10.手配

リョートの前に、白い光が落ちてきた。初め、リョートは季節外れの雪でも降って来たのかと思った。しかし手を伸ばすとそれは温かい羽だった。そしてその光が人の形を成した時、光が弾けた。リョートは思わず手をかざして、目をかばった。そこに立っていたのは、リョートですら目を奪われるほどの美少年だった。透き通るような白い肌に、青い双眸。長くまっすぐに伸びた金髪を一本に束ねていた。背中から純白の羽が一対生えていた。


「……天使、だと?」


一瞬言葉をなくしたリョートが、目を見開いて思わず尋ねる。先ほど不在だと確信した神の使いが、目の前に現れたからだ。驚きのあまり、リョートの涙はすっかり止まっていた。おそらく、一人きりの牢の中だからこそ、リョートは狼狽することができた。自分の力だけで事を推し進めて来たリョートにとって、神は信仰の対象ではなかった。ただの夢物語である。文献などを見るにあたって、豊かでない者ほど神と言う漠然とした存在に頼り、願が叶わない者ほど神に懇願し、罪深き者ほど神に救いを求めたのだと、リョートは考えていた。しかし、ここに来て天使と出会ったリョートは、その考えを否定されたことが信じられなかった。


(まさか、これが、今まで私が身を粉にしてきた故の奇跡などと言うまいな?)


対価、という言葉がリョートの中に浮かんだ。自分が努力してきたことに対して、神が対価を支払うために、天使を使わした。それならば、いくぶん納得できそうだった。


「私は貴女を救うために遣わされました。名をラサルと申します。どうぞお見知りおきを」


天使は慈悲深い笑顔で言い、一礼した。天使にも名前があるのか。


(ラサル)


心の中で唱えてみても、今まで見てきた文献に載っていた記憶がない。天使には階級があり、主の戦力、または兵力だという記述なら、どこかで見た。しかし、この中性的で線の細い少年が、それらに当たるとは、到底思えなかった。


「私はリョートという。して、なに用か?」


ラサルは含むように笑い、「存じております」と言ってまた一礼した。


「さっそくですが、救出策を提案させていただきます」


「救出策? 私のか?」


「さようにございます」


「天使は知らないのか? 私の容貌はこの国では目立ちすぎる。ここから出るのは不可能だ。こうなってしまった今、私にできることは、潔く散ることのみだ」


「カーメニなど、いかがでしょうか?」


リョートの言葉を無視するように、ラサルは逃避先として西の大国はどうかと尋ねた。それはリョートにとってまたとない機会だった。生きられるということ以上に、女王としてではなく、一研究者としてその提案にそそられる自分がいることに気付く。リョートにとって、女王という立場はやりがいがあること以上に、重責だったのだ。しかし西に行けばもう自分は女王ではないし、自由がある。


「亡命という形で、東側の情報提供と引き換えに西に助けを求めます」


「しかし私の顔は国中に知れ渡っている。逃げ切れるとは思えない」


リョートが間髪入れずに答えると、ラサルは一拍おいてゆっくりと話す。

「大丈夫です。私が貴女の替え玉を用意しましょう」


「替え玉?」


「世間で聖痕の娼婦と呼ばれている女性をご存知ですか?」


「いや、聖痕を持っているのに娼婦なのか?」


何だか、ちぐはぐな呼ばれ方だとリョートは思う。リョートとて、巷にあふれるすべての情報を掌握しているわけではない。まして、自身が打ち捨ててきた旧都の売春宿のことなど、政務とかけ離れた話題を耳に入れるほど、暇ではなかった。それだけリョートの政務に対する姿勢は真摯で情熱的なものだったのだ。

暗い牢にリョートの声だけが響いていた。女王の牢ということで、配慮がなされた。通常の魔女狩りで処刑される者たちの牢はすし詰め状態だったが、リョートの牢は最低限の生活空間が守られていた。牢の先に戸があり、その戸にしか番兵はついていなかった。そのため、リョートの個人的な最低限の生活も守られていた。


「そうです。その娼婦が貴女そっくりなのですよ。まさしく、主がお与えになった奇跡。その娼婦を身請けしてしまえば、簡単に事は運びます。その娼婦はリョート女王として処刑され、貴女は西で第二の人生を歩むのです」


「そんなに簡単にいくのか?」


天使を前にしてもリョートは現実的で、対等に渡り合う。そんなリョートに、ラサルは薄く笑った。聖痕を持っていようといまいと、リョートにとってはたかが娼婦だ。そんな女に、自分の真似ができると思えなかった。女王でないとすぐにばれてしまえば、万事休すだ。リョートは捜索され、すぐに見つかってしまうだろう。そしてその娼婦と共に火あぶりだ。


「私が全て手配いたしましょう」


天使は笑顔のままその場から掻き消えた。それは蝋燭の火が消えるような消え方だっ

た。リョートはその後、囚人として屈辱的な日々を耐えた。ただそこに、机と椅子、紙とペンが用意されていることが唯一の救いだった。リョートはそれらを使って、必死に「自分」がやるべきことを書き綴った。

 しばらくして、大臣が数人の兵を引き連れて、リョートが捕えられている牢へやってきた。勝ち誇ったようなその大臣の表情に、リョートの疑念は確信に変わった。


「やはり、貴様か!」


リョートがそう言ってにらみつけると、大臣は白々しく首を傾げて見せた。


「なんのことでしょう? 私は御心配申し上げているからこそ、こちらに参ったのです」


大臣はひょうひょうとした様子で、笑っていた。その目を、リョートは知っている。人を見下し、蔑み、勝利を確信した目だった。今まで罷免してきた者の中にも、こうした抵抗できない者を虐げて喜ぶような者が何人かいた。リョートの一番嫌悪していた目だった。


「満足か?」


リョートは震える小さな声でつぶやいた。


「え、今何と?」

大臣はわざとらしく手を耳に当てる。


「満足かときいているのだ。王はまさしく茨の道を歩む者。それなのに貴様らは大きな勘違いをしている」


「ほうほう。勘違いとは?」


「王は権威と権力、孤独と痛みを持って世を治めねばならない。それなのにお前たちは権力と権威にしか目を向けていない。痛みと孤独に耐えられぬならば、早急に私を解放することだ」


「知っていますよ、そんなことは。あなたを見れば火を見るより明らかだ。だから我々はあなたを解放して差し上げたのですよ。その、孤独と痛みから、ね」


大臣はにんまりと笑った。とても満足そうに、顎をさすりながら。


「化けの皮がはがれたな」


「猛獣と言えど、檻の中であれば恐ろしくはないですなぁ」


大臣は高笑いした。


「その孤独と痛みに気付いてからでは遅いのだ。その時には民衆がその何倍もの苦痛を強いられている。それも弱い者から順番に、だ!」


「さすがですな、陛下。我々もその精神を受け継いでいきます故、どうぞ安らかにお逝き下さい。けして、我々を恨んで下さいますな」


「貴様!」


リョートは牢の柵にしがみつくようにして叫んだ。柵が、がしゃんという金属音をたてて、大きく揺れた。


「おお、怖い。石にでもされたら大変だ」


そう言って大臣は再び高笑いして、わざとらしく身を引いた。大臣の護衛についていた兵たちは何の反応も示さなかった。それが、リョートに対するせめてもの償いだというようだった。


「おや、何かお書きになっておいでですな。まあ、良いでしょう、あなたは筆まめな人です。我々からの最後の贈り物ですよ。存分にお書きになって下さい」


大臣は不躾に牢の中をのぞきこむ。


「ああ、でも、最期の最後で生き恥をさらすことはやめて下さい。ああ、涙の一つも浮かべて命乞いをするなら許せる罪もあったものを。嘆かわしくも陛下に至っては女の武器をお持ちではないようだ」


そう言い残して、大臣は去って行った。それはリョートにとってとてつもなく屈辱的な言葉の数々だった。女の武器としての涙など、最初から持ち合わせてはいない。命乞いもまた、リョートにとってはあり得ない行為だった。そんなことができるか弱い女とは、リョートの精神はかけ離れている。だからこそ、今まで玉座にいられたのだ。その精神を、父親のコネで入場した男に踏みにじられる日がこようとは、思ってもみなかった。リョートは血がにじむくらい拳を握りしめ、歯を噛みしめた。そして、自分が書いている紙に目を落とした。こんなことで、いちいち腹を立てている場合ではない。早く書き上げなければ、とリョートはじわりと汗をかいていた。それは久しぶりに心にともった、焦りからくるものだった。

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