第一章 森の家
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イシュマエルが夢を見てからすでに一か月半の時が過ぎていた。その間に十ほどの町を見て回ったけれど、その中に彼の弟子になるものを見つけることは出来なかった。そして今、船に乗る彼の目の前には次に訪れる町が見えていた。薄い雲が漂う水平線の向こう側に徐々に浮かび上がってきた町の家々は屋根に雪をかぶっていて町全体が白くなっていた。町の奥にはモミの森が広がっていて、とても自然豊かで、のどかな町だなと彼は思った。
船が船着き場に着くと、船の先端と船着き場の脚をロープでしっかりと結び付けて舟が流れないようにした。そして人一人分の幅の木の板を船と船着き場に渡し掛けて乗客を陸におろした。船は小さな木の帆船で、乗っていた乗客はイシュマエルを入れて三名だけだった。イシュマエルは船頭に礼を言って船を降りた。
「この辺に宿はあるかな?」
「さあ、知らないねぇ。おらぁこの町のこたぁそんなに詳しくないもんで」
イシュマエルの質問に船頭は頭を振った。
「そうか。なら町の人を探して訊いてみることにするよ」
そう言ってイシュマエルは改めて町に向き直った。町の入り口には『リーヨン』という町の名前が掘られた看板があった。
「さて、この町には僕の弟子がいるのかな」
☆
町をしばらく歩いてみても、一人も地元の人とすれ違うことはなかった。同じ船に乗ってきた二人の人たちも気が付けばどこかへ消えてしまっていた。困ったなとイシュマエルは思った。このまま人と出逢わなければ失礼を承知でどこかの家の玄関をノックして手当たり次第に宿の場所を訊ねて回らなくてはならない。
そんなことを考えていると家と家の間の路地で雪遊びをしている子どもたちを見つけた。三人ほどの男女だった。
「やあ君たち。ちょっと訊ねたいんだけどいいかな?」
イシュマエルが声を掛けると、子どもたちは雪から顔を上げた。彼らの表情は怪しいよそ者を見るものだった。
「僕は今日この街にやってきたのだけれど、今晩泊るところが無くて困っているんだ。どこかいい宿を知らないかな? 知らなければ、知っているような大人の人を連れて来てもらってもいいんだけど……」
イシュマエルが言い終える前に、三人の子どもたちはすくっと立ち上がると、あっという間に彼の目の前から立ち去ってしまった。取り残された彼は頭を掻いた。
それからまたしばらく町を歩いていると、今度は道の反対側に明かりのともっている建物を見つけた。中からは大勢の人のにぎやかな話声が聞こえて来た。あそこでならきっと宿の情報が得られるぞとイシュマエルは思った。
その建物のドアを開けるととても香ばしいコーヒー豆を挽きたてる匂いが鼻をくすぐった。そこはコーヒーハウスだった。店内には六つほどの大きな丸テーブルとカウンター席があって、人々はその空いている席のどこかに座って、隣の人や同じテーブルをかこっている人々と頻りに会話や議論をしていた。
イシュマエルが店内に入ると一瞬だけ会話と議論の音が途絶えて静寂になった。けれどすぐに人々は話を再開した。彼はカウンター席に向かった。空いている席に腰かけた。カウンターを挟んで向こう側の店員が一度だけ彼を流し見た。けれど話しかけては来なかった。彼は「すみません」と言って店員を呼んだ。
「注文をいいかな」
「……何になさいますか。当店では様々な種の豆を取り揃えておりますが」
「悪いけど、僕はコーヒーが苦手なんだ」
イシュマエルは言った。
「紅茶はあるかな? 種類は何でもいいんだけど」
すると店員はカップに黒い液体を注いでイシュマエルの前に差し出した。それは最も苦い豆を使ったコーヒーだった。
「えっと……」
「申し訳ありません。当店ではそれしか扱っておりませんので」
店員は言った。イシュマエルは店員の後ろの棚を見やった。そこには紅茶の銘柄の袋も、種類は多くないが確かに在った。
「あれは違うのかな?」
「違います。ここはコーヒーしか置いておりません。コーヒーハウスなので」
店員が言うと店内のかしこでくすくすと鼻に掛けた笑いが聞こえた。店員の口元も微かに項を描いて歪んでいた。
「そうか。なら仕方がないな」
イシュマエルは言った。
「では教えてもらいたいことがあるんだけれど、いいだろうか。僕は今日、この町にやってきたのだけれど、今晩泊るところが無くて困っているんだ。どこかいい宿を知らないだろうか?」
するとイシュマエルの左隣に座っていた男が彼の肩を突いた。
「悪いな、あんちゃん。この町に宿はねえんだよ」
「それは本当ですか?」
「おうともさ。この町には滅多に人なんて来ないもんだからな。宿なんて気の利いたものはないのさ」
男は意地の悪い笑みを浮かべて言った。男だけではなく、この店の中にいるほとんどの人々が――店員も含めて――同じ笑みを浮かべていた。それは先ほどの子どもたちと同じ意味を持っていた。彼らは皆、よそ者であるイシュマエルのことを好ましく思っていなかったのだ。
けれどそれは旅をしていればよくあることだった。
「それは困りました」
イシュマエルは顎に手を当てて言った。
「では、どこか寝泊まりが出来そうな場所はご存じではありませんか?」
「川を上って森に入ってしばらくしたところに家が建ってるんだ。そこなら泊れるかもしれないぜ」
男は窓の外を指さして言った。そちらの方向に川が流れているということだった。
「ありがとうございます」
イシュマエルは言った。カウンターにコーヒー代を置いて席を立った。
「ではそちらに向かってみます。助かりました」
イシュマエルは店を出ると男性が指差した方へ進んだ。しばらく進むと確かに川が現れた。川はモミの森から海に向かって流れていた。とても澄んでいてきれいな川だった。彼は川を上流に向かって歩き始めた。
森に入るとすぐに町の灯りは見えなくなった。森の入り口はそれ程でもなかったが、奥に進むにつれてどんどんと雪深くなっていった。人が歩いていない雪原はきらきらと輝いていた。イシュマエルは雪がなくなった森のことを想像した。きっと多くの動物たちが雪解けとともに自然の恵みを求めて歩き回っているのだろう。その風景も見て見たいなと彼は思った。
もうずいぶん歩いたころ、ようやく森が開けた。丸く森が切り取られたようなその場所に、一軒の家が建っていた。町で見た家々と同じ、木組みの家はこの辺りで伝統的な建築様式だった。この家こそがコーヒーハウスで教えられた家に違いなかった。
けれど空き家というわけではなかった。外には薪割りの作業の途中である斧が置いてあるし、家には灯りがついて、煙突からは白い煙が昇っていた。
「ごめんください」
イシュマエルはドアをノックして言った。「は~い」と中から返事があった。ドアが開くと中から現れたのは一人の女性だった。彼女は夕飯の準備をしていたようでエプロンを付けていた。
「あの……どちら様でしょうか?」
女性が訊ねた。彼女は初めて見るイシュマエルの顔を訝っていた。
「初めまして。僕は方々を旅してまわっている者です。先ほどこの町に辿り着いたのですが、今晩泊るところが無くて困っていると、町であった人に森の中の家なら泊まれるかもしれないと言われてやってきました」
イシュマエルは言った。
「しかし見たところ、ここは宿ではないようだ」
「あんたは担がれたのさ」
そう声を発したのは女性の後ろから現れた男性だった。きっと女性の旦那さんだった。
「旦那さんですか?」
イシュマエルが訊ねると男性は頷いた。
「担がれたとは?」
「あんたも町の連中と話したなら感じただろう。連中はよそ者を嫌っているのさ。だから、よそ者が来ると嘘を言って町から遠ざけようとしたり、わざと辺鄙なところに追いやって町から追い出そうとしたりするのさ」
男性は言った。
「まあ、こんな町に来たあんたは運がなかったってことだな」
「それは、町を訪れる人すべてにですか?」
イシュマエルは驚いた。
「僕は色々なところを旅してきた。中にはよそ者である僕にいい感情を抱いていない町も数多くあったけれど、多くは口を利かなかったりする程度で、来る人来る人に嘘を言って町から追い出そうだなんて、そんな手間のかかることをしている人々はいなかった」
「この町じゃそれだけよそ者を嫌っているってことさ」
男性は肩を竦めた。
「あなた方もこの町の方ですよね? けれどあなた方は町の人々とはどこか違うようだ。あなた方はよそ者である僕に対して何も感じないのですか?」
「まあ……連中と同じだったらこんな森の中には住んでいないかな」
男性は苦笑を浮かべた。この人たちなら、一晩くらいなら家に泊めてくれるかもしれないとイシュマエルは思った。それに、ここから新たに宿を探すには空が暗くなり過ぎていた。
「では、そんなあなた方にお願いがあります。僕を一晩だけ泊めさせてはもらえませんか?」
すると夫婦は表情を曇らせた。
「ごめんなさい。それは、無理なの」
女性が言った。
「本当は泊めてあげたいのだけれど、これはあなたのためなのよ」
「それはどういうことですか?」
「わたしたち夫婦には娘が一人いるの。けれど娘はもう長いこと病を患っていて、お医者様も治す手立てがないとおっしゃっているのです。娘の病はどういうものなのかも分からなくて、他の人に感染するのかもわかりません。そんな娘がいる家に、あなたを泊めるわけにはいかないでしょう」
イシュマエルは二階を見上げた。室内の灯りに照らされた影が、窓に映っていた。そこに夫婦の娘がいた。
「……失礼ですが、お二人は大丈夫なのですか?」
「ええ。今のところは」
イシュマエルの問いに女性は頷いた。
「もっとも、わたしたち両親が娘を置いてどこかへ行くことなんて、出来ないでしょう?」
女性が言うと、男性が彼女の肩を抱き寄せた。この夫婦はこうして寄り添って生きているのだとイシュマエルは思った。
「やはり、今や一晩だけでも構いません。泊めていただけないだろうか?」
イシュマエルは言った。夫婦は驚いていた。彼は構わずに続けた。
「もちろん、ただでとは言いわない。泊めていただけたら、娘さんのために薬を調合しますよ」
「……あんたは、医者か何かなのか?」
「いいえ。医者ではありません。けれど、医者が知らない薬の調合を僕は知っています」
男性は訝るようにイシュマエルを見た。
「わたしたちの話を、聞いていましたか? ここに止まったら、娘の病がうつってしまうかも知れないんですよ」
今度は女性が訊ねた。
「多分、その心配はいらないと思いますけどね」
イシュマエルは答えた。
「お二人はもう長いこと、病を患った娘さんのそばに居るんですよね。そのお二人がご無事なら、きっと感染はしない類の病だと思いますよ」
夫婦は顔を見合わせた。イシュマエルを怪しむ感情と、彼の身を案じる感情が入り混じっているようだった。やがて夫婦は頷き合うと決断した。
「俺たちはもういろいろな医者を頼って、その度に手の施しようがない、原因が分からないと言われ続けて来た。町の祈祷師にも頼った。それでも治らなかった。これ以上娘に期待を持たせて、やっぱり治らなかったなんて思いはさせたくない――だから、あんたが娘の病を治す治さないは、娘には秘密だ。それでもいいなら、別に泊っていってもらっても構わない」
「それで構いません」
イシュマエルはおおらかに笑った。
「一晩、よろしくお願いします」
☆
夫婦は男性の名前がウィズリー、女性がクリスティーナというそうだった。娘の名前はサラだった。二人はイシュマエルに手料理を振る舞ってくれた。温かいシチューだった。サラは部屋から出ることが出来ないそうなので、いつも二階で食べているとのことだった。
シチューはとてもおいしかった。具材はすべてこの森で取れたものだった。
イシュマエルには空き部屋があてがわれた。布団のあまりはないそうだったので、毛布だけ借りることにした。
そうしてその日は終わった。
☆
翌日、イシュマエルが目を覚ますと、食卓には既に朝食が用意されていた。キッチンではクリスティーナが料理の後片付けをしていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
イシュマエルが言うと、クリスティーナは笑顔で応えた。玄関が開いて朝の巻き割を終えて帰ってきたウィズリーが太いため息とともに椅子に腰かけた。
「おお、起きたか」
ウィズリーがイシュマエルに気が付いて言った。
「おはようございます」
イシュマエルもそう答えて用意されている椅子に座った。
「随分と早いですね」
「まあな。この時期、薪割りは何回やっても足りないくらいに火を使うからな。なるたけ早く作業を進めないと、後々体力がなくなってへばっちまうのよ」
イシュマエルは目の前に用意されている朝食を見た。温かいスープとパンだった。このスープを温めるためにウィズリーの割った薪が使われていると思うとありがたみも増すというものだった。
「……この後、早速娘に合うのか?」
ウィズリーが少々重々しく尋ねた。薬の調合をするには、病を患っている娘であるサラのことをきちんと見て見なければならないということを昨晩のうちに伝えてあったからだ。
「はい。こういうのは早い方がいい」
「そうか……」
ウィズリーは短く呟いた。
「よろしく頼む」
ウィズリーは不安がっていた。そしてそれはクリスティーナも一緒だった。あまり期待しない方がいいということを彼らはよく知っていたが、それでもやはり期待してしまい、もしよくならなかったときのことを考えて不安になっているのだった。
食事を終えるとすぐにイシュマエルは夫婦と共にサラの部屋へと向かった。
「失礼するよ」
イシュマエルはドアをノックすると、部屋に入った。少女はベッドの上で横になっていた。本来なら美しい少女なのだろうその肉体は、痩せ細っていて、腕や足はとても細かった。顔色も優れていない。けれど少女の瞳はしっかりと部屋に入って来たイシュマエルの姿を捉えていた。
「あなたは、誰?」
弱々しい声でサラは訊ねた。
「僕はイシュマエルという。旅をしていて昨日この町に着いたのだけれど、停まる所が無くて困っていたところで、この家を見つけてね。一晩泊めてもらったんだ」
イシュマエルはベッドの近くにあった小さな丸椅子に腰かけた。
「そうしたら病で寝込んでしまっている娘さんがいると聞いたから、早く元気になれるようにこうしてお見舞いに来たんだよ」
少女はちらりと両親の姿を見やった。二人は娘に頷き返すと、彼女はようやく小さな笑みを見せた。
「私は、サラと言います」
サラは言った。
「いい名前だ」
イシュマエルは微笑み返した。
「寝込んでいる人にこんなことを訊ねるのもなんだかおかしな感じがするけれど、調子はどうだい?」
「……きょうは、いつもよりは少し、具合がいいかも知れないですね」
サラは身体を起こそうとして、けれど身体に力が入らなくて失敗した。
「無理をしない方がいい」
とイシュマエルは彼女を留めた。サラは、イシュマエルが考えていたよりもはるかに具合が悪いようだった。けれど医者でない彼にはサラの病の原因を特定することは出来なかった。そしてそれは、医者にも出来なかったことだった。
けれどイシュマエルには多くの医者や人々が知らない知識を持っていた。それは神秘に関する知識だった。
「きみはいつも、何をして過ごしているんだい?」
「本を読んでいます」
イシュマエルが訊ねると、サラはベッドの横に合った本を指さした。その他にも部屋の中の本棚にはたくさんの本が入っていた。
「パパやママが買ってきてくれた本なんです。後は、この窓から森とかを見ていますね。夜になると星がとても綺麗なんですよ」
「そうだね。それには僕も同感だよ。昨日、夜空を見上げてみてとても綺麗だったから」
イシュマエルは少女の具合や容態を大体確認し終えると、さらに数言を話して彼女の部屋を後にした。
「なにか、分かったのか」
一階に降りるとウィズリーが訊ねた。瞳は不安で揺れていた。
「僕は医者じゃないからね。彼女の病の原因は分からないよ」
イシュマエルは言った。
「けれど、とにかく出来ることをやってみるよ」
☆
夫婦の家からしばらく歩いた森の中にイシュマエルは立っていた。瞼を閉じて、木々の間を吹き抜ける風と、風に揺られる葉のざわめきと、近くを流れる川の流れと、森の中に潜んでいる動物と川の中を泳ぐ魚たちの命の鼓動を肌で感じ取っていた。意識が、自然に溶け合って、世界と一体化するような感覚に襲われた。
「僕の話を、聞いてほしい」
イシュマエルが言った。周りには誰もいなかった。けれど間を開けて声が返ってきた。
『話とは何だ?』
それは森の声だった。
「僕は一人の少女と出逢いました。その少女は病に苦しんでいます。僕は彼女を救いたいのです」
イシュマエルは言った。
「あなたはその少女のことをご存じだ。あなたの雄大な御身の中に、小さな家に住んでいる人間の一家がいるのをご存じでしょう。その一家の娘がそうです」
『あの娘のことなら知っている』
と森が答えた。
『あの娘はよく私のことを眺めて過ごしている』
「僕はその少女のことを病から救い出したいのです。しかし、それには僕一人の力だけでは足りないのです。あなたの力を貸していただきたいのです」
『残念ながら、私にはお前の望みを叶えてやることは出来ない』
森は言った。
『私は娘の病を癒すことは出来ない』
「しかしあなたはその雄大なる御身で、数多くの生命を生かしています。あなたは植物を育て、その恵みでここに生きる動物たちを生かしています。また、綺麗に澄んだ小川を流すことで、魚を生かしています。すべてあなたの力です。あなたの力はとても強大です。すべての命の源になることも出来るのですから。あなたの御身のどこかには、少女の病を癒すことの出来る力があるのではないですか?」
イシュマエルの言葉に、森は沈黙した。
『あるいは、そのようなものもあるのかもしれない』
やがて森が言った。
『しかし私にはそれがどのようなものなのか分からぬ』
「しかし、それが分かれば、あなたの御身のお力をお借りすることは出来ますか?」
『それは構わない』
森の言葉を聞き届けると、イシュマエルは森から別のものに向き直った。それは、どこまでも自由に吹き抜けることの出来る風だった。彼は自分と森の話を、風が聞いていることを知っていた。
「あなたは少女を病から救い出すことの出来る力の正体をご存じのはずです」
『なぜ私が知っていると思うのか』
風が言った。
「あなたは世界中のどこにでも在ります。風の吹けない場所はありません。あなたはこの世界中のあらゆることを誰よりもご存じのはずです」
『確かに私は世界中のあらゆるところに在る。行けぬところはなく、出来ぬことはなく、知らぬものもない』
風は威張るように吹いた。
『しかしだからと言って、何故私がそれをお前に伝えねばならぬのだ。風は自由なのだ。誰の指図も受けはしない』
「しかしそれでは、あなたはご自分の存在を感じられるものを一人失うことになります。それでもよいのですか?」
イシュマエルが言った。風は彼の言っていることが理解できないようだった。
『おまえは何を言っている?』
「風は確かに自由ですが、しかし同時に風を感じる者がいなければ、風は吹くことが出来ません。あなたはご自分が吹くことで揺れる木々や葉を見て、初めて自分が自由に吹き渡ることが出来るということを知っているのです。人も同様です。あなたは自由に世界を巡ることの出来ない不自由な人間を見て、初めて自分が自由の身であることを知るのです。人がいなければ、きっとあなたはご自分が自由の身であることを忘れてしまい、自由であることの幸せを味合うことが出来なくなってしまうでしょう」
『それとおまえの願いを聞き届けることは関係がない』
風は言った。
「いいえ。あなたは僕の願いに答え、少女を助けることに協力するべきです」
イシュマエルは頭を振った。
「何故なら、少女こそが最も不自由であり、風であるあなたの自由を最も理解しているからです。あなたはもう何度もこの地に風を運んできています。その度に窓から空を流れる雲を見つめていた少女のことに気が付いていたでしょう。そしてその度にあなたはご自分の自由を知ることが出来ていたのです。あなたがどこまでも自由であることを示していた少女が今、病に苦しんでいるのです。その少女のために少しくらい力を貸すことは、あなたにとってはたいした労力ではないでしょう」
『……』
風は黙ってイシュマエルの話を聞いていた。風にとって自由は自分自身であり、誇りだった。しかしそれを実感するには、確かに自由でないものの存在が必要だった。もし不自由な存在がいなければ、自分は自由を感じられず、自分が本当に自由なのかどうかも分からなくなってしまうだろうと風は思った。そして今、自分に語り掛けてくる不思議な人間の言う通り、風はこの町に吹く度に、森の中の家で不自由にしている少女のことを見て自分が自由であることを実感していた。
『確かに、少女がいなくなれば、私はこの町を吹く時に今まで感じることの出来ていた自由を感じることが出来なくなってしまうだろう』
と風は言った。そして風は森中に強く吹き荒れた。木々が激しく揺れて、たくさんの木の葉が舞った。
やがて強い風が収まると、風はその身に幾つかの草花を乗せてイシュマエルの掌に乗った。それは薬草だった。
『ここよりはるか東の地にある民族がいる』
風が言った。
『彼らは様々な草花をすりつぶし、薬にしているのだ。私はその地でおまえの少女と同じように苦しんでいる者を見た。その時彼らがその者に飲ませていた草花がこれらだった。おまえの少女に効くかどうかは知らぬが試してみるといい』
「感謝します」
イシュマエルは風と、恵みを与えてくれた森に感謝した。彼は魔法使いで、世界のあらゆる神秘を知っていた。そしてこれこそが魔法だった。
☆
イシュマエルは森の家に戻ると、早速すりつぶした薬草をサラに飲ませた。サラは最初こそ濃い緑色の謎の液体に抵抗を示していたものの、両親にも促されてようやく口にしたのだった。味はやはりおいしくないようで、終始渋い表情をしていた。
「これで、効果があるのか?」
サラのいない部屋でウィズリーが訊ねた。
「効果が表れるのはもうしばらくしてからだと思うよ」
イシュマエルは心配する父親にもう少し落ち着くようにと言った。
「なら効果があるか無いかが分かるまででもこの家に泊っていてくれ」
夫の言葉にクリスティーナも同意を示した。
イシュマエルも結果を見届けるまでは付き添う責任があるだろうと思い、彼らの言葉に従うことにした。
「では、そうさせてもらおうかな」
そのようにして、イシュマエルは今晩もこの一家の家にお世話になることとなった。
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