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 突然目の前に現れた人物を見た時、サラはなんて奇妙な人なんだろうと思った。全身黒ずくめの服を着たその青年は、けれど服の印象が持つ不吉さをまるで感じさせない穏やかな微笑みを湛えていた。

 サラは最初、また医者がやってきたのかと思った。けれど彼は医者が付けている黒いカラスのようなマスクを着けていなかった。事実彼は医者ではなかった。自分は旅人だと彼は言った。世界のあちこちを旅していて、たまたまこの町に立ち寄ったそうだった。

 青年は自分の名前をイシュマエルと名乗った。この地方では珍しい名前なので、どこか遠くの国の名前なのだろうとサラは思った。

 イシュマエルは様々な旅の話を聞かせてくれた。それは旅の中で起こった大変な話だったり、おかしな話だったり、楽しい話だったりした。美しい光景を見た時の話も彼は事細かに話して聞かせてくれた。狭い部屋で一日を過ごし、それをもう何年も繰り返していたサラにとって、彼の話はとても輝いていて、彼の話を聞くと心が喜ぶことを彼女は感じていた。

 イシュマエルは毎日、謎の緑色をした飲み物をサラに飲ませた。それは青臭くて、苦くてとても不味い代物だった。けれどそれを呑まなくてはならなかった。彼が自分のために薬を調合してくれているということは両親から聞いた。両親が彼と交わした約束を打ち明けたのは、サラの顔色がだんだんとよくなって来て、体を起こしていられる時間が増えて来た事に気が付いたからだった。彼がサラの前に現れてから一週間ほどが経った頃だった。旅人である彼がこんなにもこの地に滞在しているのは、両親が薬を調合してもらうために留まってくれるよう頼みこんだからだった。

 サラはその話を聞いてとても驚いた。そして何人もの医者が治せなかった病を、徐々にではあるが確実に回復させていっている青年は一体何者なのだろうと不思議に思った。

 窓辺からイシュマエルが森に入って行くのが見えた。それは森の中から自分のために調合する薬の材料を取ってくるためであることをサラは知っていた。けれど彼がどのようにして材料を取っているのかは知らなかった。以前彼女の父親が材料を集めるのを手伝おうと共に行こうとしたら、彼はそれを丁寧に、けれど頑として断ったのだった。人手が多い方が材料集めが捗ることは明らかであるのに、いつも一人で集めようとすることもサラにとっては青年に抱く多くの不思議の一つだった。

 気が付けばサラは読んでいた本から視線を外し、イシュマエルが入っていた森の方をじっと見つめていた。

 部屋のドアをノックする音が聞こえた。

「はい」

 サラは返事をした。薬のおかげで透き通ってよく響く声が出せるようになってきていた。ドアを開けて入って来たのは母親であるクリスティーナだった。

「体調はどう?」

 クリスティーナが訊ねた。サラは笑みを見せた。

「きょうはすごく調子がいいみたい」

 それは嘘ではなかった。サラはたまに両親を心配させないように調子がいいと嘘をつくことがあったが、今日は本当に身体が軽かった。

「これもイシュマエルの薬のおかげね」

「そう。それならよかったわ。イシュマエルさんには本当に感謝のしようもないわね」

 クリスティーナにもサラの調子のよさが分かったのか、自然と表情がほころんでいた。

「これからわたしはパパと町に出てくるけれど、何か欲しいものはある?」

「なら新しい本を買って来てほしいな」

 サラは言った。

「今読んでいる本はもうすぐ読み終わってしまいそうなの」

「分かったわ。買ってくるわね」

 そう言うとクリスティーナは部屋を出ようとした。そこで思い出したように言った。

「そうそう。調子がいいからと言ってあまり無理をしてはダメよ。折角よくなってきているんだからね」

「大丈夫よ。私だってもう子どもじゃないんだから」

 サラが答えると今度こそ母親は部屋を後にした。しばらくすると玄関の閉まる音が聞こえ、窓からは両親が連れ添って町に行く姿が見えた。

 サラは改めて森を見やった。イシュマエルはまだ戻ってきていなかった。

 サラしかいない森の家はしんとしていてとても静かだった。父親の薪を割る音や母親の家事をする音も好きだったが、こうしてたまに窓の外で吹く風と風に揺れる木々の音だけに包まれる時間も彼女は好きだった。自然の音に耳を傾けていると、自分も自然と一体になれる気がするのだった。



    ☆



 サラしばらくの間本を読んでいた。けれど彼女の意識は別のことに向いていた。それはイシュマエルのことだった。彼は森に入ってからまだ戻ってきていなかった。そして時間が経つにつれてサラは彼が森でどうしているのかが気になっていった。どうしてこんなに気になるのかは彼女にも分からなかったが、あるいは彼の不思議な雰囲気がそうさせるのかもしれないと思った。

 そしていよいよサラは読んでいる本の内容にも集中できなくなった。彼女は部屋の隅にあるクローゼットを見やった。中には長い間来ていない彼女の洋服が入っていた。

 ほんの、ほんの少しだけ…………森の中に入ってみようかな……。今日は本当に調子がよくて、少しくらいなら大丈夫な気がした。そんな考えが思い浮かんだのは、ずっと部屋の中から外を眺めて、いつか外に出ることを願っていたからかもしれなかった。

 サラは母親と約束をしていた。無理はしないと。その約束が彼女の心を踏みとどまらせていた。約束は、守らなければならなかった。

 でも、ほんの少し、ほんの少しイシュマエルの様子を見に行くだけだから。それに、彼は私のために薬の材料を取りにいているんだから、少しくらい手伝うべきだよ。そんな言い訳と口実をサラは心の中で並べ立てた。

 そして心が決まってしまうと、サラの行動は早かった。クローゼットの中からなるべく温かい洋服を選んで羽織った。首元が冷えないようにマフラーも巻いた。久しぶりに着た洋服は、筋肉の落ちた彼女の身体にはずっしりとして重かった。

 誰もいない森の家を、サラは極めて慎重に抜け出した。何年ぶりかの家の外は、とても寒かった。頬を撫でる冬の冷気が、もう長い事冬の寒さを忘れていたということを彼女に思い出させた。

 冬はまだまだ続いていて、これから先も続いていくのだった。森は雪深く、サラが一歩を踏み出すと、足が雪に深く埋まった。多くの人が歩きづらいと呻くその感覚も、彼女にとっては新鮮だった。

 サラは雪に埋もれる足を必死に動かして森の中に入って行った。けれどベッドの上からほとんど動いていなかった彼女の身体は、少し歩いただけですっかり息が上がってしまった。もちろん彼女も無理はしなかった。息が少しでも乱れたり、疲れを感じたりすればその場で立ち止まり、大きく深呼吸をして体を落ち着かせることに専念した。折角体調が回復してきているというのに、こんなことで悪化させたりしてしまったら両親はもちろんイシュマエルにも顔向けが出来ないと彼女は思った。

 ふとサラは後ろを振り返って見た。積もった雪の上には彼女が今まで歩いてついた跡が残っていた。もっと遠くには木と木の間から森の家が僅かに見えた。

そして彼女はまた歩き出した。

 ある時、足元を何かがとても速い勢いで駆け抜けた。サラは驚いて立ち止まって、その何かを目で追いかけた。それはリスだった。この辺りの森によく住んでいるもので、特に珍しいものでもなかった。リスは勢いをそのままに近くの木を駆け上ると、ぽっかりと間穴の中に納まった。どうやらそこがこのリスの家らしかった。

 リスって冬眠をしないのかな? とコロコロとしているリスを見てサラは思った。あるいは間違えて冬眠から早く目覚めてしまったのかもしれなかった。もしそうならとんだせっかちさんだった。

 森の中をよく見渡してみれば、リスだけではなく多くの生き物の命を感じることが出来た。家の窓から眺めているよりも、彼らは身近にいた。

 サラが彼らの息吹に耳を澄ましていると、人の声が聞こえて来た。聞き覚えのある声で、イシュマエルのものだった。

 サラは声を辿って森の中を進んだ。やがて彼女は森の中で佇むイシュマエルの姿を見つけた。

「イシュマ――」

 サラは声を掛けようとして、やめた。眼の前に信じられない光景が広がっていたからだった。

 手を広げるイシュマエルの周りに、たくさんの草花が空中に浮かんで漂っていたのだ。不思議な現象はさらに続いた。風はさらに強く吹いて、森の四方からさらに多くの草花を乗せて青年の下に集っていた。まるで風が草花を彼の下に運んでいるようだとサラは思った。

 サラは息を呑んでその光景に見入った。

「いつまでそこにいるんだい?」

 時間の経過も忘れかけたころ、イシュマエルがサラに声を掛けた。サラは驚いた。

「き、気が付いていたの?」

「風が教えてくれたよ」

 イシュマエルが言った。すると今まで強く吹いていた風がふわっと止んだ。彼の掌にはたくさんの草花があった。

「こんなところに来て、体調はいいのかな」

「きょうは、随分と調子がいいの」

 イシュマエルが投げてくる普段通りの会話に、サラは半ば無意識に答えていた。今の彼女にはもっと重要なことがあった。

「そんなことよりも、さっきのあれは一体何なの?」

 サラは訊ねた。イシュマエルは困った子だなという風に苦笑を浮かべた。

「まさか、きみに見つかるとは思わなかったな」

 イシュマエルは言った、

「きみは病人だし、もっと大人しい子だと思っていたよ。まさか少し体調が回復したくらいでこんな森の奥に入ってくるとは」

「私は本来行動的なのよ? 大人しかったのは病のせいね。それに話を逸らそうとしても無駄よ。さあ、ちゃんと説明してよ」

 サラはイシュマエルに詰め寄った。そして今までずっと不思議に思っていたことを訊ねることにした。

「あなたは、何者なの?」

「旅人さ」

「そんなことじゃない」

 質問の答えをバッサリと斬られ、イシュマエルは肩を落とした。

「私が聞いているのは、もっとこう――あなたっていう人間のことよ。私はずっと不思議に思っていたの。あなたってどこか普通の人とは違う感じがするもの。ねえ、あなたは誰? 何者なの?」

「……」

 イシュマエルはなにかを考えるように沈黙した。サラは続けて言った。

「私はもうなんだかよく分からないけどすごいことが起きているのをもう見ちゃったんだから、今更誤魔化さなくたっていいわよ」

「きみは」

 イシュマエルはサラの瞳を真っ直ぐに見て言った。

「きみはこれから話すことを秘密に出来るかい?」

「秘密にしろと言われれば誰にも言わないわ。私、口は堅いわよ」

 サラは答えた。

「それに、家の中に閉じこもっていたら話す友達だっていないしね」

「それならきみを信用することにするよ」

 そしてイシュマエルは静かに言った。


「僕はね、魔法使いなんだよ」

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