第11話 伊都は隠し通してきた事へ触れるのです
伊都たちが店を出る頃にはもう、外は真っ暗になっていた。時刻を見れば……どうやら、知らず知らずのうちに長く話しこんでいたようだ。
まあ、内容が内容であるから誰からも文句は出なかったし、ダンディからも「次は、普通に飯を食いに来てくれよ!」というだけで終わったから、営業の邪魔にはならなかったようだが……伊都は、隣に座る華子を見やった。
現在、伊都たちは真人の運転する車に乗って、舞香たちの家(真人の家でもあるけど)へと向かっている。運転するのは、当たり前だが真人だ。
伊都は、真人の真後ろに当たる後部座席に腰を下ろしている。華子は、助手席の後ろの席……つまり、伊都の隣。ごく当たり前のように乗り込んできたから何も言わなかったが……見つめていると、気付いた華子が振り向いた。
「なに?」
「どうして、貴方が?」
「付いて来るの、駄目だった?」
「構いませんよ。誰が付いて来ようが、同じこと……ですが、貴方に出来ることは何もないと思います。それは、御覚悟出来ていらっしゃるのですか?」
伊都のその発言は、華子を軽んじている……わけではない。むしろ、気付かったうえでのものであった。
何故なら、華子には『力』がない。高くもなく、低すぎるわけでもない。いわゆる一般人の平均程度であり、『霊的な事』に関していえば、助力になることはまずないだろう。
それはつまり、何か有っても邪魔にしかならないということ。
これまでの会話から、そういった方面に対する知識も皆無に等しいのも分かっていたからこそ、伊都は暗に付いてこない方が良いと促した。
何が有ったとしても、何を見る事になったとしても、華子には何も出来ない。見守る以前に、見つめる事しか出来ない。
それは時に、蚊帳の外にいるよりも辛い事であるのを知っているからこその、伊都なりの優しさであった。
……けれども、だ。
華子は、何も言わなかった。降りようともしなかったし、伊都に食って掛かるようなこともしなかった。ただ、伊都から視線を外して、黙って窓の外を見やるだけ。
……それが、彼女なりの意思表示であることは考えるまでもないことであった。
いや、伊都の場合はそれ以上だ。他者の感情を読み取れる伊都が、華子から感じ取ったのは……『哀しみ』と、『怒り』。それも、とびっきり強い。
『哀しみ』は……分かる。おそらく、友人である己に対して何一つ相談もせず、ずっと隠し通して来た事に対するモノだ。
『怒り』は……まあ、想像は出来る。前者と同じく、ひた隠しし続けていた事に対する、友人への哀しみが反転した結果だろう。
強い哀しみは、時にそれと同じくらいの怒りを生み出す。要は、『どうして相談してくれなかったの!』といった感じのやつだ……が、とりあえず今はいい。
重要なのは、彼女は彼女なりに想う事があって、この車に乗り込んだということ。
車の持ち主である真人が降ろそうとしない以上は、伊都も無理強いをするつもりはない。
結果を受け入れる覚悟を固めた以上は、あれこれ口出しするつもりも伊都にはなかった。
……自然と、車内には沈黙が満ちていた。
いつの間にか点けられているラジオからは、軽快なBGMが流れている。気づいた伊都が視線をやれば、ルームミラー越しに真人と視線が合った――途端、真人は目を逸らした。
それは伊都を怖がっている……というよりも、どう接したら良いか分からないといった様子の逸らし方であった。
実際、そのままミラー越しに見つめていると、真人はちらちらと間接的にこちらを見返してはいたが……それ以上を踏み込んでくる様子はなかった。
その背中から感じ取れる感情は……不安か。いや、これは不安というよりは迷い……いや、緊張だ。そう、緊張している。この沈黙を放置するべきか否か、迷い緊張して……ん?
(……この人、もしかしたら、見た目とは裏腹にかなり気の弱い人なのでは?)
聞き覚えのない音楽が流れる最中、ふと、脳裏を過った直感に従って、伊都は真人の評価を改める。
初見の時(女の生霊を引き連れていた時)には、『大そうな色男』なのだろうと思っていたが……どうも、違うようだ。
あの店での対話から何となくそうではないかと思ってはいたが、やはりそうだ。
不遜な最初とは真逆の、どちらかといえば……不器用で、素直な性根が……感情を通して、透けて見える。
少なくとも、不用意に他者の心に踏み込み、咎められた際に茶化したり誤魔化したりするような人ではない。
臆病だと言われればそれまでだが、それはこちら側を思うが故の……ふむ、と伊都は内心にて頷いた。
(放っておいても女性の方から来てくれるでしょうから……逆に、来てくれない相手に対しては怖気づいてしまうのでしょうか?)
己を名前ではなく、名字で呼んだあたり……意外と、有り得るかもしれない。
そう思った伊都は、とりあえず向こうから話しかけて来るまで場の空気を放置することにして……華子に倣って、そっと窓の外を見やった。
――当たり前だが、外は真っ暗だ。
手入れが成されていない街路樹の根元に見える、ゴミのペットボトル。所々剥げた白のラインが、等間隔で見えたり見えなくなったりしている。
光っては通り過ぎてゆく、対向車のライト。昼間とそう変わらない光景だが、不思議と昼間よりも陰鬱とした空気が感じられるのは……伊都の気のせいなのだろう。
向かう先は同じでも、昨日とは出発点が違うからだろう。元々の土地勘が無いこともあって、目に映る景色のどれもが新鮮だ。
……とりあえずは、こうして暗闇に紛れている建物やら何やらを眺めているだけで、道中の退屈はしなさそうであった。
(……昼間とは、見受けられる顔ぶれが違いますね)
比較的早めに食事を済ませたとはいえ、既に、通り過ぎてゆく道路の人影は少ない。ちらほらと見受けられるのは、会社帰りの人達……といったところだろうか。
伊都が以前住んでいた場所では、昼も夜もそうそう顔ぶれが変わるようなことはなかった。
昼間しか見ない顔は有っても、夜しか見ない顔はいなかったから、それもまた伊都にとっては新鮮であった。
そうして……ぼうっと外の景色を眺めていると、車が止まる。見れば、車の前方には線路の遮断機が下りていた。
ちらりと、上りも下りも電車が通ることを示す電光掲示板を見やった伊都は……一つ息を吐いて、窓から夜空を見上げた。
(……そうか、今日は月が姿を隠す夜でしたね)
晴れ渡った夜空には、雲一つない。ポツポツと点在する星々は見られるが、その中において最も大きく強く輝いている(正確には、違うのだが)はずの……月が、見当たらない。
――あまり、よろしくはない日だ。不意に、伊都は思った。
根拠は、ある。というのも、霊的な存在……つまり、幽霊と呼ばれる存在は、『月』と密接な関わりがあるからだ。当然、半分が神である伊都も、その例外ではない。
雨雲に隠れて見えない程度ならそこまで影響は出ないが、月の出ない夜……すなわち、『新月』や『三十日月』と呼ばれるような日はまずい。
良い意味でも悪い意味でも予期せぬ事が起こるとして、古くから忌避されていた日だからだ。
事実、伊都はこういう日にはあまり良い思い出がない。修行一辺倒の生活をしてきた身だが、それでも……心を乱す出来事に遭遇する頻度が多い。
だから、これまで月が見えなくなる日と、その前後一日ずつ。つまり、計6日間は所用が無い限りは外出を避け、自宅にて瞑想をするに留めていた。
それを今日、破る。いや、今までにも何度か破ったことはあるが……それでも、前回にソレを行ってから、もう二年ぐらいになる。
(何事も起きなければ良いのですが……)
依然、変わらず外を見つめ続ける華子。こちらを伺いつつも声を掛けられないでいる真人の二人を、順に見やった伊都は……内心にて、ため息を零したのであった。
……。
……。
…………幸運というべきか、何というべきか。真人の自宅(つまり、舞香の家だ)へと伊都が到着した時、舞香は入浴中とのことであった。
次いでにいえば、舞香たちの両親も館にはいなかった。出迎えに出てきた滝川(セバスではない)曰く『所用で明日の夜まで帰って来ない』ということらしい。
――率直に、好都合だと伊都は思った。
何せ、この家の中で妹への対応が最も顕著であるのは、姉の舞香だ。
なので、下手に余計な横槍を入れられて、立ち入り禁止にされてしまえば……次のチャンスが何時になるか分かったものじゃない。
滝川の話では、舞香が入浴に向かったのは、十分程前。
部屋に戻るまで、だいたい50分から一時間ぐらいは掛かるらしいから、残りは40分有るか無いか……と、いったところだろう。
真人に案内されるがまま、伊都は(華子も)舞世の自室へと向かう。
滝川は……困った顔でこちらの様子を伺うばかりだ。ただ、止めるつもりはないのか、口を挟むことをせず、黙って伊都たちの後に続いた。
「……鍵が掛かっていますね」
そうして、到着した舞世の部屋……だが、鍵が掛かっていた。振り返れば、「申し訳ありません、舞香御嬢様より……」滝川が申し訳なさそうにしていた。
……無言のままに、隣の真人を見上げる。
すると、真人も同じように伊都から視線を逸らした。「……すまん、言い忘れていた」そのまま見つめ続けていたら、居心地悪そうに謝られた……こいつ、やっぱり抜けている所がある。
……まあ、仕方ない。
気を取り直して尋ねてみれば、基本的に舞世の世話は姉の舞香が望んで一任しているらしく、使用人も呼ばれない限りは部屋に入らないようにしていると教えられた。
驚いたことに、それは両親すらも同じらしい。世話をしている舞香曰く、自分以外の者が不用意に近づくと興奮してしまうらしく、それが原因で暴れてしまうのだとか。
なので、『舞世が落ち着いている、あるいは寝ている』と舞香が判断している時に両親や真人が寝顔を見に来る……という形になっており、それがもうずっと続いているのだとか。
「……それって、おかしくない? いくら心の病気だからって、それは変だよ」
話を横で聞いていた華子が、訝しんだ様子で真人たちを見やった。事情を知らなかった華子のその意見は、ある意味では誰もが最初に抱く真っ当な疑問であった。
「それは俺たちの誰もが思っている。けれども、舞香の言う通りにすると舞世は落ち着くし、実際に顔を合わせると暴れて……ここから逃げ出してしまうんだ」
「逃げ出すって、そんなの……」
「実際に暴れ出すところを見れば、華子ちゃんも俺たちの気持ちが分かるはずだ……古都葉も、見ているはずだから分かるだろう?」
「まあ、人前に出せる状態ではありませんね。無関係な人物にまで怪我を負わせたとなれば、何より困るのは当人でしょうから」
話を振られた伊都は、率直な感想を述べた。
実際、伊都の感想は大げさでも何でもない。現状をありのまま述べただけであり、他者に危害を加える可能性があるのも事実であった。
「俺たちだって間違っているのは分かっている……だが、俺たちの見栄で苦しむのは、舞世の方なんだ」
「…………」
「分かってくれとは言わない。でも、俺たちだって不本意であることだけは理解してくれ。俺も……こんな形じゃなくて、前みたいに戻ってほしいんだ」
辛そうに俯く真人の言葉に、華子は……何も言えなかった。
後ろで控えている滝川も同様で、場の空気は先ほどと打って変わって重苦しいものとなっていた……その、中で。
(……おかしい。昨日と違って、中から『力』を感じ取れる)
伊都だけは、落ち込むことなく冷静に扉の向こうを探り続けていた。
皮肉なことにそれは、この場において唯一舞世との付き合いがほとんどないおかげであった。
その冷静さが、扉越しとはいえ扉向こうの違和感を見つけた。それは、昨日は舞世の部屋では感じ取れなかった、『霊的な力』であった。
――やはり、舞香は何かを隠している。それも、舞世に関する重大な何かを!
そのことに確信を抱いた伊都は、着物の懐より小さく薄い木箱を取り出す。
真人たちから視線を感じる最中、蓋を開ければ……中には、紙で出来た人形(まっすぐ立って両腕を広げた棒人間をイメージしたら良い)が何枚も収まっていた。
「……それは?」
「そこそこ便利な道具です」
いったい何をするのかと首を傾げる真人たちを尻目に、伊都は人形を一枚取り出す。「……血は、強すぎるか」次いで、その人形の中心に……ぺとりと、唾液を一滴。そうしてから、伊都は……呪文を唱える。
「『某の目は我の目、某の耳は我の耳、我の血肉を帯びた某は、某の血肉となって我の手足となる』」
そう、伊都が呟いた……直後。紙人形が、ぶるりと独りでに身を震わせた。
目を見開く真人たちを他所に、ひらりと伊都の手を離れたソレは……スルリと、扉の下の隙間から、室内に入って行った。
……少しばかりの間を置いて、かちゃり、と。鍵が開く音がした。
なので、伊都はさっさと扉を開けて中に入った……直後。伊都ではなく、伊都の後に続いて入って来た真人たちが……室内の惨状を見て、絶句した。
客観的に、かつ、ありのままを答えるのであれば、舞世はベッドの上で寝かされていた。置かれている家具や内装に変化はなく、静まり返った空気が室内に満ちていた。
だが……一つだけ、昨日とは大きく異なる事があった。
それは、舞世の姿であった。昨日とは違い、舞世は下着一つ身に纏っていなかったのだ。
生まれたままの姿でベッド上にてだらりと脱力しているその肌には……大小様々な文字が隙間なくびっしりと描かれていた。
その様は、まるで全身に般若心経(はんにゃしんぎょう)を記した『耳無し芳一』であった。
芳一とは違い、舞世は耳にもしっかり文字が記されているが……気になるのは、そこではない。
「真人さん、扉を閉めてください」
「――え?」
呆然と舞世の変わり果てた姿を見ていた真人が、我に返る。「早く扉を閉めて、鍵を掛けてください」それを見て、伊都は再度指示を出した。
「見て分かりましたでしょう? 舞香さんは重大な何かを私に……いえ、貴方たち全員に隠している。それを知る為にも、下手に舞香さんに邪魔をされたくないのです」
「――わ、分かった」
言われるがまま、真人は扉を締めた。次いで、滝川と一緒になって、万が一にも外から扉が破られないよう押さえてもらった……そのうえで、「では、華子さんにも一つお仕事を頼みます」伊都は呆然としている華子を見やった。
「この部屋の押し入れでも箪笥でも何でも構いません。札でも数珠でも経典でも……舞世さんの持ち物としては不自然なモノを引っ張り出して、そこに集めてください」
「……うん、分かった」
舞世の姿に呑まれているのか、華子の反応は些か鈍かった。けれども動きは機敏で、勝手知ったると言わんばかりにクローゼットの中を最初に、探し始めた。
……それを見やった伊都は改めて、眠り続けている舞世の傍へと歩み寄る。
一本歯の下駄をするりと脱いで、ベッドの上へ。
舞世を跨ぐ形で太ももに腰を下ろし、馬乗りになった伊都は……スーッと、呼吸を整えて……僅かに肋骨の浮いた胸の上に手を置いた。
……。
……。
…………いったい、何をしているのか。
傍目からは、分からないだろう。実際、『力』を持たない真人たち3人は、伊都が何をしているのかが分からず、ただ舞世の胸に手を当てているようにしか見えなかった。
だが、伊都はふざけているわけではない。
傍目にはただ座っているようにしか見えなくとも、伊都は既に事を進めていた。常人には行えない、『霊視』……すなわち、霊的な診察を、だ。
……霊的な診察とは、何か。それを言葉で説明するのは、些か難しい。
何故なら、霊視を始めとした霊的な能力というやつは、客観的な数値で測れる代物ではない。それは伊都ほどの『力』を持つ半人半神であっても例外ではないのであった。
(……何と、信じ難い)
――だが、この時。霊視を行っていた伊都の脳裏に、『例外』という言葉が過っていた。
(こんなことが、実際に起こるなんて……)
その例外とは、ただ一つ……ごくりと、伊都は唾を呑み込んだ。
(魂が……半分に別れている。いえ、これは……二つ、ある?)
それは、長き時を経た伊都にとっても初めての出来事であった。
何故、伊都が驚いているのか。それは、伊都の常識……というのも変な話だが、魂というものは二つ以上に分かれることは絶対に有りえないからだ。
もちろん、様々な要因ですり減る(あくまで、物の例えだが)ことはある。だが、すり減ったらすり減った分だけ魂は修復し、削り取られた魂は消滅する。
魂……すなわち、『魂魄』というものは、『核』だ。肉体が器なら、魂はその器に満たされるモノ。どちらが欠けても駄目で、両方が有って、初めて意思を持った生物と成る。
多少なり増えたり減ったりしても、魂は一つ。切り落とした腕から身体が再生しないように、魂というものは、あくまで一つ……それ以上にはならないはず……なのだ。
(肉体に残された魂が消滅する気配はない……確かに、半分だ。断面に膜が張ったような状態だけど、それでもちゃんと魂としての役目を果たしている……)
けれども、こうして有りえない現象を前にして……伊都は、一瞬ばかり、どうしていいか分からなくなった。
(……何時までも否定したところで、始まらない。現実として、私の前には半分だけの魂がある。そうなった原因は後回し、まずは残されている、この魂を調べなければ)
しばし動揺していた伊都は、そう、心を落ち着け……再び、霊視を始めた。
(別れた魂の行方は……駄目、気配がない。別れてからの時間が経ち過ぎている……しかし、何処へ行った?)
残された半分の魂を、慎重に探る。カサブタを剥がさないよう慎重に、それでいて細部にまで魂を見た伊都は……次いで、器である肉体へと目を向ける。
記されている文字……それらには、見覚えがある。日本に伝わって変化した般若心経ではなく、その前。たしか……梵字と呼ばれていたモノだろうか。
……漢字ならまだしも、伊都も梵字については詳しくない。
ちらりと横目で真人たちを見やれば、分からないと言わんばかりに首を横に振られた。
なので……仕方なく、伊都は古ぼけた記憶を頼りに……辛うじて断片的に読み取ってゆく……伊都の目じりが、ぴくりと震えた。
――と、その時であった。
かちゃん、と。扉の鍵が外される音がした。ハッと、室内にいた全員の視線が扉へと向けられる――が、それだけであった。
何故なら、肝心の扉を真人と滝川の二人が押さえていたからだ。当然、扉の向こう……部屋へと戻ろうとしていた舞香が異変に気づいた――直後。
『――まさか、誰かいるの?』
扉の向こうから、舞香の声が響いた。途端、室内の空気が張り詰めた。『ちょっと……誰なの? 滝川? お兄ちゃん?』何とも言い表し難い緊張感の最中、舞香の声が室内に響く。
その声は……今にも怒りを爆発させそうな、不穏な気配を孕んでいた。
声自体は、あくまで平穏で、荒げているわけでもない。勝手に忍び込んでいる状況がそう思わせたのかもしれないが……まあ、状況が状況だ。
……こんこん、と。ノックの音が室内に響く。
顔を見合わせた二人の視線が、伊都へと向けられる。部屋の中を探っていた華子の視線も、そうだ。自然と、場の決定権を与えられる形となった伊都は……舞世の肌に記された文字の解読を進めながら。
「少し待ってください。もうすぐ、終わりますので」
『その声……まさか、伊都ちゃん?』
声だけではあるが、声だけでも、扉の向こうにいる舞香が動揺したのが伝わって来た……その、瞬間。
「――扉を叩くのは、止めてください。せっかくのお奇麗な手を無暗に傷つける必要はありません」
『……人を馬鹿にしているの?』
「いいえ、全く。ですが、もしも扉を叩いたり叫んだりするのであれば、貴女の両親に、貴女が隠し続けている事をお伝えします」
『何を、いきなり……』
伊都が、舞香に『待った』を掛けた。扉越しとはいえ、伊都は舞香から伝わる感情を感知していた。故に、伊都は……そのまま舞香を黙らせる言葉を告げた。
「舞世さんは……半分、死んでいるのでしょう?」
――その瞬間に起こった、場の混乱。それは、伊都の語彙では表現出来ないモノであった。
言葉は理解出来るが、意味を理解出来ない。耳から入って音を認識したのに、脳がそれを受け取ってくれない。伊都を除いた誰も彼もが……呆気に取られた顔で、伊都を見つめていた。
それは……扉の向こうにいる舞香とて例外ではなかった。
驚愕、焦燥、憤怒、絶望、悲哀……もはやそれは、感情の爆発であった。
伊都の発言によって様々な感情が同時に吹き出したせいだろう。呆然としているのを扉越しに視ていた伊都は……さて、と舞世の身体から降りた。
……もう、扉を押さえる必要はない。
そう二人に告げれば、二人は……おもむろに扉から離れた。次いで、数秒後……ゆっくりと開かれた扉の向こうには、青ざめた顔で立ち尽くす舞香がいた。
その舞香の視線が……真人の視線が……滝川の視線が……華子の視線が……伊都へと向けられる。四つの、様々な感情を伴った視線を向けられた伊都は。
「それでは、舞香さん。お答えください……一年前、舞世さんの身に何が起こったのかを」
ベッドの足元にて折り畳んで置かれていたタオルシーツで、舞世の肌を覆い隠しながら……そう、改めて舞香に尋ねたのであった。
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