第三章 神秘の湖

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 イシュマエルは箒の向きを町の方へ向けようとした。普段森の家から出ることの出来ないサラに、この機会に町を見せてあげたいと思ったのだ。けれどそれを止めたのは他でもない彼女自身だった。

「町よりも、もっと別のところがいい……かな」

 サラはイシュマエルの服の裾をつまんで言った。消え入るような弱々しい声だった。

「……いいのかい?」

 イシュマエルは驚いて言った。

「もしきみの病が町の人々にうつってしまうことを恐れているなら、それは無用な心配だよ。もう一週間も僕はきみと一緒にいるんだ。きみの両親は君が病になってからずっとだ。その間も彼らは至って健康的だったのだから、きみの病が他人にうつる可能性は限りなくない筈だよ」

「……やっぱりいいわ」

 サラは頭を振った。それから辺りを見回した。

「あっちに行きたい。あっちも普段なら絶対に行けない場所だもの」

 彼女が指を指したのは町の反対側、森の奥深くだった。確かに、歩いて散策するには険しい森だった。

「分かった」

 イシュマエルは頷いた。

「もともと空を飛びたいというのもきみの願いなんだ。きみに従うよ」

 そして箒の柄の頭を振り上げ、転進した。幾ら険しく、普段なら人を寄せ付けないような森だったとしても、空を飛んでいるイシュマエルたちには関係のないことだった。

 箒が進む……とその瞬間。びゅん! と耳の外側で風を切る音が聞こえた。箒がとてつもない速さで飛んだのだ。身体が後ろに引っ張られ、サラはまたしても箒から振り落とされそうになった。

「き、きぃやあああああああああ!」

 悲鳴が背後に伸びていくのをサラは感じた。またなの⁉ と内心で彼女は叫びながら振り落とされまいと必死にイシュマエルにしがみ付いた。

 そしてイシュマエルは、そんな彼女の悲鳴を聞きながら必死に箒を制御しようとしていた。しかし箒には舵やブレーキなどは存在しない。取れる操縦といったら体重移動くらいだった。

「あ、あの! 申し訳ないけどもう少し速度を落としてもらえないかな⁉」

 なのでイシュマエルは箒に直接語り掛けた。すると直後に箒はピタリと速度を落とした。慣性の力が働き、イシュマエルは前のめりに空に放り出されそうになり、サラはそんな彼の背中に頭をぶつけた。

「いった~い!」

「す、すまない。大丈夫だったかい?」

 イシュマエルは背中越しにおでこを摩るサラに訊ねた。幸いにも彼女は無事なようだった。イシュマエルはほっとため息を吐くと、改めて箒に向き直った。

「もう少しだけ、速度を落としてはくれませんか?」

 改めてイシュマエルが言った。

『情けない奴だな。この程度のスピードで』

 箒が応えた。箒の声の調子にイシュマエルは首をかしげた。なんだか人(?)が変わったような感じがしたのだ。もしかしたら、箒の心の在りようが変わったせいかもしれないと彼は思った。

「箒で空を飛ぶのは初めての経験なんです」

 とイシュマエルは言った。

「慣れるまで、もう少し遅く、そして丁寧に飛んでください」

『慣れるまでだぞ。あと、お前たちを乗せていないときは、おれは自由に空を飛ばせてもらうからな』

「分かりました。それで構いません」

 イシュマエルが頷くと、箒の藁の毛がかさかさと静かに、何かを調節するように震えた。しばらくして、箒はやさしく滑るように、ゆっくりと空を進みだした。

 穏やかな風が頬を撫でた。地上とは明らかに違う空気の違いをイシュマエルは感じていた。

「わぁ、きもちいぃ」

 サラが言った。彼女は瞼を閉じて、全身ではるか上空の風を感じていた。

「ほんとうだ」

 イシュマエルは頷いた。

「これは、もし他の魔法使いに出会ったとしても秘密にしておいた方がいいかな」

「どうして?」

「だって、こんなに気持ちいのだから、もし他の魔法使いまで箒で空を飛んだりしたらきっと空は魔法使いで一杯になってしまうよ」

 実際にはそんなに魔法使いはいなかったが、もし世界中に魔法使いが溢れていたらきっとそうなっていたことだろう。

「ふふ、あなたもそんな冗談を言うのね」

 イシュマエルの冗談にサラは笑った。

 ゆっくりと流れて行く眼下の森を眺めていると、緑と白い絨毯の中にぽっかりと穴が開いたようになっている場所があった。

「見て、あれなんだと思う?」

 サラが指差して言った。イシュマエルは眼を細めてその場所を注視した。

「……ここからじゃよく見えないな」

 イシュマエルは背中越しにサラを振り返った。

「行ってみるかい?」

「うん!」

「よし、それじゃあ掴まってて」

 イシュマエルは言った。そして箒の柄の頭を少し下に下げる。箒は緩やかに下降を始めた。



    ☆



 箒が降り立った場所は、大きな湖だった。湖には、枯れて、あまりの寒さに凍って白くなった木が何本も立っていた。そして、なによりイシュマエルたちを驚かせたのは、空の高いところにいたころには深い青色をしていた湖が、畔の横に立った今はエメラルドグリーンの美しい輝きを放っていることだった。

「これは、驚いたな」

 イシュマエルが言った。横ではサラも言葉を失って幻想的な風景に見入っていた。

「この湖は、見る角度によって見え方が変わるのか」

「こんな場所があったなんて」

「ここは森の奥深くだから、普通の人はなかなか来れない。だから見つからなかったんだろうね」

 イシュマエルの言葉に、サラはなにかを考えこんだ。

「ねえ、ここのことは私とあなたの二人だけの秘密よ! いい?」

 やがてサラが言った。彼女の表情は宝物を手に入れた少女のようだった。

「ああ。構わないよ」

 イシュマエルは頷いた。この光景を独り占めしたいという気持ちは彼にもよく分かった。それ程この湖は美しかった。

 サラは湖の水に手を漬けた。手をお椀の形にして水を掬い上げた。掌の中の水は綺麗に透き通っていた。

「こうして見ると普通の水なのよね」

 サラは無色透明の水を不思議に眺めた。

「どうして色が変わるのかしら。なんだかこれもあなたの魔法なんじゃないかって思っちゃう」

「僕は何もしていないよ」

 イシュマエルは微笑んだ。

「魔法は世界の神秘を扱うけれど、世界は魔法よりも神秘的なことを時に僕たちに見せてくれる。この湖も世界の神秘だよ」

 イシュマエルはサラを見やった。彼女は一心に湖の神秘に見惚れていた。首をかしげて、見る角度を変えていた。他にどのような顔を湖が見せてくれるのか探しているのだった。そんな彼女を見てイシュマエルは先ほどから疑問に思っていることについて考えてみた。それは彼女が町に行きたがらなかった理由だった。

 最初は病が人々にうつってしまうことを危惧したのかと思った。けれど彼女の様子を見ていて、それだけではない気がした。それがどういったことなのか、イシュマエルには分からなかった。質問をしてもいい類の問題なのかも定かではなかった。それ程町から目を背けた時の彼女の表情は暗く沈んでいたのだ。

 イシュマエルはしばらく考えた。空を見上げると、箒が独りで空を駆け回っていた。箒は空の自由を堪能していた。彼は考えを決めると、サラの横に腰かけた。

「訊ねてもいいかい?」

「いいけれど、どうしたの?」

 イシュマエルが言うと、サラは小首を傾げた。

「町に行こうとした時のきみの様子が少し気になっていたんだ。何か、悩みでもあるのかい?」

「……っ!」

 サラは目を丸くした。彼女はイシュマエルから眼を逸らすと、下を俯いた。

「別に、言いたくなければ言わなくていいよ」

 イシュマエルは苦笑した。

「ただ、もしきみが何かに悩んでいるんだとしたら、力になれることがあれば力になりたいと思っただけだから」

 せっかくここまで関わったんだからね、とイシュマエルは言った。

「……」

 サラは口を噤んだ。やがて意を決したように口を開いた。

「……うん。あなたは魔法使いだっていう秘密を私に教えてくれたから。私の秘密もあなたに教えてあげるわ」



    ☆



「こんなことを言ったらあなたは怒るかも知れないけど、私は神様って信じていないの」

 とサラは言った。彼女の声は悲しみに沈んでいるように思えた。

「私ね、昔はこんな森の中じゃなくて町に住んでたのよ。もう、ずいぶん昔のことだけどね。私がこんな病気になる前」

 彼女はちらりと町のある方向を向いた。けれど見えるのは森ばかりで町は見えなかった。

「町に時計塔があったでしょ? あそこのすぐ近くにうちに住んでいたのよ」

「あそこはいい場所だ」

 イシュマエルは町の風景を思い出しながら言った。

「この町の中で最も美しい通りに面しているからね。時計塔がすぐ近くにあるというのもいい。毎朝厳かな鐘の音を聞きながら目を覚ます朝というのはきっと素晴らしいものだろう」

「私も、あの家はお気に入りで、自慢だったわ」

 サラは口元に笑みを浮かべて言った。けれど、すぐに表情は暗くなった。

「でも私が住んでいた家はもうないわ。私が五歳になってしばらくしたころよ。それまでも病を患った私を快く思っていなかった人は大勢いたと思う。その人たちの我慢がきっと限界に達したのね。ある晩、大勢の人たちが私の家の周りを取り囲んでいたの。松明をもって、口々に何かを叫んでいた。私は怖くて、震えていたわ。そしたらママが駆け寄って来てくれて、私の耳を塞いでくれた。その時は怖くて、何故町の人たちがあんなに恐ろしい声で叫びたてていたのか分からなかったけど、今ならその理由も分かる。あの人たちは、町からわたしを追い出したかったのよね。私は、誰に言われたのかは覚えていないけど、今でも耳に残っている言葉があるの」

 なんだか分かる? とサラはイシュマエルを見た。イシュマエルは大体の想像はついていた。けれど黙ったままでいた。その言葉は軽々しく使ってはいけないものだったし、言葉にすればそれだけで彼女を傷つけてしまうということを分かっていたからだった。

「『穢れた罪人』、そう言われたの」

 サラは言った。

「私は、我が儘を言ったりしたことはあったけど、何も悪いことはした覚えなんてなかったから、なんでそんなことを言われなくちゃならないのか分からなかったわ。パパとママもお前は何も悪くないって言ってくれていたから、きっとあの言葉は何かの間違いなんだって、しばらくはずっとそう思っていたの。だけど、ある時私の病気を見に来た祈祷師の人がパパとママに話していることを聞いちゃって、私が間違っているんだってそう気が付いたの。その祈祷師はこう言ったわ。『病は罪を犯した人間に与えられる神様からの罰だ。あれほどの重い病を患い、治すことも出来ないとは、お前たちの娘は生まれながらの罪人で、穢れた魂を持っているに違いない』って」

 いつの間にか、サラの眼は涙で一杯になっていた。

「その時、ようやく私は理解したの。何で町の人たちは私を町から追い出したがったのか。当然よね。誰だって神様から罰を受けるほどの罪を犯した人と一緒になんていたくないに決まっているもの」

「……きみの住んでいた家は今は?」

「私たちが出て行った後にすぐ取り壊されたらしいわ。私に関わるものは全て燃やされたとも、聞いた。それだけ私という存在が恐ろしかったのよね」

 それはあまりにもひどい仕打ちだとイシュマエルは思った。サラは言葉を続けた。

「パパとママは毎日、神様にお祈りをしているわ。私の病が早く治りますようにって」

 サラの両親が家に飾られた六芒星の図形の前で膝まずき、手を合わせて祈っている光景をイシュマエルはこの一週間毎日見ていた。六芒星はラバ教の聖典の中で主を指し示すものだった。

「だけど、私は神様って信じていないの。だって、もし、この病が本当に神様の罰なら、神様は何で、何も悪いことをしていない私を病気になんかしたの? どうして私ばかりこんなにつらい目に合わなくちゃいけないの? そんな意地悪をする神様なんて、私は信じないわ。神様はもっと……もっと……」

 サラは、それ以上言葉を続けることが出来なかった。

「なるほど、よく分かったよ」

 イシュマエルは言った。

「きみが町に行きたがらなかったのは、辛い思い出を思い出すからかい?」

「違うわ」

 イシュマエルの言葉を、サラは頭を振って否定した。イシュマエルは目を丸くした。

「町に行かなかったのは、私が町の人たちに嫌われているからよ。『穢れた罪人』だなんて言われている私が、もし町の人たちに見つかったら、またみんなを不安な思いにさせちゃうでしょ。だから、町には行きたくなかったの」

「……町の人たちが恐ろしい思いをしないように、だから町に行かなかったのかい?」

 イシュマエルは驚いて言った。なんて心の優しい子なのだろうと彼は思った。彼女は過去に町の人々にひどく傷つけ垂れてもなお、彼らのことを思いやって行動していたのだ!

 イシュマエルはサラに何かしてあげられることはないだろうかと考えた。

「――少し、魔法使いの考え方を教えてあげるよ」

 彼女の心の重荷が、少しでも楽になればいいと思って、イシュマエルは言った。彼には魔法しかなかった。

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