(2/2)
イシュマエルの下から逃げ出したサラは一人になれる場所を探してがむしゃらに走った。けれど病のせいで碌に外を出歩いたこともない彼女の身体はすぐに限界を訴えた。息が上がり、白い吐息が口から吐き出される。それでも立ち止まらずに足を動かしていると、雪に足を取られて彼女は地面に転んだ。
雪がクッションとなり、サラの身体には怪我の一つもなかった。けれど一度倒れてしまうと彼女は体を起こすことが難しかった。体力的に厳しいのではない。身体は起き上がろうとしているのに心がそれに逆らっているようだった。
雪の冷たさがサラの肌を刺す。まるで雪が自分のことを責め立てて、非難しているように感じられた。
近くには小川が流れていた。サラは水面に映る自分の顔を覗き込んでみた。酷い顔だ、と思った。
――実際に傷つけられた人にとっては、そんなことはどうでもいいんだから!
自分がなぜ、あのような言葉を吐いてしまったのか、サラには分からなかった。少なくとも普段の彼女なら決して口にしないようなセリフだった。
そう思っていると水面に移ったサラの表情がぐにゃりと歪んだ。これは幻影だ。現実に水に映った自分の表情が歪むなどということはあり得ないと彼女は理解していた。けれど幻影は消えることはなく、それどころか酷薄な笑みを浮かべて彼女のことを見つめ返していた。
『つまりそれがあなたの本性、あなたの本質ということよ』
幻影は言った。サラは幻影から眼を逸らすことを許されなかった。
『あなたは自分のことを素直で、誰に対しても親切であると思っているのでしょうね。実際そのようにしてあなたは家族やイシュマエル、これまで出会ってきた人々にふるまって来たでしょう。けれどそれはあなたが身につけた偽りの仮面よ。自分の醜い本性を覆い隠すために纏った自分の理想。けれど私には通じないわ。なぜなら私はあなたの心。あなた自身なんですもの。どんな人間であっても自分に嘘をつくことは出来ないわ。そう、たとえ魔法使いであったとしても無理よ』
やめて、とサラは思う。それ以上は言葉にしないでと、心で懇願する。
『なぜ? なぜやめるの?』
「だって、それは本当の私じゃないから」
『いいえ。あなたよ。心の奥底では常に他人を責め、拒絶し、怒りを抱いている。それがあなた。むしろ今まであなたが演じて来た素直で、誰に対しても親切であろうとしてきたあなたこそ、偽物だわ』
「私は……誰かをそんな風に見たことなんて」
『ない? 嘘ね。あるはずよ。例えば、入れ代わり立ち代わり両親が連れてきた医者。彼らを見るたびにあなたは何を思っていた?』
「今度こそ治してもらえるおかもしれないって……そう思っていたわよ。もちろん」
『あなたは「また私に死の宣告をしにやって来た」と思っていたじゃない。そしてもう何度目かもわからない死の宣告をする為に医者を連れてきた両親を蔑んでいたじゃない』
「違うわ! そんなこと、思ったことなんて一度だってない!」
『いいえあなたよ。あなたの本性よ』
サラは水面を叩きつけた。水面が荒れ、波が立った。けれど幻影は消えてはくれなかった。彼女は幻影から逃れるように、川辺から離れた。定まった場所があったわけではない。ただいまは一か所の場所に留まってはいたくなかった。
それでも、幻影から逃れることは出来ない。一陣の風が散っていた葉々を拾い上げた。風はその場にとどまり、葉々を集めて人の姿を形作った。それは彼女の姿をしていた。
『私から逃れることは出来ない』
幻影は言った。
『なぜなら私はあなただからよ。どんな人間でも己から逃れることは出来はしない!』
サラは耳を塞いでその言葉を無視することに全力を注がなければならなかった。そうしなければ自分は自分で居られなくなってしまいそうな予感がしたのだ。それはとても恐ろしい感覚だった。
そして再び幻影に背を向けて逃げ出す。けれど彼女がどれほど逃げても幻影は追いかけて来た。そのたびに幻影は彼女を惑わす言葉を囁いた。
私はどうにかなってしまったのだろうか。そんな疑問がサラの頭を占める。ただがむしゃらに走っていた。
その時、ふと足が雪の中に沈み込んでサラの上半身がぐらりと揺らいだ。呼吸が止まる。次の瞬間に彼女を包み込んだのは恐怖を孕んだ浮遊感だった。
足跡の一つもなく降り積もっていた雪がひび割れ、崩れ落ちていく。現れたのは鋭く削れたクレバスだった。木の根が地面を盛り上げたのか、はたまた地震で開いたのかは定かではなかったが、その亀裂の大きさは一人の少女を飲み込んでしまうには十分な大きさだった。
落ちる! サラは自身に襲い来る悲劇的な結末を悟り、力一杯に目を瞑った。けれどいつまで待っても襲い来るはずの衝撃と痛みはやってこなかった。
サラは小さく瞼を開け、隙間から自分の置かれた状況を確かめた。そして今度こそ驚きに目を見開いた。クレバスの両側の土の壁から、木の根や蔓が幾重にも及んで彼女に巻き付いていた。彼女は自分が助かったのだということをようやく理解した。彼女に巻き付いている根や蔓はまるで彼女を護ろうとして伸びて来たかのようだった。事実、それはその通りだった。
仰向けの状態で蔓に絡まったままクレバスの裂け目を見上げていたサラは、裂け目の中を覗き込んで来る人影に気が付いた。イシュマエルだった。彼の口が何事かを発した。するとサラの身体は風に包まれ、ふわりと浮かび上がった。そのままクレバスの外まで彼女は風に運ばれるままになった。
冷たい雪の地面に両手と両膝を着き、サラはようやく安堵し、全身から緊張がほどけていくのを感じた。
「あぶないところだったね。足元には気を付けないと。雪で隠されてしまっているけれど、山には危険がたくさん潜んでいるのだから」
イシュマエルは変わらず、サラに微笑みかけた。そのことが彼女には納得出来なかった。今の彼女は自分でも自分のことが分からなくなっているのに、彼の変わらない態度がすべてを見透かしてしまっているように感じられて、恐ろしくなった。
「……ありがとう。助けてくれて」
サラは立ち上がると服についた雪を払った。
「でも今は一人になりたいの。放っておいてくれないかしら」
「もちろんそれは構わないよ。人間には一人になって物思いに耽るという時間は必要だからね」
イシュマエルは答えた。
「けれどそうする前に、僕の話を聞いてくれないかい?」
「ごめんなさい。今は一人になりたいの。今すぐに。あなたの話はいつだってためになることばかりだったけれど、今はあなたの話を聞くよりも一人なった方が私のためだと思うの」
「それなら君はなおさら僕の話を聞くべきだ。もちろん僕も君の話を聞く。僕たちには互いに語り合う時間が必要だ」
イシュマエルは言った。
「僕は君に魔法使いの考え方を教えた。そして君は今、気が付いていないかもしれないけれど、魔法使いの考え方、世界の捉え方に目覚めようとしている。そんな君を、魔法使いの考え方を教えると約束した者として、放っておくことは出来ない」
「ごめんなさい。ごめんなさいイシュマエル。私は、魔法使いの考え方を、もう知りたくはないの。学びたくもない……」
サラは心に去来する苦しみから逃れるように言った。
「魔法は私の世界を変えてくれたわ。あなたに出会うまで、私はベッドに釘付けで、毎日窓の外の景色を眺めて過ごしているだけだった。けれどあなたに出会って、魔法のおかげで私は初めて世界の広さに触れて、美しさを知ったわ。嬉しかった。だって、そこには窓からいつも見ていた景色とはまるで違う世界が広がっていたから。でも今、魔法は、魔法使いの考え方は、私を救うだけではなく、おかしくさせようとしているの! 私は、それに耐えられそうにもないわ」
「おかしくさせる?」
イシュマエルは訊ねた。サラが彼の背後を指さした。彼の眼に、そこには何も映らなかったが、彼女の指は明確に何もない空間を指し示していた。
「今も幻覚が見えている。私をそそのかす幻覚よ。その幻覚は、私を悪の道に貶めようとしているの。その幻覚から逃れる術を、私は理解している。魔法から、そしてあなたから離れることよ。そうすれば、私はあなたと出会う前の、魔法を知る前の私に戻ることが出来るわ」
イシュマエルはサラの言っている幻覚がどういうものなのかをよく理解していた。それは決して逃れることの出来ない幻覚だ。
「残念だけれど、その幻覚から逃れることは出来ないよ」
イシュマエルは真っ直ぐにサラの眼を見て言った。力強い断言と彼の瞳に射抜かれて、サラはたじろいだ。
「その幻覚の正体を僕は知っている。その幻覚がどういうものなのかを知っている。その幻覚に出会って、どれだけ心が苦しいのかも知っている。きっと心が砕かれそうだろう。心が引き裂かれそうだろう。悪魔が自分の身体を乗っ取ってしまったのではないかと感じているかもしれない。君の感じている不安、苦しみは全て分かるよ。なぜならその経験はぼくも歩んだ道だからだ。だから分かる。どれだけ逃げようとも、隠れようとも、隠そうとも、その幻覚から逃れることは出来ない」
イシュマエルの言葉に、サラは後退り、頭を振った。言葉は出ない。
「僕から逃げても、魔法から遠ざかっても、幻覚は消えない。人間は、一度学んでしまったことを忘れることは出来ない。それが魂に、心に深く結びついているのならなおさらね」
「それじゃあ……それじゃあ私は、ずっとこの幻覚に追いかけられ続けるというの? そんな、そんなのってないわ! 絶対にあるはずよ! なにかこの幻覚をうち破る方法が!」
イシュマエルは答えなかった。時に沈黙が何よりも強い説得力を持つということを彼はよく知っていた。
サラは膝から崩れ落ちた。幻影の嘲笑が聞こえた。心は、バラバラになってしまいそうだった。もう、自分という人間がどんな人間だったのかさえ、彼女には分からなくなっていた。そんな彼女に、幻影を押しのけてイシュマエルは手を差し伸べた。
「だから話をしよう。君と僕の話だ」
☆
サラはイシュマエルに連れられて見晴らしのいい高台に登った。そこからはリーヨンの町の全てが見渡せた。町の向こう側にはどこまでも広がっていく海が揺らめいていた。空は曇っていて、そのせいで海もどことなく仄暗さを感じる。そんな海を見ていると、まるでこの町が世界から切り離されてしまっているようだった。
「これはいい景色だね」
イシュマエルが言った。サラはリーヨンの町を改めて見た。お世辞にも美しいとは思えなかった。どこを見渡しても雪が積もっていて、それは灰色一色の、色彩の欠片もないただの海辺の町だった。
「どうして私をここに連れて来たの?」
「僕はこれまで旅をしてきて、色々なところに行った。旅の途中では道に迷うこともある。そういう時は高いところに上って周りの風景を見てみるのさ。木々に囲まれていた今までとはまるで違った景色が見えることもある。そうすればおのずと進むべき正しい道も見えてくるものだ。人生という旅路を歩むうえでもそれは変わらない。どうすればいいのか分からなくなった時、一度立ち止まってすべてを眺めてみるんだ。そうすれば木々の迷路から抜け出す方法が見つかるときもある」
「私は別に、人生に迷っているわけではないのよ。私は自分がどうあるべきかをちゃんと、正しく理解しているもの」
サラは言った。
「私はただ、この幻覚、この幻影を消し去りたいだけ」
イシュマエルは黙って町を眺めていた。サラは彼に向き直った。
「あなたは私の幻影の正体を知っていると言ったわ。私のこの心が引き裂かれるような苦しみを、自分も味わったとあなたは言ったわ。ならあなたはどうして今、そんなにも穏やかでいられるの? どうやってこの幻覚を打ち消したというの? 教えて」
「まず君の勘違いを正しておかなくてはいけないね。僕は君の言う幻影を打ち消してなんかいない。だから、そのような方法も知らないよ。さっきも言ったけれどね」
イシュマエルは言った。
「僕も以前、君と同じようなことを先生に詰問したことがある。先生も、そのまた先生に同じ質問をした。そして答えはいつだって同じだった。『話をしなさい。私とあなたの話です』」
「あなたはさっきもそう言っていたわ。それに、一体何の意味があるというの?」
「話をすれば、見えていなかったものも見えるようになってくるものさ」
「話をして、あなたは幻影をどうにかすることが出来たの?」
「ああ。出来たよ」
「教えて。それは、どうすればいいの?」
「目を背けないことだ」
イシュマエルはサラを見据えて言った。そのまなざしは彼女の心の奥深く間で見据えているようだった。
「自分自身の言葉から。自分自身の感情から。そして幻影の言葉から。幻影が君にもたらす感情から。それはとても難しいことだけれど、ひとは何事においても目を背けて前に歩むことは出来ない。こと受け入れがたい真実ってものからは特にね」
サラはイシュマエルが言っていることを実践することは確かに難しいことだと思った。彼女は自分を苛む幻影に向き合わなくてはならなかったが、いざ幻影と相対してみようとすると、幻影を木っ端にして火にくべてしまいたくなるほどの嫌悪感に狂ってしまいそうになるのだった。それが恐ろしくて、その場から逃げ出したいという衝動が、彼女を駆り立てるのだ。その衝動に抗い、幻影と対峙するのは到底無理なことのように彼女には思えた。
「逃げてはいけない」
イシュマエルは逃げ出そうとしてしまうサラを言い留めた。
「今に逃げ出してしまえば、君は今後一生その幻影から逃げ回り続けることになるだろう。そして決して逃げおおせることは出来ない」
「でも……」
「幻影の言葉に耳を傾けるんだ。幻影は、なんと言っている?」
サラは沈黙した。幻影は今も眼の前に鮮明に見えていて、その声も嫌というほどに聞こえて来ている。けれどその内容を自分の口から発するということは彼女にとってとても難しいことだった。
口を噤み、幻影を睨み付ける。不意に幻影の口元が笑みを浮かべた。
『彼の言う通り、私があなたに発した言葉の数々を、その口で唱えて見たらいいわ。そうしていかに自分が醜く、穢れ、歪んだ人間であるかどうかを実感するのよ』
幻影の言葉に、サラは心臓を鷲掴みにされたような感覚になった。彼女は耳を塞いで、その場にしゃがみ込んでしまった。
「聞こえない! 言葉なんて……何も聞こえないわ!」
サラは耳を塞いでしゃがみ込んでしまってから、そんな自分を不甲斐無く思った。本当に今日の私は私じゃないみたいだと彼女は思った。これまでの彼女ならばイシュマエルの言うことならば否定も反対もしなかっただろう。それは魔法使いである彼を尊敬しているからに他ならなかった。けれど今日は既に三回も彼の言葉を否定してしまっている。そのことが、彼女自身信じられなかった。彼女はイシュマエルが自分に失望しているのではないかと怖くなった。俯いたまま、イシュマエルの方を振り返ることも出来ずに、彼女はただひたすらに幻影の言葉から逃れる為に耳を塞ぎ続けた。
イシュマエルはそんな彼女を見て、けれど決して失望などしてはいなかった。それはかつての彼も、目の前で耳を塞ぎ蹲っている少女と同じように、幻影の言葉から逃れようとしていた時があったからだった。先生はそんな彼に失望などしたことは一度たりともなかった。なぜなら悩み、迷えるものを導くことこそが師たるものの務めだからだった。そして彼は今、サラを導くためにこの場にいるのだ。
イシュマエルは膝を折ると、震えるサラの背中に手を当てた。びくっと一度、彼女は大きく震えた。
「怖がらなくても大丈夫。これからきみの身に起こることに、恐ろしいことなど何一つないのだから。もし仮に、何か恐ろしい目にきみがあっているとしたら、その時には僕が助けてあげる。だからきみはなにも恐れずに、ただ幻影と向き合えばいいんだ」
イシュマエルの言葉に、特別な魔法な何一つかかっていなかった。けれど彼の言葉と手のひらのぬくもりはサラの心に癒しをもたらした。彼女は自分の心が落ち着きを取り戻していくのを感じた。
サラは恐る恐る幻影と再び向き合った。耳を塞いでいた手を外しても、さっきまでの恐怖は彼女中にはもうなかった。代わりに背中に添えられた手のひらから伝わってくるぬくもりが幻影に脅える心をやさしく包み込んでいて、彼女に力を与えてくれているようだった。
『あなたって本当に愚かね』
幻影の言葉に彼女の肩が震えた。幻影の発する一言一言が彼女の心を怯えさせた。
『彼がどんなに言葉を尽くそうとも、あなたの本質は変わりはしないわ』
サラはイシュマエルとつないだ手を力いっぱい握りしめた。するとイシュマエルもまた、彼女の手を握り返した。
「大丈夫だよ。さあ、僕ときみの話をしよう。まずは僕の声に耳を傾けてみて」
サラは言われた通りにした。幻影は変わらず語りかけてきていたが、つながった手のぬくもりを感じていると、自然とイシュマエルの声に集中することが出来た。
「今、目の前にいる幻影はもう一人のきみだ。僕も以前、同じ経験をしたから分かる。幻影は君を傷つけることばかりを言っただろう。その度に心が引き裂かれそうになっただろう。幻影はいつだって僕たちの受け入れがたい形で現れる。実に悪趣味だろう。けれどそれにだって意味があるんだ」
「意味?」
「ひとはいつだって、自分が間違っているだなんて考えもしないで生きている。人は行動を起こすとき、その行いが正しいと信じて行動する。たとえ悪人であっても、自分の行いが本当に悪いと知って行ってはいない。心のどこかで、自分の行いが正しいと信じているんだ。きみの目の前に現れている幻影は、ひとに己の間違いを教えるために現れるんだ。これは神様が、人間をよりよい方向へと導くために、このような幻影を見せているのさ。けれど多くの人間はこの幻影を見ることはない。なぜなら幻影を見ることが出来る人は自分自身の正しさに疑いを持てる人間でなくてはならないからだ。そうでなくては神様の道しるべを見ることは叶わない。つまり、幻影がきみの前に現れたということは、きみは神様の敷いた道しるべに従って歩むに足りえる人間であるというわけだ」
サラはイシュマエルの言っていることをちゃんとは理解できなかった。目の前で自分を傷つける言葉を並べ立てる幻影が、神様の敷かれた道しるべへと導くようなものだとは到底思えなかった。
「ではどうして今、私の姿をして、私の目の前にいる幻影は私のことを導いてくれずに私にひどい言葉ばかりを浴びせるというの?」
「きみはさっき、自分がどうあるべきかをちゃんと理解していると言った。けれど、果たして本当にそうだろうか」
イシュマエルは言った。
「自分がどうあるべきかだなんていうことは、誰にも決められないよ。望むことは出来ても、そうあれ、ということは出来ない。残念ながら僕たちは神様じゃないからね」
「けれど、あなたは箒を飛ばして見せたわ。あれは、あなたが箒に空を飛ぶべきだと言ったからではないの? そして箒が空を飛ぶべきだと感じたからではないの?」
「箒が空を飛んだのは、箒がそう願ったからだよ。望みや願うのと、こうあるべきだと決めるのはまた違う話なんだよ。こうあるべきだと決めたことが、自分の真の望みであるとは限らないからね。魔法は、望みや願いによって奇跡を起こすけれど、何かをしなくてはならないなんていう意思の力では奇跡は起こせない。魔法の源は心からの望みや願いなんだから。そしてそれはひとが生きるうえでも同じことだ――きみの幻影は、何て言っていた?」
サラは答えることを躊躇った。幻影の言葉を自分の口から告げるのは、幻影の言葉を認めてしまったような気がしてやはり難しかった。けれど、また逃げ出すわけにはいかなかった。
「……私がひとを、町の人々を蔑んで、憎んでいると言っているわ」
サラは覚悟を持って、幻影の言葉を呟いた。
「そうか」
イシュマエルは短く頷いた。
「幻影は嘘をつかない。幻影の言葉は全てきみ自身が心の奥底に抱えている矛盾や葛藤だ。これからきみは幻影の言葉に向き合わなければならない。幻影の言葉と向き合った時、初めて神様の道しるべを辿り、これからの道程を歩んでいくことが出来るようになるんだ」
「……それじゃあ、それじゃあ! この幻影が言っていることはすべて正しいっていうことなの⁉ 私の心は、幻影の言うように歪み、穢れているというの⁉」
「僕はこれまで色々なところを旅してまわってきた。そしてその度に世界は見せる風景を変えて、世界の大きさと複雑さを教えてくれた。ひとも同じことだよ。ひとの全てをたった一つの考えで語ろうとすることは無理だ。ひととはもっと複雑で、それこそ摩訶不思議なものだよ。世界のどんなものよりもね。だから、矛盾の一つや二つを抱えていても、まったくおかしくはない。きみの中には確かに、ひとを蔑み、恨んでいる感情があるのかもしれない。でもね。僕がリーヨンの町に来て、出逢ったきみは素直で、親切で、明るい、いい子だったよ。それもまた、きみの心だ」
サラは何も言わなかった。ただ、イシュマエルの言葉に耳を傾け続けていた。
「矛盾や心の葛藤はいくらでも抱えていて構わないのさ。大切なのは、自分がどうありたいのかだ。それがひとの在りようを決めるんだ。サラ。きみはどう在りたい?」
「私は――」
どう在りたいのか。
「――分からない。それでも、いい人間でありたいとは思う」
「それでいいさ。自分がどう在りたいかだなんていうのは、一生分からないかもしれない。でも、よりよい自分を目指そうとする行為に間違いはない。けれどそれにはまず、自分の負の面にも目を向けなくてはならない」
イシュマエルに促されるように、サラは幻影を見やった。
「目を向けて、受け入れなくてはならない」
サラは身体が緊張した。
『私を受け入れる? あなたには無理よ。そんなことは出来っこない。今まで散々眼を逸らしてきたこの私から! 私が見えるようになってからじゃない、心の奥底にずっといた時からあなたは私と向き合おうとはしなかったじゃない! あなたに出来るのは眼を逸らし、逃げ続けることだけよ!』
サラは再び俯きかけそうになった。それでもぐっとこらえ、幻影を見据え続けた。一歩、一歩を踏み出すのよ、と自分に言い聞かせた。
「そう、かもしれない。でも、それも含めて私だというのなら、それとも私は向き合って見せる」
そう言って彼女は幻影に空いている方の手を差し出した。
「私は家からあまり出ないから、時間はたっぷりあるもの」
サラは精いっぱいに幻影に微笑みかけた。すると幻影は、ふわりと輪郭を揺らめかせて、次の瞬間には目の前から消え去ってしまっていた。
サラは差し出した手を、心を感じるように胸に押し当てた。そんな彼女を見て、イシュマエルは微笑んだ。
神様は人間に罰を与えた。けれど同時にその罰とどう歩んでいけばいいのかという道しるべも示してくれているのだ。そしてその道を今、サラは歩き始めた。
この道はいずれ魔法使いへとつながる道でもある。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます