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「魔法使いは、むやみやたらに他人に魔法を見せてはいけないよ」
イシュマエルに魔法を教えた先生は、かつてそう言った。それは彼が初めて魔法を使えるようになった時で(当時はもっとも簡単と言われる魔法しか使えなかった)、十二歳の時だった。幼かった彼は先生に何故魔法を見せたらいけないのかと訊ねた。先生は「魔法とは神秘を扱うものだ。そして神秘とは多くの人の目から隠されているから神秘と呼ぶのだ。神秘とは気高きもので、それを扱う魔法もまた気高くなくてはならない。しかし多くの人々が魔法を知り、使うようになれば魔法は汚され、神秘もまた神秘ではなくなってしまうだろう」と言った。
イシュマエルは先生の言わんとすることがしっかりと分かった。かつて世界は一つの言葉を話していた。人々はたった一つの言葉で会話をし、動物や、木々や風ともその気になれば話すことが出来た。神秘は人々の身近に在り、神秘は神秘ではなく、全ての人々に開かれていた。しかし神のおられる高みに手を伸ばそうとした人々を、神は分不相応な行いだとみなし、罰をあたえた。人々はたった一つの言葉を失い、多くの言葉を話すようになった。多くの言葉は、人々から分かりあうということを奪った。神秘から見放され、動物や木々、風と言葉を交わすことも出来なくなった。
もし、再び多くの人が神秘の存在を知り、魔法を使うようになれば人々は再び同じ過ちを繰り返すだろう。その時神秘は再び汚され、人々には神罰が下ることになるのだった。だから魔法は、ごく限られたよき心を持った者のみが扱うべきなのだった。
けれど
イシュマエルは物置から持ってきた箒を掲げると、静かに話しかけた。
「あなたにお願いがあります。空を飛んでもらいたいのです」
イシュマエルが箒にこのような魔法を使うのは初めてのことだった。魔法使いはその気になれば鳥や風に姿を変えることも出来た。なので箒を使って空を飛ぶ必要もなかったのだ。けれど今はサラの願いを叶える必要があった。
『……なにを言い出すのかと思えば』
しばらく間をおいて、箒が応えた。その口調はどこか呆れているようだった。
『私は箒だ。塵やほこりを取るためにあるのだ。空を飛ぶためではない』
「ですが、あなたは空を飛びたいと思ったことはありませんか? あなたの入っていた物置には小さな窓が付いていて、そこからは空が見えました。鳥や蝶が空を飛ぶのを羨ましく思ったことはありませんか?」
イシュマエルは言った。
「もし、空を飛びたいと願ったことがあるのなら、僕はあなたの願いを叶える方法を知っています」
『空を飛びたいと思ったことはない』
箒はにべもなく言った。
『私の悦びは塵やほこりを集めて、私の通ったところが綺麗になることだ。それ以外を望んだことなど一度もない』
イシュマエルは内心で苦笑を浮かべた。こいつは手ごわそうだと思った。けれどそれを表情に出すことはしなかった。
「もしあなたが空を飛びたいと願ったことがないのなら、それはとても残念なことです」
『なぜだ』
「あなたは自分の可能性を潰してしまっているからです。あなたは塵とほこりを集めることが悦びだと言いますが、もし空を飛ぶことが出来れば、あなたは今まで知らなかったより広い世界を知ることとなるでしょう。そしてそれはあなたに今までにない悦びを与えてくれるに違いありません。しかし、空を飛びたいと願わない限り、世界は開けないのです」
『なぜおまえが私の悦びを語るのか。おまえは箒となって塵やほこりを集め、部屋がきれいになる悦びを知らない。なぜ、空を飛ぶことが私に今まで以上の悦びを与えると言えるのか』
「僕があなたよりも世界の多くを知っているからです」
イシュマエルは言った。
「僕はこれまで色々な場所を旅してきました。そして自分の知らないものや人に出会ったり、今まで想像もしなかったような素晴らしい光景に出会ったりした時に、僕の心は確かに悦びに震えたのです。きっとあなたも同じ体験をすることでしょう」
『私の心の在り方を、おまえが決めるな』
箒が言った。その口調が怒りを帯びていた。
『それはとても傲慢ではないか。――なぜおまえはそれほどまでに私に空を飛んでほしいのだ?』
「彼女があなたに跨り、空を飛びたいと願っているからです」
とイシュマエルはベッドの上のサラを指さした。
「彼女のことはご存じでしょう?」
『知っている。彼女は私がこの家に来た時からベッドの上にいた』
箒は答えた。
『彼女は体調がいい時、私を手に取りこの部屋を掃除した。彼女の箒の使い方はとても丁寧だった。――なるほど、彼女の望みならば私は空を飛んでもいいかも知れない』
「それはとてもうれしい言葉です」
イシュマエルは言った。
「しかしそれではあなたは空を飛ぶことが出来ません。それは先ほどあなたが言われた通り、箒は空を飛ぶためのものではないからです。あなたが空を飛ぶにはあなたが心から空を飛ぶことを望まなければなりません。もし、心から望めばあなたは空を飛ぶことが可能になります。それは物事とは全てにおいて心の在り方によって規定されるからです。私の心は魔法使いです。だから魔法を使えるのです。同様に今のあなたの心は箒です。だからあなたは箒として塵とほこりを集めることが出来るのです。そして心とはあなた自身が持つ望みと意志において変えることが出来るのです」
箒は黙ってイシュマエルの話を聞いていた。彼は話を続けた。
「心を変えるには必要なことがあります。それは今持っている箒としてのあなたの悦びや望みを一切捨て去ることです。何故なら心はいくつもの望みや悦びを得ることは出来ないからです。あなたが本当に彼女のために空を飛ぶことを望むというのなら、塵やほこりを集めることではなく、空を飛ぶことを悦びとすることを心から望まなければならないのです」
『…………』
それは箒にとってとても重大なことだった。もし、空を飛ぶことを望めば箒は箒でなくなってしまうということだった。恐らく塵やほこりを集め、部屋をきれいにしてもそれを悦ぶことは出来なくなってしまうだろう。それは箒にとってとても恐ろしいことだった。
箒はその時、初めて空に思いを馳せてみた。物置の窓からいつも眺めていた空だった。空はとても青く、どこまでも澄み渡っていた。
箒は想像してみた。それは自分が空を飛んでいる光景だった。あの大空を、なにものにも縛られることなく、飛ぶことは果たして塵やほこりを集めることと比べて勝っているのだろうか。
青年は勝っていると言った。
しかし箒の心は迷っていた。箒が今まで塵やほこりを集めること以上に素晴らしいことなどこの世には存在しないと思っていた。それが今、青年の言葉に激しく揺らいでいた。
『……私は、箒として塵やほこりを集めることに誇りを持っていた』
箒は言った。
『もし、私が空を飛ぶことを望めば、今ある誇りは失われてしまうだろう。それはとても恐ろしいことだ』
「何事も新しいことに挑戦するということは恐ろしいものです。しかし、挑戦する者だけが得られるものがあります。神秘の力も同様です」
『……私は、私がこれまで育んできた誇りを捨てることは出来ない』
箒の言葉にイシュマエルは瞼を伏せた。彼は箒が大きな一歩を踏み出せるように背中を押す言葉を探した。
「では、別の箒に頼むことにしましょう」
イシュマエルは言った。
「箒の中には、あなたほど塵やほこりを集めることに誇りを持っていない箒もあることでしょう。そういった箒を探し、あなたにしたのと同じように話をして見ようと思います」
『……っ』
箒はその光景を想像した。自分以外の箒が少女を乗せ、どこまでも続く大空を飛んでいる光景だった。物置の窓からその光景を眺める自分だった。
その時、箒は明確に自分の心が嫌だ! と言っていることが分かった。自分ではない別の箒が、空を飛び、少女の乗せている光景を見たら、きっと耐えられないだろう。その光景を見た時に、今この時に一歩を踏み出さなかった己を悔いるだろう。
『……ま、待ってほしい……』
自分ではない箒が空を飛ぶといわれ、その座にいるのはやはり自分でありたいと箒は思った。
『他の箒が空を飛ぶのなら、その役目は私が勤めたい』
「いいのですか? それはつまり、今あなたが持っている箒としての誇りを捨てるということですよ」
イシュマエルは箒を試すように言った。
『…………構わない』
箒は答えた。
『私は想像した。例え、誇りを捨てたとしても、かつて誇りを持っていたという事実は残る。だが、誇りを護れば私は空を飛ぶ自分ではない箒を見るたびに誇りを護らず、空を飛ぶ決断をしていたらということを考えてしまうだろう。そして、それは考えたところで、無意味なことだ。ならば私は今まで育んできた誇りを胸に、新たな誇りを、新たな場所で探そう』
「それはあなたの心からの願いですか?」
イシュマエルが訊ねた。箒はしばらく沈黙すると、噛み締めるように言った。
『心からの願いだ』
イシュマエルは口端を上げ、笑んだ。
「では、その願いをこの僕、魔法使いイシュマエルの名の下に叶えよう」
イシュマエルは偉大な決断をした箒に最大の賛辞を送った。
「あなたの心は神秘に触れ、神秘たる力をもって己の在り方を変える。偉大なる箒、あなたは新たな一歩を踏み出し、その長い旅路に新たな一歩を刻み付けた!」
次の瞬間、箒は心が温かいもの包まれる感覚を味わった。それは何でも出来るという全能感に似たものを箒に与えた。
「勇気ある決断をした偉大なる箒――あなたに最大の敬意を」
イシュマエルは心から眼の前の箒を祝福した。
箒はすでに誰の手も借りず、まるでそうあることが当然というように宙空にふわふわと浮いていた。
☆
「よかった。上手くいったみたいだ」
イシュマエルは宙に浮く箒を見て言った。ベッドの上ではサラが独りで宙に浮いた箒を見て目を丸くしていた。
「ほんとに、箒が飛んでる」
サラは無意識に呟いていた。イシュマエルはそれを見て笑った。
「さあ、薬を飲んだらきみの願いを叶えようか」
するとサラは頷くが早いか手に持っていたコップの中に入っていた薬になる草花をすりつぶした飲み物を一気に煽った。彼女は強烈な苦みと青臭さが口の中を通り過ぎるのを待って、ようやく深く息を吐いた。
「飲んだわ!」
ご褒美を待つ子供のようにきらきらした目を向けて来る彼女が微笑ましくて、イシュマエルは再び笑みを浮かべた。
「それじゃあ行こうか」
そう言ってイシュマエルは箒に手を掛けた。すると箒は宙を滑るようにベッドの横まで移動した。
「跨ってごらん」
「う、うん……」
イシュマエルに促されて、サラは箒に跨った。箒は彼女が乗っても地面に落ちる気配はなかった。彼女が安定する位置を見つけると、その時には既に彼女の足は地面を離れていた。
イシュマエルはサラの後ろに跨った。背後から彼女のことを抱きしめるようにして、箒から間違って落っこちてしまわないように支えた。
「それじゃあ行こうか」
イシュマエルが耳元で囁いた。サラはこくりと頷いた。
「それじゃあ、よろしく頼むよ」
イシュマエルは軽く箒の柄をひとなでした。それに応えるように箒の藁の毛がかさかさと音を立てて揺れた。ぐんっと一瞬後ろに引かれるほどの力が身体に加わった。そして気が付けば箒は窓から外に飛び出していた。
温かい家から外に出て、鋭い冷気が身体を包み込んだ。
「わ、わ……わあああああああああああああ⁉」
箒はものすごいスピードで急上昇した。サラの悲鳴を地上に置き去りにして、森の家ははるか下。森全体を一望できるほどの高度に達したところで箒は停止した。
「び、びっくりしたぁ~」
サラはドキドキと脈打つ胸に手を添える。
「心臓が止まるかと思った」
「確かに、ちょっと急だったかな」
イシュマエルは笑った。
「でも見てごらん」
そう言われてサラは視線を上げた。そして――。
「わあ……」
彼女は感嘆の声を上げた。眼下に広がっていたのはどこまでも続く森の深い緑と、それを覆い隠す白い雪。遠方には町を望むことも出来た。さらにその先には青い大海原が見えた。水平線は残念ながら靄が掛かっていて見ることは出来なかったが、青い空と青い海はどこまでが空でどこからが海なのか、見分けもつかないほどだった。
「きれい。この町って、こんなに綺麗だったのね」
「うん。綺麗だね」
イシュマエルが言った、彼は雪に輝く光が眩しくて目を細めた。
「体調は大丈夫? もう少し行ってみようか」
「ほんとに⁉」
サラは眼を輝かせた。
「体調なら大丈夫!」
「じゃあ行こうか」
そう言うとイシュマエルは箒を操り、空を飛んだ。
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