間章 ある学者の話
その壮年の男は非常に厳格な男だった。男は物心がついてから毎日陽の出とともに目覚め、陽が沈むのに合わせて眠りにつくという生活を繰り返していた。そうすることで体の中に一定のリズムが生まれ、そのリズムに合わせて生活することが、身体と心のバランスを整え、脳を活性化すると信じていたのだ。そのリズムが崩れてしまえば、自分自身が崩れ去ってしまう恐れもあると、彼は恐怖にも似た感情を抱くこともあった。
彼は神を信じていたが、それは多くの人々が広く信仰している人間を導くような神ではなかった。彼は理論物理学者であり、数学者だった。彼の信仰する神は一定の法則に従って、完璧に調和の取れた自然現象の中と、美しく整った数式の中に存在した。日中活動している時間の多くを彼は自宅の書斎の中で過ごした。新たに発表された論文を読みふけり、自分の数式で世界の調和を保っている法則を導き出すことを夢想した。リーヨンの町の人々の多くは彼のことを世捨て人のように思っていたが、彼はそんなことは一切気にしていなかった。彼にとっては町の人々の方が一層不可解に思えていた。彼らは非論理的な行動を繰り返し、見当違いな神を崇拝している、と彼は考えていた。
ある時、彼が町中を歩いていると、何人かの男たちが彼に絡んで来た。男たちは自称宗教家を名乗っていて、学者であり、自分たちの信じる神を否定する彼のことをひどく嫌っていたのだ。そして彼に研究をやめさせるために――そして嫌がらせのために――「お前のやっていることはすべて無駄だ」と、宗教家の男たちは言った。
「なぜそう思うのだ?」
と学者は訊ねた。宗教家の男たちは「神は全知全能なのだから、神に出来ないことはなく、お前がいくら研究をしようとも、神はさらにその上を行く。必要ならば奇跡の御業によってお前たちの信じる法則などでは理解も及ばない事柄を起こすことが出来るのだから、数字を追ったりすることは時間の無駄である」と説明した。それに対して学者は、
「そんなことはあり得ない」
と言った。
「神はそのような理不尽な存在ではなく、また気まぐれな存在でもない。なぜなら我々科学者はすでに世界で起きている現象の幾つかに対して、明確な法則とそれを予測する数式を発見しているからである。きみたちの言う通り、確かに神は全知全能なのかもしれないが、神は全能の力で世界に規則的な法則を生み出したのだ。そのような神が気まぐれに法則を捻じ曲げるようなことはするはずがないのだ」
「お前たち科学者は神を冒涜する行為をしている。世界は神の御業によって造られているのだ。お前たちが崇拝している数式は幻想に過ぎない」
宗教家の男たちは怒りに震えていたが、学者は被り振った。
「なぜ物が地面に落ちるのかを我々は知っている。なぜ星は円を描き回っているのか我々は知っている。なぜ、こうしてあなたや私の肉体、そして石や木に至るまでのものがなぜ存在しているのかについて知っている。これらはすべて科学によって明らかにされている。あなた方が科学を幻想と呼ぶのなら、このあなたや私、世界そのものが幻想になってしまう。だが私は間違いなく存在している。石に触れることも出来る。幻想などではなく、実在している。ゆえに科学が導き出した法則や数式も(その中身が多少の間違いを含んでいようとも)実在しているのだ。――それに、科学は神を冒涜しようとしているわけではない。科学は神を理解するための手段なのだ。世界を創った神を理解するための」
☆
老人は遠くから科学者と宗教家の男たちが話している様子を見守っていた。状況は圧倒的に科学者の方が優勢で、宗教家の男たちのことを論破していた。科学者もまた、魔法使いと同じように世界を解釈することを目的としていることを老人は知っていた。ただ、見方の視点が違っているだけなのだ。
春になると綺麗な花が咲くから。 金魚姫 @kingyohime1998
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