第6話 伊都は困惑するばかりなのです
……。
……。
…………そうして、しばしの間を置いて……沈黙を最初に破ったのは、父親である源次郎であった。
「……恩人であり、娘の御学友であるあなたに不躾なお願いをするのは大変心苦しい。そして、みっともないことだ。大人として、それは当然のことだと、私は考えている」
「そうせざるを得ない事情がお有りなのですから、その気持ちだけで十分です」
正直な気持ちを伊都は伝えたのだが、「はは、気を使わせてしまったな」源次郎は苦笑を返し……次いで、真剣な眼差しを伊都に向けた。
「好意は有り難いが、何もかもをその好意に甘えて済ませるわけにはいかない。大人として、父親として、ケジメを付けなくてはならない。それは、分かってくれるね」
その言葉と共に、源次郎が視線を横に向ける。頷いた滝川が懐より取り出してテーブルに並べたのは……小切手用紙と、判子一式であった。
「必要経費と必要な物は別途で用意する。ここには、純粋な報酬を記してほしい」
見やれば、二人の顔は真剣であった。源次郎の顔にも、妻の菊花にも、迷いの色はない。
視線を移せば、滝川も……先ほどまで不穏な気配を見せていた青年もまた、真剣な面持ちでこちらを見つめていた。
……なるほど。これが、この人たちなりのケジメなのか。
無言のままに置かれたサインペンと白紙の小切手用紙に視線を落としながら、内心、伊都は軽くため息をつく。
金額云々は別として、これは断れそうにない。ここで断れば、二人の想いを穢すばかりか、その顔に泥を塗るに等しい所業であるからだ。
しかし、どうしたものか……これは困ったぞと、伊都は己が顎に指を当てた。
何分、伊都には相場というやつが分からない。加えて、今の伊都に想像出来ないのは……己の『力』に対する、価値だ。
というのも、伊都のそういった基準は、今より数百年も前のこと。現代に生まれて15年程経つが、お金に関する感覚は……はっきり、ズレている。
そりゃあ、学費云々がいくらで消費税がいくらで……ぐらいは分かっている。
しかし、伊都の基準(つまり、目安だ)となるのがあくまでそれぐらいだ。言い換えれば、物欲が薄い故に、それ以外の基準となるモノがはないのだ。
舞香が様々な札を所持していたあたり、現代においても伊都のような『力』を持つ奴が、その力を商売にしているのはまあ、想像が付く。
だが、それだけだ。残念なことに、伊都には、そのような友人は一人もいない。だから、平均的な相場の値段が分からない。
高過ぎれば伊都の矜持に反するし、低すぎればこの者たちの面子を傷つけるかもしれない。さて、この小切手に幾らを記せば良いのか……ん?
――何だ、この気配は?
不穏なソレに、伊都は用紙から顔を上げた。つられて、その場にいる全員が視線を追いかけて天井を見上げたが……不審な物は何もない。あるのは、部屋を照らす照明だけ。
誰しもが、訝しげに天井と伊都とを交互に見やっていた。しかし、当の伊都だけは違っていた。
まるで、彼女だけが見える何かを捕捉しているかのように、その瞳は右往左往している。合わせて、伊都はゆるりとソファーから腰を上げた。
そう、伊都には見えていた。そして、捕捉していた。何をって、それはこの家の敷地内に侵入してきた霊的存在。舞世にも憑りついていた、動物霊と呼ばれている類のソレであった。
(……いったい、どういうことかしら?)
無言のままに、ソファーから離れて部屋の中央へと歩く。自然と、全員の視線が集中したが、構わない。
一つ、二つ、三つ……偶然ではない、明らかにここを目指している。続々と侵入を果たしているソレらの存在に、伊都は目を細めた。
敷地が広く、家も大きいから敷地内や建物の中に霊が入ってしまうのは、まあ分かる。
だが、それにしても数が多過ぎる。それに、動きに迷いが全く見られない。こうしている間にも、その数は手足の指の数を越え、留まる様子がない。
……おかしい、変だ。
先ほどまで、気配のケの字もなかった。青年が連れてきた生霊は別として、少なくともここまで明確な意志を持って近づいてくる霊の気配など、伊都は感知していなかった。
それが今や、渦の中心だ。この建物を中心にして、何処からともなく続々と霊たちが集まり始めている。何とも奇妙な現象に、伊都は……内心にて、首を傾げた。
(集まって来てはいますが、それだけ……? いったい、何に引き寄せられているのでしょうか……?)
集まってくる霊の数は多い。とはいえ、一匹一匹は大したものではなく、こちらから刺激さえしなければ……まあ、大丈夫。
年齢的に未熟で衰弱していた舞世とは違い、この家にいる者たちの大半は健康体だ。まず、どうこうなるようなこと事態にはならないだろう。
しかし……不思議なのは、霊魂から感じ取れる気配だ。
次から次へと雪崩れ込んでくる霊魂の、そのどれもから悪意を感じない。まるで、呼ばれたからとりあえず……といった感じさえする。
(引き寄せられた霊魂たちも、戸惑っている?)
原因を考えている途中、ふと、伊都の脳裏に先ほどの事が思い浮かぶ。それは、車に乗っていた時にも舞世の身に起こったあの現象だ。
――だが……これは違う。
伊都は、すぐに首を横に振った。
霊を引き寄せてしまう、そういった体質は確かに存在する。呼び方は様々だが、『霊媒体質』とも『憑依体質』とも言われる体質が、ソレだ。
だが、少なくとも伊都がこの部屋に入るまでに見掛けた全ての人に、そのような体質は見受けられなかった。当然、舞世自身にもそれは無かった。
だから、車の中で舞世に動物霊が憑依した時、伊都はあれほど驚いたのだ。
けれども、体質が原因でなければいったい……人でなければ、この建物自体がそうなのだろうか……いや、違う。
それなら、建物を見た瞬間に伊都が気付いている。ならば、地脈(大地を走る、気の通り道)か……それなら、建物を見る前に気付いて――いや、待て。
(おや、霊が動き出した? いったい、この霊たちは何処へ向かおうとして……えっ!?)
異変に気付いた、その瞬間。考えるよりも前に、伊都はこの豪邸全体へと『感覚を広げていた』。
常人には不可視のそのレーダーは瞬く間に敷地全体へと広がり、誰にも気付かれることなく様々な情報を伊都に伝え――そして、見付けた。
――直後、伊都は舌打ちをしそうになった。
伊都が探していたのは、この家の何処かに運ばれた舞世と、それに連れ添っていった舞香の二人。その二人は、どうやら建物の2階の奥のほうにある、舞世の自室と思わしき部屋にいた。
舞世に貼り付けた札が周囲への威嚇になっているのか、室内はまだ大丈夫であった。
だが、部屋の外は駄目だ。軽く数えただけでも30~40近い数の動物霊が集まっていて、その数はどんどん増えている。
――非常に、危険だ。
一匹二匹ぐらいならまだしも、数十にも及ぶ霊に一度に憑りつかれたら、舞世自身の魂が危険だ。
それに、今はまだ動物霊だけだが、何がキッカケで人の霊を呼び寄せるようになるか分かったものではない。
そうなれば、舞世自身は当然の事、傍の舞香の命にも関わってくる。
いや、二人だけじゃない。このままでは、この家にいる全員にも悪影響が出てしまうだろう……あっ。
唐突に――室内の照明が消えた。
と、同時に、ぱん、と室内に異音が鳴った。いわゆる、ラップ音と呼ばれるやつだ。
ざわっと、室内の空気が変わる。「――まただ」ポツリと呟かれた青年の言葉に呼応したかのように、すぐに照明は付いたが……また、消える。
(……また、とは?)
青年が口走った聞き捨てならない言葉に、伊都は思わず青年を見やる。青年は、自らが口走ったことに気付いていないようだった。
只々忌々しげな様子で、二度、三度、四度と、繰り返される照明の点滅と異音を見上げ……いや、青年だけではない。
よくよく見やれば、夫妻も、滝川も、動揺はしているが驚いているようには見えない。
まるで、幾度となく似たようなことを経験してきたかのように、どこか落ち着きすら感じ取れた。
……気にはなるが、先にこちらからやるしかないか。
悪意のない霊魂を相手にするのは気が引けるが、他に選択肢はない。決断した伊都の袖口より夥しい数の紙が……いや、札が飛び散った。
それは、車の中で使った捕縛用の札ではない。もっと強力な、暇を見つけては伊都が『力』を込めて一つ一つ手作りしていた、『退魔の札』であった。
――それが、風を切って四方八方へと飛ぶ。
勢いは止まらず、終わらない。「――な、何だ!?」突然のことに驚く彼ら彼女らを他所に、それら一枚一枚が、弾丸が如き勢いで室内の壁に張り付いてゆく。
――変化は、すぐに起こった。
一拍遅れて、紙面に描かれている達筆な文字が、勝手に動き出す。模様と見間違う程に複雑に描かれたそれらが、まるで地を這う蛇のようにその形を瞬く間に『掌の模様』へと姿を変えた。
その直後――室内に響いていたラップ音が止まる。合わせて、照明の点滅も止まる。気づけば、変化に狼狽える彼ら彼女らの反応がはっきりと聞こえる程度には、室内に静けさが戻っていた。
するりと、ソファーから腰を上げた伊都は廊下へと出る。たまたまそこに居たメイドたちが、ギョッと目を見開いて振り返る。
我に返った客室の誰もが動揺を露わにしていたが、伊都は構うことなくメイドたちの横を通り過ぎ……階段を登って、二人がいる部屋へと向かう。
……その最中、伊都は気付く。
目に見える異変が起こったのは、伊都たちがいたあの部屋だけだということに。その証拠に、通り過ぎるメイドたちには動揺は見られず、誰もが案内も付けずにいる伊都を不思議そうに見送っている。
――やはり、狙いは妹さんか?
ならば、急がねば。急いで、懐より取り出した鈴をリンリンリンと鳴らし、漂う動物霊を祓ってゆく。
この鈴は、伊都お手製の退魔道具の一つ。悪霊を直接的に祓う程の力はないが、広範囲に渡って霊たちの気を落ち着かせ、成仏を促す優れものだ。
集まった動物霊に、悪意はない。しかし、興奮している。なので、興奮を落ち着けさせて我に返ることが出来れば、自らの死を受け入れてくれる。
事実、鈴の音に気付き、耳を澄ませた動物霊の少なくない数が、その音色に誘われるがまま……スーッと、旅立ってゆく。
「――ここか」
後ろ目に旅立つ魂を見送っていた伊都の足が、二階の奥の部屋前で止まる。部屋の中に二人がいるのが気配で分かる……というか、中で争う声が聞こえる。
……札を剥がしてさえいなければ、まだ憑依はされていないはずだ。
だが、それも時間の問題だ。そう思った伊都は扉に手を掛け……開かない。鍵が掛かっているのではなく、霊的な力によって封鎖されてしまっているのだ。
こういう場合、対処は二つ。力づくでこじ開けるか、力を封じて封鎖を解くか、だ。
基本的に霊的な力による封鎖を物理的に破壊するのは難しく、入るには相当に手こずるのだが……伊都の前では無意味である。
「――ふん!」
叩きつけるような、前蹴り。別名、ヤクザキックとも呼ばれているその一撃によって、扉は扉の役目を失った。
蝶番を引っ付けたまま、ばこん、と仰向けに倒れた扉を踏みしめて中に入った伊都は……しゃらん、と鈴を鳴らした。
「――伊都ちゃん!?」
「ああ、良かった。まだ無事のようですね」
途端、ベッドの上にて互いを抱き締め合う形でいる二人の視線が、伊都へと向いた。
思った通り、憑依はまだされていない。しかし、数は力だ。
見れば、妹の舞世は完全に目を覚ましてはいるが、心ここに有らずと言った様子であった。
その額に貼り付けられていた札は、無くなっている。枕元に見えるのは……札の破片か。
状況から見て、一挙に押し寄せてきた動物霊に抗い切れず、『力』を使い果たして破れて剥がれた……と、いったところか。
リン、リン、リン……リリン!
ひとまず無事を確認し終えた伊都は、ひと際強く鈴を振る。途端、室内に入ろうとしていた動物霊たちの動きが一斉に鈍る。
数は力だが、数が集まったところで伊都を押し返すことなど不可能に近い。それほどに、伊都とこの場の霊たちとでは『力の差』が有り過ぎるのだ。
一つ、また一つ。鈴の音に気を落ち着かせ、その度に天へと昇ってゆく魂を見送る……そうして、ものの数分後。
少し遅れて、息を乱してやってきた両親たちが呆然とする中で、とりあえずの危機は去ったと判断した伊都は……そっと、手を止めた。
「少しは楽になりましたか?」
「……?」
突然の問い掛けに目を白黒させる舞香……に、抱き締められている舞世は、我に返ったかのように顔をあげる。
伊都はこつんこつんと下駄を鳴らして二人に歩み寄ると、散らばっている札の破片を手に取り……わずかに、目尻が跳ねた。
――けれども、伊都はすぐにソレを無表情の奥へと隠した。
次いで、伊都は室内を見回す。舞香たち姉妹のどちらの部屋なのかは(あるいは、全く別の部屋なのかもしれないが)分からないが、非常に可愛らしい内装をしていた。
室内の広さは十畳ほどで、舞世が横になっているベッドの他にはクローゼットや姿見。勉強机の上には、写真立てが置かれていて、大きな犬に抱き着く幼い女の子の写真が収められていた。
そしてテレビを始めとした細々な家電を除けば……こう、何だろうか。大小様々なぬいぐるみや、ハートマークなどがチラホラと室内の至る所に見受けられる。
床一面には、絨毯が敷き詰められている。下駄の上からでも分かるぐらいにふかふかで、隅々まで手入れが成されているようだ。生活感を感じ取れる部屋ではあるが、どこにも目立つ汚れのない綺麗な部屋であった。
……ここは、妹の舞世の部屋なのだろう。
置かれている物……というか、室内に漂う気配が舞世と同じだ。机の上に置かれた写真に写る幼女も、幼い舞香……というよりは、数年前の舞世という方が、伊都の中ではしっくり来た。
「――集まっていた霊は追っ払った。息苦しさとかそういうのはもう感じないでしょう?」
とりあえずは、せっかくの綺麗な部屋なのだ。思うところは幾つかあったが、幽霊による部屋の破損は見られない。その事を、まず伊都は喜んだ。
「……?」
けれども、舞世の方はまだ状況を理解していないようだ。まあ、無理もない。舞香から諸々の事情を耳にしていたとしても、霊が集まったのは突然の事だから。
ぼんやりとした様子の舞世を見やった伊都は、「とにかく、無事だからいいでしょう」再び興味深そうに札の破片を観察し……それを懐に入れると。
(……シッ!)
こつん、と。伊都は下駄で床を蹴った。傍目から見れば、それは足踏みにも見えない身動ぎ程度の所作であったが、伊都にとっては十分であった。
伊都を中心に広がる、護りの力。それは瞬く間に部屋を飛び越え、屋敷全体へと広がり、包み込むように舞世の周囲に霊的な薄膜が張られた。
これは、悪霊を追い払う類の術ではなく、気付かれ難くする類の術である。
集まってくる原因は分からないが、今みたいに大量の幽霊(弱い霊に限る)が一気に押し寄せてくれば、いくら札で守ったところで意味はない。
ならば、守るのではなく、舞世自身を隠してしまえば良い。三日ほどで効力が失われるが、とりあえずは休めるだろう……という、伊都なりの判断であった。
「……すみません。少々気になることを思い出しましたので、今日は帰ります。お礼ならば、後日にしてください」
そうして、しっかり術が発動しているのを確認した伊都は、誰に言うでもなく、あるいは全員に言い聞かせるかのように、そう、宣言するのであった。
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