聖痕の娼婦

1.姉妹

薄着の女は猛吹雪の中を懸命に歩いた。時折吹きつける風が積もった雪を舞い上げ、視界を真っ白に覆った。足の感覚はもうすでになくなっていた。背中には四歳の長女を背負い、両腕にはまだ生まれたばかりの次女を抱いていた。吹き付ける雪が女の体温で溶け、水になってすぐ凍る。凍った部分はまた体温で溶けて水となって女の体を濡らし、徐々に女の体温を奪っていく。ただ毛先だけが、凍ったまま吹雪にもてあそばれている。


(私はどうしてこんなことを)


母親は不意に思い、雪の塊に足を引っ掛けて前のめりに転ぶ。何とか次女を守りきり、安堵の息を吐く。その息も真っ白だ。それを見た母親は涙を流した。


(私は何故こんな時に、こんなことを)


こんなに寒くて冷たい夜に二人の娘を捨てに行くなどという馬鹿なことをしている。どうせ捨てる命なのに、母親は今、身を挺して次女を守った。行動と想いが矛盾している。


「お母さん、大丈夫?」


背中の長女・シャクヤが問いかける。


「私、歩く」

「いいのよ、シャクヤ。おとなしくしていらっしゃい」

「駄目よ。リョートに何かあったら大変だもの」


リョートは次女の名前だ。シャクヤは母の制止もよそに、もぞもぞと背中で動き始めた。そしてようやく、シャクヤは冷たい雪の上に足をつけた。その瞬間、シャクヤの足元で、ガラスの粉を踏みしだいたような音がした。足元から、冷気が遡ってきて、シャクヤの脳天を突き抜けていった。シャクヤの足は裸足だ。


「シャクヤ、靴を履きなさい。足の指が壊死してしまうわ」


母親はそう言って、自分の古びた靴をシャクヤに履かせようとした。しかし、それを拒むように、シャクヤは一歩下がった。


「私なら大丈夫。それよりリョートに怪我はない?」


シャクヤは妹の顔をのぞきこみ、「良かった」と白い息を漏らした。その吐息は紫煙のように、顔に纏わりつく。

 シャクヤの額や手の甲、脇腹には生まれつきはっきりした痣がある。一方のリョートはほくろ一つないきれいな顔をしていた。シャクヤはそれを、とても尊いものだと思った。


「お母さん、行こう」


シャクヤは自分の母親の手を引いた。まるで、自分がこれからどこに連れて行かれるのかを知っていたように。


「シャクヤ、お前……」

「お母さん、私たちならきっと大丈夫だよ。私たちならきっと幸せになれるから」


シャクヤは白い歯を見せて笑い、母親の手を引いたまま、雪道を裸足で歩き始めた。その姿を見て我に返った母親は、しっかりとした足で、歩き始めた。


(もう後には引けないのに、娘に甘えてどうする)


母親は片手にリョートを抱き、もう一方の手でシャクヤを抱いた。

 そして、安宿のようなところで足を止めた。入り口の上で、看板がカタカタ鳴っていた。大きな鎌に翼が生えたようなそれは、「首狩天使」を表わす商業者マークだった。

 首狩天使とは、文字通り人の首を狩ることを生業とする天使のことである。主の命により、天に背く行いを罰するために首を狩り、自分の従者とする。常人の生き方から逸脱した人々は、死後も天国にも地獄にも逝くことができず、首狩天使のもとで労働の義務を負うのだ。この首狩天使の名を、アスコラクと言った。

 

 ある冬の夜の出来事だった。吹雪の中、子供二人を連れたみすぼらしい女がそんな売春宿を訪ねた。三人は質素な服を着て、女の手は節くれだって汚れていた。洗っても落ちない類の、長年の作業で染み着いた汚れだ。頬がこけ、髪には白髪が混じっている。その女は、職業の性質上、内部飽和を起こすため、国々を渡り歩いているティンカーだった。

 部屋の天井につるされたランプ一つだけが明り取りになっている。部屋の隅には闇とも汚れともとれる黒いものがこびりついていた。ランプが風に揺れると、影を大きくしたり小さくしたりを繰り返した。外観の割に広く感じられた。奥行きがあるのだと今さらながらに思う。暖炉の火が部屋を暖めていて、凍りそうな女の体も温まるが、氷が解けてずぶ濡れになるだけだった。女の体は寒さに震え、爪や唇は紫色に見えた。寒さのあまり歯がかみ合わず、カチカチと音を立てていた。

 中にはベッドがいくつもあり、一つのベッドに一人ずつ女が寝そべっていた。皆妖艶ではあるが、一目見ただけでも人種はバラバラで、健康そうには見えなかった。女たちは冬だというのに体の線が良く見える薄い服しか来ていなかった。逃亡防止なのだとすぐに気付く。女たちは虚ろな目をしており、そんな目で母子に一瞥をくれたが大した興味は示さなかった。「ああ、またか」とでも言いたそうな一瞥だった。母親が開けっ放しにしている戸から寒風と雪のせいで部屋の温度が下がったためか、女たちは布団の中にもぐり込んだ。カウンターというにはあまりに小さい机に、一人の女が座っていた。机の上には小さなランプがあり、女の手元にある小銭をチラチラと照らしていた。


「お願いがあります。この子たちをここで雇ってはくれませんか?」


ティンカーの母親は痛切な声で言った。

 母親はそこに足を踏み入れられないままでいた。戸を早く閉めるべきなのに、そうしたら二度と引き返せないのだと思うと、戸を閉めることさえできなかったのだ。背後では母子を食い散らかさんとする狼の鳴き声にも似た風が、猛り狂っていた。夜の闇が雪と一緒に、母親の背中を押しているようでもある。

 でっぷりと太った女は肩肘を机に着いたまま顔をしかめて怒鳴った。


「さっさと閉めな。風邪でも引かせたら商売にならないじゃないか」


女店主の剣幕におされ、母は戸を閉めて売春宿に足を踏み入れた。どっと後悔の念に襲われるが、この子たちが生きていけるのはここしかもうないのだと思うと、肩の荷が軽くなったような不思議な感覚になった。そんな母親の様子に、店主は鼻を鳴らした。


「どっち道、ここに来るしかあてがなかった。そうだろ? だからここに来たんだ」

「はい」


消え入りそうな声で、母親は返事をした。目には涙が浮かんでいた。

二人の子供は姉妹だった。二人とも美しく、波打つ黒髪に灰色の瞳をしていた。その瞳はガラス玉のように澄んでいた。この二つの特徴も、白い肌も、母親の特徴を受け継いでいた。しかしもう母親の髪は糸くずのようにつやがなく、瞳の色もくすんでいた。一方の姉妹は澄んだ瞳で女店主を見つめていた。上の子供には手に痣があり、額にも点々と針で刺したような痣があった。売春宿の女店主は事情を悟った。おそらく長旅と貧しさからやむなく子ども二人の食いぶちを減らすしかなかったのだろう。しかし殺すのは忍びなく、この売春宿を見つけた、というところに違いない。女店主は値踏みするように二人の子供とその母親を見た。身体的特徴を母親から受け継いでいるならば、将来二人の子供は母親と似た体形になる確率が高い。今の母親は濡れた服を着ているため、一見して体型が分かった。貧しくない家庭に育ったなら、美しい女だ。きっとこの姉妹も成長すれば美しい女になるだろう。しかし、ただ美しいだけでは娼婦にはなれない。

女は、長年の勘を頼りに姉のシャクヤだけを引き取ることにした。


「何故、リョートは駄目なんです?」

「そいつはここで納まる器じゃないんだよ。預かっても男の相手なんかしない質で、引き取っても自分でここを出て行くよ。それに、まだ赤ん坊じゃないか。客をとれるようになるまで、一体誰が育てるんだ?」


赤ん坊は泣きもせずに女店主をにらんでいた。まるで、自分のいるべき場所はここではないと言いたそうな顔をしている。女店主はまた鼻を鳴らした。

人間には、特に女には運命の流れに従う女と逆らう女がいるということを、女店主は知っている。それを見分ける目には自信があった。娼婦に必要なのは前者だ。昔ながらの風俗を重んじ、男より女が劣っていると感じている。上下関係にも敏感で、おとなしい。だから店主に逆らったり、逃げようとしたりすることもない。一方後者はまるで娼婦には向いていない。そういった意味ではこの姉妹は外見こそ似ているが、正反対の性質を持っている。


「でも……」


言いよどんだ母親の足元で、ジャリンと金属の音がした。


「教会にでも預けてくることだね。あとは知ったことじゃないよ」


女店主はティンカーの女にはした金を投げつけ、タバコをふかしていた。紫煙が複雑な形を作って宙をたゆたった。女店主はその煙を払うように、母親に向かって手を突出し、野良犬を払うようなしぐさをした。


「ほら、用が済んだらその子置いて出てっておくれ。商売の邪魔だよ」

「はい」


母親はリョートを抱いたままひざまずき、シャクヤと同じ目線になってシャクヤの頬を真っ赤になった手で愛撫した。


「シャクヤ、元気にしていてね」


ティンカーの女は涙を拭きながら、シャクヤの頭を撫でて名残惜しそうにその場を離れて行った。シャクヤは一度うなずき、母が出ていくのを見て、手を振った。そして女店主にシャクヤは向きなおる。


「よろしくお願いします」


一人残されたシャクヤはそう言って頭を下げた。女店主はただタバコをふかしながら、片方の眉をあげた。さすがは姉妹だ。妹の方は気品があり、度胸も据わっているとふんだが、妹もなかなかだ。別れ際に母親に泣きつくこともせず、今見たばかりの女を怖がりもしない。まだ四つとは思えない肝のすわり方をしている。自分がここでどうやってでも生きるのだという覚悟を決めた目をしている。


「こりゃ、私の目も鈍ったもんだ」


女店主は自嘲気味につぶやいた。




 この出来事から二十年がたった。

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