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 サラはこの三日間、自分が本を読んでいないことに気が付いた。それは今まででは考えられないことだった。身体が弱く、家に籠っている彼女の楽しみといえば読書くらいしかなったからだ。けれど今の彼女には読書よりも多くのことを彼女に教えてくれるかもしれない楽しみがあった。イシュマエルと瞑想をすることだった。

 イシュマエルはいつも切り株の上で瞑想をしていたが、サラが共に時間を過ごすようになってからは家の中の暖炉の目の前で瞑想をするようになっていた。

イシュマエルの隣に腰を下ろした。暖炉のオレンジ色の炎に顔を照らされている、彼の横顔を見つめた。瞼を閉じる表情は真剣そのものだった。

 サラもそれをまねて瞑想をして見る。椅子の上で足を組み、背筋を伸ばして瞼を閉じた。瞑想をすれば世界の多くのことが見えて来ると魔法使いの青年は言った。しかしこの三日間、彼女は瞑想をしてみたが、心に浮かぶのはどこまでも広がっていく暗闇だけだった。やがて彼女自身も暗闇に飲み込まれてしまい、世界の何をも感じ取ることなどできはしなかった。そして今日もまた、彼女は瞑想を中断して瞼を開けた。

 横ではまだ、イシュマエルが瞑想を続けていた。この行為に一体どんな意味があるのだろうかとサラは思った。彼は魔法使いの考え方を教えると言ったけれど、魔法使いとはこんなに何の変化も起きようがない日々を過ごしているものなのだろうか。教会の神父様の方がより生産的な日々を過ごしているように彼女には感じられた。神父様は毎日聖書に書かれていることを勉強しているのだから。

 この瞑想をしていて、あなたは何を得たの? と訊ねようかとサラは思った。けれどそれは意味のないことだと思ってやめた。無意味だと思っていれば、イシュマエルも瞑想などやってはいないだろう。きっと私には理解できない意味があるのよ。それはきっと魔法使いにしか理解できないことなんだわ。

 瞑想を始める前は、楽しみに満ちていた。今日こそはなにか素晴らしい発見があるかも知れないという期待があるからだった。けれどそれはすぐに今日もダメだったという落胆に変わるのだった。そうして落胆はサラにこの行為に意味があるのかと告げるのだった。

 そういった感情はサラに瞑想をつまらないと感じさせた。

 窓の外を見ると、最近は降っていなかった雪が再びちらついていた。モミの木々の間に、動く白い物体を見つけた。最初は地面に積もった雪と同色で一体何なのかすぐには分からなかったが、長い耳が揺れ動くのが見えて正体を知った。うさぎだ!

「どうかしたのかい?」

 サラの気配の変化に気が付いて、イシュマエルは瞼を開けた。

「あそこに、うさぎが」

「あぁ、本当だ」

 イシュマエルが窓の外に見入っている間に、サラは服を着こんで家の外に飛び出した。うさぎを見つけた場所まで駆け寄った。けれどその頃には既にうさぎはその場にいなかった。

 雪の積もった森の中には人の足が殆ど踏み入っていないので、まっさらだった。その上に四つの小さな足跡をサラは見つけた。うさぎの足跡だった。彼女は足跡を追いかけた。

 雪はサラの足首ほどまで積もっていたので、歩くのにとても苦労した。元々家に籠りきりだった彼女の体力はすぐに無くなって、近くの木に手をついて乱れた呼吸を整えた。

「大丈夫かい?」

 後を追いかけて来たイシュマエルが、サラの姿を見つけて言った。

「突然外に出るものだからびっくりしたよ。きみはもっと自分の具合を考えるべきだ。病はまだ治ってはいないんだから」

「別に、これくらいなら平気よ」

 サラは言った。絶え絶えの呼吸ではあまり説得力はなかった。

「箒に跨って空を飛んだくらいだもの。死にそうな病人にはとてもできないことでしょ?」

 イシュマエルは困った。サラの表情はまだうさぎを追いかけるつもりだった。そして彼女はこういう時、頑として自分のやりたいことを譲らなかった。

「じゃあゆっくり行こう」

 イシュマエルは言った。

「どうせ足跡はついているんだ。見失うこともないさ」



    ☆



 二人はしばらくの間、森の奥へと続く足跡に従って森を彷徨った。やがて今まで規則正しく並んでいた足跡が突然乱れた。よく見るとうさぎの足跡とは一回り二回り大きい足跡が周囲に散らばっていることに気が付いた。純白の雪の上には赤い斑点が飛び散っていた。

「この足跡は、多分キツネだ」

 イシュマエルは新たに加わった足跡を調べて言った。サラは悲痛な面持ちで雪についた血を見つめていた。

 狐の足跡はさらに先に続いていた。サラはそれを追いかけ始めた。さらに少し進むと、嵐でなぎ倒された木が幾重にも重なり合って倒れている場所に出た。木のすぐ下には雪が掘ってあり、そこがキツネの住処だった。

 サラは周囲を見回した。そして少し離れたところに黄金色の毛皮のキツネを見つけた。口には力なくぐったりとしているうさぎを咥えていた。

 キツネは二人の存在など意に返さずに、自分の巣穴へと駆けて行く。すると巣穴から三匹の子ぎつねが母親の帰りを出迎えた。

 子ぎつねたちは母親が狩って来たうさぎに、我先にと食らいついた。母親はその様子を近くに腰を下ろしてじっと見つめていた。

「自然って……なんて残酷なんだろう」

 サラは呟いた。眼の前ではうさぎの皮が食い破られ、肉が骨から噛み千切られていった。

 イシュマエルはその時、唐突になにかを理解した。それはキツネの親子の間には愛があるということで、先生とサラの質問に対する答えを彼に教えてくれた。

「残酷か。確かにそうかもしれない」

 イシュマエルは言った。

「けれどそれ以上にこの世界は愛に満ちているということを、僕はたった今理解したよ」

「……どういうこと?」

「あのキツネの親子の間には愛がある。それは親が子に向ける愛であり、子が兄弟同士に向ける愛だ」

 イシュマエルは森を見渡した。鳥や、虫や、花や、魚や、木々といった生命で森は満ちていた。

「そしてその愛は、神様のご意思によるものだ。神様のご意思とは、愛するということなんだ。神様が世界を愛するから、人間や、動物や、この地上に存在しているありとあらゆるものは、愛することが出来るんだ」

 花が咲く理由もまた同じだとイシュマエルは思った。花が咲けば、花の蜜を求めて蜂や蝶などがやってくる。それらは花の蜜が無ければ生きることが出来ない。神様は世界を愛していて、それは蜂や蝶でも変わることはない。彼らを愛する神様の意思が、彼らを生かすために花は咲くのだ。

 花の蜜を得て生きた蜂や蝶もいずれは死を迎える。死骸は土へと還り、新たに花が咲くためのエネルギーとなるのだ。それもまた、神様が花を愛しているからだった。

「キツネの親子もいずれは死を迎え、土に還る。そこには草花が生え、新たにうさぎを育てる糧となる。すべては神様の愛が世界のありとあらゆるものに向けられているからだ」

「……それじゃあ、うさぎは死んでもよかったの?」

 サラは訊ねた。彼女は狐に襲われるうさぎの恐怖を想って長いまつ毛を震わせた。

「死んだ方がよかったなどと言うつもりはないよ」

 イシュマエルは答えた。

「きっとうさぎも、自分の死を感じて恐ろしかっただろうね」

「それじゃあ、あなたがさっきから言っている話はおかしいわ。だって神様がうさぎを愛していたなら、きっとうさぎを殺すようなことはしなかったはずよ」

「死が恐ろしいというのも、愛があるからだよ。きっとうさぎにも愛する子どもがいたのかもしれない。もしくは将来、よき伴侶を見つけて、愛する子ども産んでいたかもしれない。そういった愛するという行為を、死は奪って行く。愛を奪われることは、それは恐ろしいことだろう。だから死は恐ろしいのさ。現在と未来の愛を奪うものだから」

 イシュマエルはサラがきちんと理解できるように、少し間を開けた。

「けれど、そこに限っては神様の意思はないように思えるよ。なぜなら、キツネがうさぎを狩るという行為も、うさぎがキツネから逃れるという行為も、全ては等しく神様の愛によって行われる行為だからだ。ゆえに、神様が世界を愛した結果の表れとしてうさぎがキツネに狩られたとしても、それだけでうさぎが神様に愛されていなかったという理由にはならないよ。そういう意味で、神様の愛は平等なのだと僕は思う」

「……人間も?」

 サラは少しばかり低い声音で尋ねた。彼女の瞳は、家に押し寄せてきた町の人々が持っていた松明の灯りを映していた。

「人間も神様の愛によって生きている」

 イシュマエルは答えた。

「根本のところでは動物も人間も変わりはしないんだ。神様の愛によって生かされ、僕らは必ず何かを愛している。それは家族や恋人であるかもしれないし、自分の人生や生き方そのものを愛しているのかもしれない。そして誰もが皆、愛を奪われることを恐れている。それは恐怖となり、恐怖は激しく人を突き動かすものだ。ただ、その恐怖に対抗する手段として、動物とでは比べ物にならないほどの手段を持っているということだよ。きみは訊ねたね。なぜ人は争うのかと。その質問に今なら答えられる。人は愛するものを失うかも知れないという恐怖に突き動かされて争うのさ。愛するものを失わないように、恐怖に徹底的に対抗するために争うんだ」

「……それが、神様の意思なの?」

 サラは言った。彼女は悲嘆に暮れていた。

「そんなのってないわ。だって、それじゃあ私たちは神様の愛によって争うように運命さだめられているようなものじゃない! あなたはさっき、この世界は愛に満ちていると言ったけれど、これじゃあ愛じゃなくて呪いだわ」

 もし、これが魔法使いの考え方というのなら、魔法使いは私の救いにはならないとサラは思った。自分がどんな答えを期待していたのか、彼女は自分でも分からなかった。ただ、どうしようもないやるせなさだけが身を包んだ。

 イシュマエルは何も言わなかった。彼は自分の用意した答えがサラの求めるものではないことを理解していた。彼女の求める答えも分かっていた。彼女は自分が攻撃を受ける理由がないことを証明し、彼女を襲った彼らにも納得しえる理由があるということを知りたかったのだ。

「神様はただ世界を愛しているだけに過ぎない」

 イシュマエルは言った。

「恐怖を前にどう行動するかは人間の手に委ねられている。前にも言っただろう。恐怖は人の心を曇らせ、神様のご意思を人々に聞かせることが出来なくなると」

「そんなの……理由にならないわ」

「なぜ?」

「実際に傷つけられた人にとっては、そんなことはどうでもいいんだから!」

 サラはそんな言葉が出たことに自分でも驚いた。それ以上言葉を続けることは出来なかった。彼女は自分の行動にひどく動揺して、その場から逃げ出した。対してイシュマエルの口元は微笑を湛えていた。

 彼女は今、自分の心に初めて気が付いたのだ、とイシュマエルは思った。自分の心を深く知るということは、魔法使いにとって大切なことだった。それは魔法使いの考え方を学ぶという点においても同様だった。

 これは彼女が通らねばならない道だった。

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