間章 ある夫婦の話
その老人が海辺の小さな町に辿り着いた時、同じ船には二人の乗客がいた。一人は深くローブを被っていたが、もう一人の顔は見えた。全身黒ずくめの服を着た青年が魔法使いであるということを、老人のどこまでも透き通った瞳は見抜いていた。珍しいこともあるものだと老人は思った。魔法使いと出逢うのは彼にとってもとても珍しいことだった。
しかし向こうは自分のことに気が付いていないだろう。そしてその方がいいと老人は思った。
船が船着き場に着くと、老人は船を降りて『リーヨン』の町に入った。町には広場があることを彼は知っていた。
雪の降りしきる町の広場には誰もいなかった。老人は広場を囲うようにしておかれているベンチの一つに腰かけた。
☆
どれほど時間が経っただろうか。空はすっかり暗くなり、星が瞬いていた。雪は止んでいたが、ベンチから少しも動かなかった老人の身体には雪が積もっていた。それでも老人は微動にもしなかった。
やがて広場に一人の女性がやってきた。老人の瞳が女性を見据えた。彼女は濡れて乾ききっていない髪を払った。老人には彼女の全てを見通すことが出来た。彼女には五年前に結婚をした同い年の旦那がいた。子どもはまだいなかった。そして、彼女は先ほどまで夫とベッドの上でコトに及んでいたのだった。
夜の食事を終え、身を清め、神への祈りを捧げ、その日にするべきすべてのことを終えた時のことだった。ベッドに腰かけた妻の太ももに夫が手を伸ばしたのだ。甘い言葉をささやく夫に、妻は一瞬迷った。彼女は夫の誘いを断ることも出来た。けれど近頃は肌を合わせていないことを思い出し、彼女はそのまま夫に身を任せたのだった。
けれど彼女のカラダが夫の愛に本当に震えることはなかった。夫の愛に、彼女はただ恍惚とした表情を浮かべ、空洞の愛の言葉を呟いた。ベッドの上で彼女が夫に見せる仕草や表情は、全て演技で、見せかけだった。そうした見せかけだけで夫の自尊心は満たされ、満足するのだと彼女は思っていた。
結婚して最初の頃は、心から愛し合っていた。毎晩のように愛を語り合い、この幸せが一生続くのだと思っていた。一体いつから夫の愛に心が悦びを感じなくなったのか、彼女には分からなかった。特に夫に不満があるわけではなかったし、夫婦仲が悪くなったということもなかった。けれどはっきり言ってしまえば、そんなことは彼女にはどうでもいいことだった。夫では女の悦びを愉しむことが出来ない。それが問題だった。
だから彼女は夫が眠った後に、改めて身を清めて町に出たのだ。
広場には彼女より少し年下の男性がいた。彼女は男性を数言、言葉を交わすと熱い抱擁を交わした。夫とでは得られないものが、彼とならば得られると彼女は感じていたのだ。それは背徳に塗れた快楽だったが、夫への罪悪感があったのは最初に男性と身体を重ねた時だけだった。
「旦那さんはいいの?」
男性が訊ねた。彼女はくすりと微笑むと、男性の首に手を回し、首元にキスをした。
「さっき、
「ほんと? 悪い人だな」
そう言って、彼女たちは抱き合いながら広場から姿を消した。
けれど老人の瞳は、さらに多くのことも見透かしていた。彼女の夫もまた、別の女性――それは彼女の友人だった――と夜を共にしていることがあるということだった。夫が彼女を誘った理由も、彼女を愛しているというポーズのためだった。
二人が夜、ベッドの上で語り合った愛の言葉は、つまりはどちらも本物ではなかった。
そして夫と夜を共にした彼女の友人の旦那もまた、他の女性の下へと足を運び、夜を愉しんでいるのだった。
老人はどこまでも透き通った瞳を細めた。そして心から敬愛する神に思いを馳せた。
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