第10話 伊都は己を改めるだけなのです




 邪魔にならないよう穏やかに流れているBGMの中ではあるが、場の空気は張り詰めている。


 しかしそれは、緊迫感とは少しばかり異なる……困惑の色合いが強い空気であった。



「舞世さんの中身が違うというのは、いったいどういうことなのでしょうか?」



 その中で、伊都は率直に尋ねた。合わせて、急き立てるように、からん、とグラスの氷が鳴った。



「……何と言っていいのか、俺にも分からないんだ」



 対して、真人は何かを考え込むかのように再び視線を落とした。最初に顔を合わせた時は敵意というか、もっと激しい情動を滾らせていたが……別人であるかのように、雰囲気が異なっている。


 それを見て、ちらり、と。


 横目で、隣の過去をこっそり見やる。そうして伊都の目に映ったのは……心配そうに真人を見やる華子の横顔だけ。


 そこには多分な動揺はなく、有るのは『悩み事を抱えた知り合いを前にした女性』という、ただそれだけであった。


 これはつまり……おそらくは、コレが真人の素なのだろう。改めてその姿を見つめた伊都は、特に気にすることもなくそう真人を評価した。


 実際、伊都自身はあの時の敵意に関して思う事はほとんどない。あれだけの屋敷を構えている資産家だから、大なり小なり、それを狙う者が多いのは必然のこと。


 特に、この男はまだ若く、性根もそう悪そうではない。昼も夜も関係なく女性たちが放っておかないだろうと推測出来る、色男だ。


 あれだけの数の生霊を引き連れていたあたり、女性関係については相当なことがあったのが想像出来る。それがたとえ、当人が望まなかったとしても。


 だからこそ、あの時も伊都は特に怒らなかったのだ。


 気心知れた相手や、気の置けない相手ならばまだしも、あの時の伊都は『舞香が連れてきた得体の知れない同級生』でしかなかった。


 いくら彼の両親が認めたとはいえ、だ。心の何処かで警戒心を抱いても不思議ではない。


 それに……わざわざ執事紛いのことをしていたあたり、複雑な何かを秘めているのはあの時から想像は出来ていた。


 そういった諸々な何かを察していたからこそ、伊都は問い質すようなことはせず、真人の方から話し始めるのを待った。



 ……。


 ……。


 …………とはいえ、何とか言葉を捻り出そうとしている真人の顔色を見る限り、相当に時間が掛かりそうであった。



(……切っ掛けを、与えてやりましょう)



 あまり時間を掛けていると料理も運ばれて来るし……そう思った伊都は、助け舟の意味合いも含め、かねてより抱いていた疑問を尋ねた。



「崎守さん、一つ宜しいですか?」



 声を掛ければ、俯いていた真人が……ゆっくりと顔を上げた。世間一般的には、その姿を『哀愁を漂わせる美男子』と例えるところだろうか。



「……真人でいい。名字で呼ばれるのは、慣れていない」

「そうですか。私の方は名字の『古都葉』でも、名前の『伊都』でも、好きな方で結構です」

「……古都葉で、呼ばせてもらう」

「ご自由に……では、真人さん。私が聞きたいのは、ただ一つです。もしかしたら答え辛い質問になるかもしれませんし、思い出したくないことでもあると思います。ですが、偽り無くお答えください」



 だが、伊都の琴線には欠片も触れることはなく、ズイッと言葉を続けた。



「一年前、舞世さんにいったい何があったのですか?」



 その瞬間、真人の目が大きく見開かれた。「……何故、そんな事を聞く?」次いで、動揺を露わにした彼を前に、「さあ、お答えを」伊都は素知らぬ顔でそう答えた。


 ……すぐには、真人も答えなかった。


 だが、目論見通り切っ掛けにはなったようだ。自らを落ち着けるかのように深呼吸を二回行った後の真人は……直前よりも、ずっとマシな顔となっていた。



「……俺も、その時に起こった事を直接見たわけじゃない。俺の主観が入っているが、それでもいいか?」

「構いません。兎にも角にも、そこを知らなければどうにも動けませんので」



 伊都の正直な内心に、真人は苦笑した。次いで、それを引っ込めた真人はもう一度深呼吸をした後……遠くを見つめるかのように、目の焦点がブレた。






 ……。


 ……。


 …………あの日の夜、『唐突に館中に響いた舞香の悲鳴から、全てが始まった』。真人の唇から零れた一年前の話の出出しが、それであった。



「本当に、突然の事だった。舞香もそうだが、舞世にも不自然なところは何もなかった。何時ものように食事を終えて、何時ものように舞香が舞世の相手をしていた……悲鳴があったのは、その時だ」

「お二人は、何処にいらっしゃったのですか?」

「二人とも、舞世の部屋にいた。俺が駆け付けた時には他にも大勢いて、部屋の中では、ぐったりして横たわっている舞世を、舞香が必死になって揺さ振っていた」

「何が、あったのですか?」

「分からない……少なくとも、俺は知らない。遅れて来た父さんと母さんも、俺と同じだ。舞世の身に何が起こったのか、それを知るのは悲鳴をあげた舞香だけだ。俺たちは、何も知らないんだ」

「何も……知らない?」



 ……それは変だぞ、と。



 反射的に思った伊都の疑問を、真人は予測していたのだろう。「舞世は、何も答えなかったんだ」そう答えた真人は……今でも腑に落ちていないと言わんばかりに不満を表情に出していた。



「その翌日から、舞世は『失語症』を発症してしまったんだ。加えて、重度のPTSDも患ったとかで……まともに会話が出来なくなってしまっているんだ」

「――ちょっと待って、それってどういうこと? 私、舞香から何も聞いていない!」



 傍観者になっていた華子が、身を乗り出すようにして真人に迫った。聞き捨てならないと言わんばかりに目じりを吊り上げているが……その口元は、別の意味で強張っていたのが……傍の伊都には見えていた。



「何でそのこと、私に黙っていたの?」

「……医者から、言われたんだ。今はとにかく、余計な刺激を与えない方が良いって……だから、華子ちゃんに教えるのは、症状がある程度落ち着いてからの方が良いだろうって、皆と話し合って決めたんだ」

「そんな……そんなの……」

「結果的に心配を掛けてしまったのは悪かった。でも、教えたら教えたことで、余計に心配するだろう? 教えるべきかどうか、俺たちも悩んだんだ……分かってほしい」

「…………」



 華子は、何も言わなかった。未成年ではあるが、華子とて分別の付かない子供ではない。


 少なくとも、苦渋の決断であったということを察するだけの優しさを、華子は持ち合わせていた。


 だから……華子は大人しく席に腰を下ろした。


 気落ちした様子ではあるが、慌ただしく舞香に連絡を取るというような早まった行動を取る様子もない。相手を慮る性根であるのが、伊都には窺い知れた。



「……『ぴいていえすでい』というのが何なのかが分かりませんが、要は、言葉が話せなくなっただけでなく、意思疎通が不可能な状態になった……ということなのですね?」

「概ね、その通りだ」

「では、舞世さんは日中、何をしていらっしゃるのですか? 寝床から出て来られない……とか?」

「いや、寝床から出ないわけではない。ただ……」

「ただ?」

「……まるで、犬のような振る舞いをするんだ」

「犬? 犬って、動物の?」



 目を瞬かせる伊都に、そうだ、と真人は頷いた。



「四つん這いになって部屋を動き回ったり、犬みたいに舌を出して息をしたり、わんわんと吼えたり……中身が犬に入れ替わっているかのような行動を取るんだ」

「なるほど、確かに、行動だけを見れば犬で……っ?」



 真人の言葉に納得しかけた伊都は、ふと、脳裏を過った何かに意識を向ける。いったいそれが何なのかと思って考えて……ああ、と内心にて手を叩いた。


 ――今更ながら、思い出した。そういえば……最初に遭遇した際、舞世は『狐憑き(いわゆる、動物霊などが憑りついた状態)』になっていた。



 ……思い返してみれば、そこも不自然だ。



 思考を巡らせながら、改めて、伊都は抱いていた疑念に目を向ける。


 真人の話から推測する限り、一年前から舞世は動物霊を引き寄せていたみたいだが……何故、犬の霊だけなのだろうか。霊を引き寄せやすい体質ならば、もっと無差別に引き寄せているはずだ。


 心を病んで犬のような振る舞いをしたところで、その本質は人間。獣のフリをしたところで、獣に近づくことは出来ても、獣そのものには成れないのだ。


 そもそも、人と獣とでは『器の形』が根本から違う。『狐憑き』だって、ほとんどは偶発的に起こる事故のようなものであって、そう起こる事ではない。


 人に憑りつく霊魂は、何時の時代も同じ、人なのが基本なのだ。


 だから、仮に舞世の中身が入れ替わる……つまり、何者かの霊魂に憑りつかれている状態であるならば、それは獣ではなく、人であるはずだ。



 しかし……舞世から別人の霊魂の気配は、欠片も感じ取れなかった。少なくとも、伊都が見た限りでは。



 仮に……何かしらの要因が有って犬の霊を引き寄せるようになったとしても、だ。

 特定の霊だけを呼び寄せるには、相応の理由が絶対に存在していなければならない。


 例えば、先祖や近親者が『犬』の魂を用いて呪法を行ったり、犬を無意味に殺生し続けたり……だが、そのどちらも違うと、既に伊都は結論を出していた。



(あの家や、この男を含めてあの場にいた誰にもソレらしい何かは感じ取れなかった……)



 仮に、また、仮に、だ。あの家の誰かがソレをしていたとしたら、伊都自身が一発でソレを感知していただろう。


 その伊都が、違うと断言するのだ。舞世の現状が、そういった『呪い』の類で引き起こされたモノではない……それは、確かなことだ。



「……何か持病があったとか、そういうことが原因ではないのですね?」

「無い、それは無い。少なくとも肉体的な外傷は全くなかった……医者の見立てでは、強い精神的な何かが引き金となったのだろうという話らしい」

「精神的な何か……だから、『中身が違う』、と?」

「いや、そうじゃない。俺が言う『違う』というのは、もっと根本的な部分なんだ」



 手に取ったコップの水を、ごくり、と。内心にて渦巻く想いを一度水洗いした真人は、「どう言い表せばいいのか……何というのか、感覚的な話なんだ」そう、言葉を続けた。



「雰囲気というか、気配が違うんだ。心に病が有るとか無いとか、そういう話じゃない。箪笥の中身が丸ごと入れ替わっているかのような、そんな違和感なんだ」

「……なるほど。では、あの時のアレは、何時から? 舞世さんが倒れる前から、起こっていたことなのですか?」

「いや、違う。詳しくは覚えていないが、アレが起こるようになったのは舞世が倒れてからだ。俺も四六時中家にいたわけじゃないから、もしかしたら起こっていたのかもしれないが……少なくとも、俺がアレを知ったのは、舞世が倒れてからだ」

「ふむ、なるほど」



 そこまで話し終えたあたりで、再び、真人は水を飲む。その姿を見やった伊都は、ひとまず質問を止めて思考を巡らし…………何故なのだろうか。


 ……胸中にて渦巻く何かに、伊都は内心にて小首を傾げる。


 何一つ、伊都はまだ答えを見つけていない。なのに、どうしてか……すぐ傍まで接近出来ているような気がしてならなかった。


 何か……そう、些細な事でもいい。お茶を飲んでほっと一息付いた瞬間に思い浮かぶ程度の、淡いキッカケ。


 それさえあれば、このこんがらがった疑念の塊は一瞬にして解けてしまう。


 そのキッカケが見つからないからこその、今なのだが……そう思わずにはいられず、また、伊都はそう直感していた……と。



「――へい、お待ち!」



 いつの間にか調理を終えていたダンディ店長が、カートに料理を乗せて戻って来ていた。そのカートには、3人が頼んだ品物が全て乗っていた。



「お待ちって、店長……空気を読んでくださいよ」



 板前のような言い回しに、かくん、と真人の肩が下がった。合わせて、場の空気が和らぐ……伊都もそうだが、傍観者の華子も、思わずといった様子で頬を緩めた。



「空気って何だ、ここは俺の店だぞ。ほれ、辛気臭い顔は一旦止めて、まずは飯を食え。何時も以上に気合を入れて作ったんだからな」



 その言葉と共に、テーブルに並べられるパスタやらオムライスやらコーヒーやら……まあ、注文したやつだ。


 洋食には疎い伊都の目にも『綺麗だ』と思わせるぐらいだから、「おお……!」隣の華子が感嘆のため息を零すのも、仕方がないことであった。


 実際、伊都の前に置かれたオムライス(隣のパスタサラダもそうだが)は綺麗であった。


 半熟にとろけた溶き卵が、ふわりとライスに覆い被さっている。そこに垂らされた、デミグラスソース。この一品の為だけに選んだと思われる皿と合わさって、見た目の華やかさは文句なしの合格点であった。



「……美味しい」



 見た目が合格なら、味も文句なし。いや、味に関しては、見た目以上に素晴らしいものであった。


 伊都ですら『また食べたい』と思ったぐらいであり、傍の華子も似たような感想を思い浮かべているようであった。



 これは駄目だ……自らを堕落させる悪魔の食べ物……ああ、しかし、美味とは何とも抗い難いものなのか……!



 そう、伊都は何度も己に言い聞かせた。けれども、伸ばされるスプーンは一度として止まることはなく、一口、二口、三口と……オムライスを掬ってゆく。


 気付けば、伊都は無言のままに食事を進めていった。食後に出されたカフェオレもコーヒーゼリーも絶品としか言いようがなく、珈琲が苦手な伊都が、ぺろりと平らげたあたり……まあ、そういうことであった。





 ……。


 ……。


 …………そうして、少しばかり早い夕食を終えて一息入れた後。満足気に脱力する伊都たちの前に、「――お味はどうだった?」ダンディが姿を見せた。


 その恰好は最初の時とは異なり、コック風の白い出で立ちであった。帽子を被ってはいないが、バンダナできっちり纏めている。


 顔の怖さは変わらないが、何処となく雰囲気が柔らかくなっているように見えるのは、恰好のおかげなのかもしれない。



「凄く美味しかったです! 絶対にまた来ます!」

「喜んで貰えて何よりだ……で、そっちは?」



 怖気づいていた初対面の事はすっかり忘れた華子から、隣の伊都へとダンディは視線を向ける。気づいた伊都は、「とても、心地良い一時でした」笑みを浮かべてオムライスの味を絶賛した。



「あまり洋食を口にしたことはありませんが、とても美味しかったです。卵もそうですが、特に、中に入っているご飯が絶品でした」

「へへ、そう思ってくれるなら作った甲斐があるってもんだ。うちで使っているライスはブレンド米だからな、そこらのオムライスとは違うのさ」

「ブレンド米?」



 小首を傾げたのは、華子の方が早かった。「要は、色んな米を混ぜ合わせているってことだよ」そして、ダンディは特に隠すこともなく、サラッと教えてくれた。



「米ってのは素朴な味だが、奥が深い。同じ国で取れる米でも、産地によって微妙に味が違うんだ。コーヒーと一緒で、混ぜる分量によって食感や後味が、がらっと変わっちまう」

「へー、そうなんですか」

「これがまた、難しくてな。納得出来る分量を見つけても、その後の炊き方一つで味がまた変わる。何にでも70%ぐらい合うのが米の良い所だが、残りの30%を引き出すのが至難の業ってやつだよ……例えば、さっき出したオムライスもそうだ」



 ちらりと、ダンディの視線が伊都へと向けられた。



「実はな、お嬢ちゃんの食べたオムライスは種類が異なる米を別々に味付けした後で混ぜ合わせているんだが……分かったか?」

「……いえ、さっぱり。言われるまで、分かりませんでした」



 思わず、伊都は味を思い返す。だが、ダンディの語る違いなど分かるわけもなく、首を横に振るしかなかった。「――まあ、それが当たり前だ」けれども、逆にダンディはそうだろうと言わんばかりに笑みを浮かべた。



「突き詰めちまえば、味の評価なんていうのは当人の美味いか不味いかだけだ。見た目にも味にも違いが分からないけど、とにかく美味い……そう思わせた時点で、こっちの勝ちなんだよ」

「――なるほど」

「実際、俺だって何でそうなるのか上手く説明は出来ねえ。でも、こう混ぜたらオムライスに合うし、それが一番美味いと思っているから、そうしているってだけの話だ」

「そういう、ものなのですね」



 そう結論を述べたダンディに、伊都は笑みを浮かべた――のだが。



「専門の俺ですら、実際に食べるまで味か分からねえんだ。オムライスをおススメしたのだって、今日炊いた米の出来が上手くいったからなんだぜ」



 ――何気なく続けられた、その言葉。



 客観的に考えれば、場を盛り上げる為に料理を提供するに至るまでの、コックとしての苦労を話している……ただ、それだけの内容だったのに。



(……食べるまで、分からない?)



 不思議なぐらいに、伊都は己の中の何かが引き留められるような感覚を覚えた。


 それはまるで、返しが付いた見えない釣り針に引っかかったかのような、何ともすっきりしない感覚であった。



(食べるまで……食べるまで……その道の者ですら、見ただけでは分からないことも……ある?)



 ――それは、直感であった。


 もしかしたら……己は、重大な何かを見落としているのではないだろうかという、根拠のない予感でもあった。



(……まさか)



 この私が……重要な何かを見誤っている?


 それは、伊都にとっては晴天の霹靂。大げさなのだろうが、ソレは、侮辱とも恥辱とも受け取れる、己への問い掛けであった。


 伊都は、己を未熟だと思っている。それは謙遜でも卑屈でもなく、永遠に『全』を求め続け、足掻き続ける修道者であると本気で思っている。


 だが、同時に……伊都は己に対してある種の強固な矜持をも抱いている。


 未熟であるからこそ、自分の実力というものを誰よりも客観視していると、伊都は自負している。


 だからこそ、分不相応な事柄には謙虚に、相応な事柄には自信を持って対処してきた。


 故に、伊都は此度の事件に関しては、一度として不相応な事柄であるとは考えていなかった。


 ……だが、違う。これは、正しく『不相応な事柄』なのだ。


 己の胸中へと問い掛けていた問い掛けに対し、伊都は内心にて首を横に振る。と、同時に、伊都はこの瞬間……改めて、己の未熟を認めた。



「真人さん、これからあなたの家にお伺いしてもよろしいですか?」

「それは……構わないが、何か分かったのか?」

「それは、これから見つけるのです」



 なればこそ、もう、伊都は己がしなければならないことを見つけていた。



「もう一度……舞世さんを視てみます。おそらく、この問題はそれをしない限りは解決しないと思うのです」



 そう告げた伊都の目には……確かな輝きが灯っていた。





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