいた。


 思念とは、強い想いによって生み出される熱のようなものだ。


 熱は周囲を温め、分散し、最後には消費されて消える。思念も同じで、強い思念は周囲に残り、分散し、徐々に散って消えてしまう。


 伊都が感じ取ったのは、散って行く最中の思念であった。


 半神半人である伊都は、常人よりもそういう感覚が鋭い。その思念がどのような感情と思惑から放たれたのかを読み取ることが出来た。



(これは……かなり強い念ですね)



 だからこそ気になった伊都は、気配の出所を探る為に『己の感覚』を広げた。


 言うなればそれは感覚の触手であり、レーダーだ。四方八方に伸ばして探るその技は、伊都が得意とする技の一つであった。


 この技によって、伊都はその場に居ながら様々なことを知ることが出来る。


 さすがに、カメラを通したような鮮明な情報や物質の情報は得られないが、残された思念や霊的な『力』の残痕など、様々なものを感じ取ることが出来るのだ。


 ……現在、伊都がいるその場所は、階段を曲がってすぐの長い廊下。建物を上から見れば長方形をしており、伊都の前後には端から端まで遮る物がない一直線が伸びている。


 振り返れば、建物の端に当たる非常階段出入り口の扉まで目視出来る。並ぶ部屋の出入り口はどれも閉じられており、どこからも人の気配は感じられない。ならばと、範囲を下の階にまで広げ……はて、と伊都は首を傾げた。



 ……通常、思念とはそう長く残るものではない。



 お湯が時間の経過と共に冷めてゆくように、何時かは必ず消えてしまうものなのだ。だから、この階でなくとも建物の何処かに根源である人物がいるだろうと思っていたが……違った。


 どの階にも、それらしい気配がないのだ。幾つか強く思念が残っている場所はあるが、本人と思わしき気配ではない。少なくとも、もうこの旧校舎の中にはいないようだ。


 ……残念だと、伊都は思った。零れた溜息は、誰にも届くことはなかった。


 これほどの思念を残すということは、それだけ強い何かを抱えているということになる。


 どんな事情でそうなったのかは分からないが、大そう苦しんでいるであろうことは、伊都にも想像出来た。



(……話だけでも聞ければと思ったのですが、出会えないのであれば仕方ありません)



 心配だが、これもまた縁が成せる事。


 必要な機会が巡れば出会えるだろうと気持ちを切り替えた伊都は、再び踵を翻し……廊下の一番奥の部屋にて足を止めた。首から下げた鍵で、幾らか開けにくい扉を開け……ふむ、と伊都は頷いた。


 その部屋は、正しく空き部屋であった。


 以前は物置として使われ、今は放置されていると話には聞いていたが、見た所その通りだ。部屋の広さは一般的な校舎の教室の3分の2程度しかないが、物置としては十分な広さだろう。


 視線を下ろせば、床には埃の絨毯が敷き詰められているのが見える。壁際にある棚には、埃被った箱が幾つかそのままになっている。部屋の隅に纏められた机と椅子とが相まって、実に哀愁を誘った。


 ……埃臭い。


 率直な感想を抱いた伊都はさっさと中に入り、僅かに光が漏れる程度にぴったりと閉められたカーテンを開ける。途端、一気に明るくなった室内をぐるりと見回した伊都は……やれやれとため息を零した。


 床は言うに及ばず、壁や天井にこびり付いている埃の糸。まるで蜘蛛の巣のように広がるそれらを見やれば、いったいどれぐらいの間放置されっぱなしなのかが窺い知れる。


 特に、カーテンが酷い。埃で汚れているのもそうだが、これは……日焼けか、あるいはヤニか。


 薄らと黄色くなっているそれは、元が真っ黒な遮光カーテンとは思えない色合いとなっていた。


 ……これはまず、掃除から始めなければならないようだ。


 そう、伊都は思った。とてもではないが、こんな場所ではまともに落ち着くことも出来ない。


 歴史があるとはいえ、道理で部員数0(己が加入すれば部員数1)なのにいきなり部室が与えられるわけだ。話を聞かされた時に少しばかり嫌な予感を覚えたが、こういう理由ならば納得がいった。


 ……まあ、それならそれで良い。汚れているのであれば、掃除すれば良いだけのこと。


 そう結論付けた伊都は、きょろきょろと室内を見回す。掃除道具の一つでもあればと思ったが、そう都合よくはないようだ。


 ……仕方がない、用務員から借りて来よう。そう思った伊都が何気なく窓の向こうを見やった――その時。



 ――不意に、気配がした。



 なので、振り返る。そうして伊都の目に映ったのは、部屋の入口にて佇む女生徒の姿。まん丸に見開かれたその視線が向けられている最中、伊都がまず思ったのは……『綺麗な人』の一言であった。



 実際、その女生徒は美しかった。



 伊都よりも頭一つ分以上高い背丈に、それに見合う腰の高さ。すらりと伸びた背筋に、制服越しでも分かるスタイルの良さ。加えて、小さな頭に付いた顔は、正しく美貌である。


 同級生……には見えないが、上級生なのだろうか。


 常人離れした美女の、まん丸に見開かれた眼を見つめていると、ハッと、その女生徒も我に返ったようだ。スッと目を細めると、「ここで、何をしているの?」そう尋ねてきた。



「さあ、何も」

「何も?」



 首を傾げる女生徒に、「ええ、何も」伊都はお返しと言わんばかりに「ところで、あなたは?」尋ねた。すると、女生徒は不思議そうに首を傾げ……ああ、と一人手を叩いて納得した。



「あなたが、噂になっている新入生ね?」

「……噂?」

「そう、噂。今年の新入生には市松人形みたいな出で立ちの女子がいるって話よ……へえ、実物は本当に市松人形だわ」



 じろじろと、女生徒の視線が遠慮なく伊都の全身を上下する。


 ……今更その程度で気分を害するわけではないが、失礼なのは事実。「……1年2組の古都葉伊都です。それで、あなたは?」ひとまず、ジロリと軽く睨んでから名乗った。



「あら御免なさい、不躾なうえに名乗るのが遅れたわね。私は2年3組の崎守舞香さきもり・まいか。こう見えて生徒会副会長をさせてもらっているわ」

「副会長……さん、ですか?」

「副会長は役職だから、私のことは舞香って呼んで。私も、あなたのことは伊都ちゃんって呼ぶから……あら、御免なさい、通せんぼしていたわね」



 視線の意味に気付いた女生徒……舞香は、そっと道を譲った。それを見て、一つ頭を下げてから傍を通って廊下に出る。振り返れば、後ろ手で扉を閉めている舞香と視線が交差した。


 ――本当に、綺麗な人だ。


 改めて舞香の全身を見やった伊都は、心の底からそう思った。


 非の打ちどころがないとは、こういう人を指し示すのだろう。美女は時に、その美しさを人形に例えられることがあるけど、曇りが一点も見当たらない舞香の美貌は、伊都よりもずっと人形めいていた。


 ……そうして、ぼんやりと見つめ合っていると、だ。


 ついて来て、と言わんばかりに手招きをしながら舞香が歩き出す。その足が止まったのは……今しがた出てきた部屋の、隣。


 こちらの返事も聞かずにがらり、と扉を開けて中に入って行った後……手だけが飛び出すと、ちょいちょい、と手招きをして、また引っ込んだ。


 ……悪い人ではない。ただまあ、少し変わった面があるようだ。それは、感じ取れる気配からも分かる。


 さて、どうしたものか……伊都は首を傾げた。まあ……どうするも何も、今日することなんて掃除ぐらいだ。


 ちらりと埃だらけの空き部屋を見やった伊都は、一つため息を零すと、からんからんと下駄を鳴らして後に続いて中に入り――ぽかん、と呆けた。


 一言でいえば、室内は映像機器を始めとする機材の山であった。


 あるいは、そういった編集関係の仕事場だろうか。少なくとも、伊都が面食らって呆然とするほどには凄いものであった。


 ステンレスの棚に並べられた機材はどれも大きく真新しく、カメラや録画機器が収められている。部屋の中央に置かれた大きなテーブルにはデスクトップタイプのパソコンが二台置かれ、大型液晶ディスプレイと合わせて二桁以上のコンセントが床を走っている。


 視線を横に向けて、空き部屋がある壁側には、衣装ケースにも使われているプラスチックのケースが幾つか重ねられている。ケース越しに見える中身は、文庫本ぐらいの大きさの黒い何かであった。


 伊都は分からなかった(古いからではなく、伊都にとっては新し過ぎた為)が、その黒い何かの正体は、今時では珍しくなった磁気テープ型の、かつてはVHSテープと呼ばれていた記録媒体である。そのケースの上にはVHSテープを再生することが出来るビデオデッキがビニール袋に包まれて置かれていた。



 ……いったい、ここはどういう場所なのだろうか。



 心の中で、伊都は思う。文明の機器が溢れかえっている室内にて、伊都は言葉一つ出すことも出来ず呆然としていた。


 圧倒される光景とは、こういうモノを言うのだろう。


 右を見ても左を見ても、知っている物が何一つない。旧校舎の雰囲気に引きずられていたせいもあってか、伊都は己が全く別の空間に迷い込んでしまったのかとさえ思ってしまった。



(……は、ハイカラなお部屋なんですね)



 ともすれば心細さすら覚えかねない中で、辛うじてその感想を胸中にて零した伊都は、堪らず視線をさ迷わせる。何か、心安げる物があればと思っての行動であった。



「……あっ」



 そうして、何気なく見やった伊都の注意を引いたのは、ステンレスの棚の一番上に置かれていた、中身が空っぽの鳥かごであった。


 ビニール袋に納められたそれは、どれぐらい昔の物なのかは不明だ。しかし、使われなくなって久しいのが全体の雰囲気から察せられた……と。



「座る所はないから、適当に立っていてちょうだい。今、コーヒーを入れるわ」



 掛けられた声に、伊都はハッと我に返った。


 室内の光景に圧倒されている伊都を尻目に、舞香は気にした様子もなく、縦横無尽に走り回っているコードを跨いで行く。その先を見やれば、部屋の隅には小さいながらも流し台一式が設置されているのが確認出来た。


 布巾の上に並べられたマグカップをひっくり返しつつ、舞香は手慣れた様子で準備を進めてゆく。


 ここは給湯室か、あるいは宿直室だったのだろうか。


 カチリと音がしたかと思えば、流し台傍の台に置かれたカセットコンロに火が灯った。さすがに、今はガスが通っていないようだ。


 ……しかし、ここは落ち着かない。


 ぐるりと室内を改めて見回した伊都は、何度目かとなる思いを抱いていた。


 機械に怖気づいたのか、あるいは雰囲気に圧倒されたのか。それとも別の理由なのかは伊都自身にも分からないことであったが、圧迫感を覚えているのは確かであった……と。



「――驚いたかしら?」



 前触れもなく掛けられた言葉に、伊都はビクッと肩を震わせた。振り返れば、「勝手だけど、砂糖とクリープを入れたから」両手にマグカップを持った舞香が立っていた。


 差し出されたマグカップを無言のままに受け取れば、まろやかな香りと共に湯気が伊都の頬をくすぐる。


 ちらりと舞香を見上げれば、既に舞香はマグカップに口づけていた。なので、伊都もマグカップに口づけ……そっと、離した。



「ここは心霊現象を始めとしたオカルトを研究している、『心霊研究部』。私はそこの部長を務めているわ。お隣さんだから、寂しくなったら遊びに来てもいいわよ」



 すると、タイミングを見計らっていたかのように舞香がそう紹介した。また、舞香は一口喉を鳴らした。



「でも、不用意に機材に触っちゃ駄目よ。けっこうレア物もあるし、替えが手に入らないやつもあるから。高いやつだと、弁償金が5ケタになるから注意してね」


 ――頼まれたところで触りません。



 そう言い掛けた唇を寸での所で堪えた伊都は、「はあ、分かりました」借りてきた猫のように頼りない返事をした。



 うむ、宜しい。



 そういって満足気にしている舞香の姿に……伊都は内心、安堵混じりのため息を深々と零した。と、同時に、その事に少しばかりやるせない感情を抱いているのを自覚し、その事でもため息を零した。



 心霊研究部……心霊、か。



 とりあえずは、身近な言葉が出てきたことに、伊都は落ち着きを取り戻す。


 しかし、皮肉なものだ。変わろうと思ったのに、向こうからすり寄ってきた時は、こういう気分になるのだろうか。


 ソレを喜べば良いのか、嘆けば良いのか。何とも複雑な思いに浸っていると、「……やっぱり貴女って、変わっているわね」舞香はそうポツリと呟いた。


 変わっている……伊都は首を傾げつつ、己が姿を見下ろす。


 まあ……昔ならいざ知らず、現代になって着物を日常的に着る人が珍しいのは確かだ。その点については、伊都も不本意ながら認めている。


 しかし、それならば、舞香も負けず劣らずなぐらいに変わっている(美人的な意味で)と伊都は思った……が、思っただけでそれを口に出すようなことはしなかった。


 そうして間を置いていると、「……冷めないうちに、どうぞ」そっと、促された。


 何が冷めるって、それは手に持っているコーヒーである。


 遠慮せずに飲めという意味なのは、考えるまでもない。ご厚意を無下に出来ない伊都は、しばし視線をさ迷わせた後……再び、マグカップに口づけた。



「ところで、お味はどう? インスタントだけど、けっこう高いやつよ」



 尋ねられた伊都は、素直に感想を返した。



「黒い、苦い、不味い」



 途端、舞香は堪らないと言わんばかりに吹き出した。思わず見やれば、「御免なさい、まるで初めて飲んだみたいなことを言うから」舞香は申し訳なさそうに視線を逸らし……静かに、戻した。



「もしかして、本当に初めて?」

「西洋文化には疎いものでして。独特な香りであるとは存じていましたが、珈琲(こうひい)とは、こうも苦々しいものなのですね」



 信じられないと言わんばかりに目を瞬かせる舞香であったが、それは無理もないことであった。


 今時、小学生でもコーヒーを飲む子は珍しくない。好き嫌いは別として、一度も飲んだことはないというのは天然記念物に匹敵する珍しさだからだ。


 しかし、伊都としてはそれが正直な感想であった。


 元々が精神年齢数百年であることに加え、人として生まれたその時より修行&修行の日々。機会がなかったと言われればそうでもないが、まあ、コーヒーを飲んだのはコレが初めてであった。


 しばしの間、伊都と舞香の二人は無言のままマグカップを傾けてゆく。片方は味わうように少しずつ、もう片方は唇をわずかながら湿らせる程度に。


 そうして、舞香のコーヒーが3分の1程度にまで減った辺りで、「それで、私に何か御用ですか?」不意に沈黙を破ったのは、伊都の方からであった。


 モデル顔負けの美人を前に物怖じすることなく言いたいことを言うのは、年の功というやつか。幾分か驚いたように見開かれた舞香の眼が……緩やかに、下がった。



「別に、大した用はないの。ただ、気になっただけ。どんな子があそこを使うことを承諾したのかなあ……ってね。だって、隣が長い事使われていないのはあなたも先生方から聞いて御存じのはずでしょう?」

「ええ、まあ。思っていたよりもずっと酷かったですけど」

「色々あったらしくて、一時期は『開かずの間』って呼ばれていたこともあったぐらいだもの。汚くなっていて当然だわ」



 ああ、だからあそこまで汚かったのか。舞香の言葉に、伊都は深々とため息を零した。本当に、思っていたよりも酷い有様だった。


 それこそ、天井から床まで雑巾ぐらいは掛けないと、体調を崩しそうなぐらいだ。少なくとも、今日明日掃除をした程度で使えるようにはならないだろう。



 ……まあ、致し方ないことだと伊都は受け入れてはいる。



 放置されて使われていない空き部屋とはいえ、大勢いる生徒の中の一人に過ぎない己に、専用を与えてくれたのだ。むしろ、感謝するところだと伊都は思って――っと。


 考え事をしていた伊都の手から、マグカップが取り上げられた。


 あっ、と思った時にはもう、「ごめんね、無理に飲まなくてもいいから」幾分か申し訳なさそうにした舞香に謝られていた。


 そんなつもりは――と言い掛けたが、伊都は軽く頭を下げる程度に留める。飲むのが辛かったし、気を使われてしまったのは事実。


 だから、その優しさを受けるのもまた礼儀だと考えた伊都は、「珈琲、馳走になりました」話を切り替える様に立ち上がった。



 そのせいで、場の空気が自然と『お開き』になるのは……まあ、当然の結果であった。



 元々、お互いが初対面。伊都が一般的な男子であったなら適当に会話を続けようとしたのだろうが、あいにく、伊都にその気はない。


 これから部室となる空き部屋の掃除をしなければならないのは舞香も察していたので、引き留めようとはしなかった。


 なので、伊都は最後にぺこりと頭を下げると、からんからんと下駄を鳴らして廊下へ……出ようとしたのだが。



 ――その音が、部屋を出る前に止まった。



 その変化に、カップを洗おうとしていた舞香が振り返った。しかし、伊都の視線は舞香には向いていなかった。伊都の視線が向けられたのは、ステンレスの棚の最上段……そこに置かれた、空の鳥かごであった。



 ……そこに、何の意味があるのか。



 傍目からその姿を見た者は、意味が分からずに首を傾げたことだろう。何故なら、鳥かごは空だ。加えて、鳥かご自体は何ら高級品というわけではない。ショップに行けば、似たようなものをすぐに買うことが出来るだろう。


 けれども、伊都はそれを見つめ続けていた。


 まるで、伊都には鳥かご以外の、別の何かが見えているかのようで……いや、違う。伊都には、見えていたのだ。


 その鳥かごの中にいる、常人にはけして見ることの出来ない存在……すなわち、幽霊と呼ばれる霊的存在を。


 ――と、同時に、伊都はその鳥かごの中身から向けられる視線をも認識していた。


 何故かは分からないが、鳥かごの中にいるそいつは、伊都に対して並々ならぬ強い何かを向けた。敵意ならば無視していたが、そうではない……興味が、伊都の足を引き留めたのであった。



(……はて?)



 しかし、それだけであった。伊都を引き留めた鳥かごの主は、それが精一杯だと言わんばかりに大人しくなった。たった今、伊都へと向けた何かはもう、欠片すら感じ取れなくなった。



 ……ちょっかいを掛けてきたというのに、これはいったい何事だろうか。



 気になった伊都は、思念を通じて軽く呼びかける。言うなればそれは、霊的な存在に対する簡易な交信術のようなもの。


 相手に意志疎通が出来るだけの理性が残っていれば、何かしらの反応を確認することが出来る……のだが。



(……変ですね、何やら手応えというか、気配が……?)



 不思議なことに、反応がほとんど無い。もしやここを離れているのかと思って気配を探ってみるが、気配は依然とそこにある。つまり、返事だけをしないのだ。



 こういう場合、考えられる理由は三つ。



 一つ目は、霊的存在が獲物と定めた相手を誘い込むための罠。


 これは悪霊と呼ばれる類の存在がよくやる手だが、今回の相手は半神半人の伊都だ。普通に生きると決めはしたが、その程度を見破れないほどに腑抜けてはいない。



 二つ目は、霊的な存在が行う悪戯だ。


 これは子供の幽霊などがよくやることであり、己が死んでいることに気付いてないが故のこと……なのだが、今回は違うみたいだ。子供の霊にしては、あまりに大人し過ぎるから。



 三つ目は、この霊的存在が弱り切っている場合だ。


 感じ取れる気配から察するに、おそらくは三つ目だろうと伊都は思った。だって、伊都の目をもってしても、その姿を確認出来ないのだから。



 しかし……同時に、妙な気配を持っているとも、伊都は思った。何と言い表せば良いのか……いや、それに加えて、こいつがいったい何を望んでいるのかが分からない。


 向こうから呼び掛けてきたのに、こちらから呼び掛ければ無視する。悪戯だと判断しても……いや、いやいや、気配が変である事とは別に、弱っているのは確かなので、放っておくにも気が引けた。



(……あまり褒められた行為ではありませんが……仕方ありません)



 思惑は何であれ、何か事情があるのかもしれない。


 そう判断した伊都は、『力』をわずかばかり鳥かごへと放つ。すると、あら不思議。常人にはまったく感知出来ないことではあったが、伊都から放たれた『力』は……中にいるものに吸収され、活力となった。


 これは、鳥かごの中にいる霊が悪しき存在……すなわち、悪霊になっていないから行えることである。


 何故なら、伊都の『力』は、言うなれば『正の力』。悪霊が持つ『負の力』とは対極に位置するものである。


 この力を受けて何事も起こらない時点で、鳥かごの中にいるそいつは悪しきものではないということを証明していた。



(……まあ、ここで会ったのも何かの縁。必要とあらば、私の下に来るでしょう)



 十分だと判断した伊都は、緩やかに力の放流を止める。この場においてその存在を認識出来ていたのは、伊都だけ。


 だから、伊都の視線の先にある物に舞香が気付いて首を傾げていても、それだけで。


 ひとまずはと視線を戻した伊都は……そういえば、と舞香を見やった。



「舞香さん、あの鳥かご……使ってないみたいですけれども、何か思い入れでも?」

「え……あ、ああ、そうね。思い入れはあるけど、それが何か?」

「いえ、何も。ただ、こうまで機械に溢れておりますから、どうにも似つかわしくない物があるなあと思っただけです」



 そう言い終えると、「――珈琲、御馳走様でした」伊都は頭を下げ、廊下へと出た。


 途端、伊都の視界に広がるのは、ノスタルジック。無意識の内に深々とため息を吐いていたことに……気づいた伊都は、思わず苦笑した。


 どうやら、見慣れない環境に身を置いたことによって、緊張しているのが自覚出来ないぐらいに緊張していたようだ。


 軽く肩を回すだけで、如何に筋肉が強張ったままなのかが分かり……ふと、伊都は己の部室となる空き部屋へと目を向けた。



 ……やはり、酷い。



 途端、伊都は先ほどまでとは違う理由でため息を零した。


 先ほどまでいた心霊研究部は、機械やら何やらで色々とごちゃごちゃっとしていたが、汚くはなかった。ちゃんと、掃除が成されていたから。


 対してこちらは、そういった意味ではごちゃごちゃしてはいないが……汚い。それはもう、汚い。ただそこにいるだけでむせ返るほどに、汚い。



(……今日はまあ、様子見とお隣さんへの挨拶のみということで、掃除するのは明日以降にしましょう)



 この恰好では少々やり辛いですし、無暗に汚すのも嫌ですし。


 ちらりと、己が姿を見下ろした伊都は、そう己を納得させて……帰り支度を始めることにした。




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