2.忘れがちな
アスコラクは人の姿をとってマスハにいた。アスコラクは人間の姿をしている間、他の人間の記憶に残らないという、この仕事をする上で都合のいい性質を持っている。アスコラクはその職業上、「死神」や「最下層の天使」という不名誉な呼ばれ方をすることもあるが、本人はたいして気にしていなかった。もともと「忘れがちな天使」という評判もあったし、アスコラクが何かに心を動かされるのは極めて希なことだった。もちろん、アスコラクは死神でも最下層の存在でもない。
マスハはリョートという女王が君臨する芸術の都。今までの東側の大国にはなかった発想による街造りがなされ、人々は謎多き女王に熱狂していた。マスハはリョートの宮殿を中心に、放射状に石畳の道が整備されていた。そして一本一本の通りには、著名な作家や音楽家の名前が付けられていた。国としては北に位置するエルだったが、マスハはエルの中でも南の方に造られた町だ。そのため四季があり、夏にあたる今は晴天を見ることもできる。今日は運よくその晴天の日だった。
(何故、私はここにいる?)
アスコラクは紺碧の天を見上げてそれを問う。もちろん、答えはない。
アスコラクは今回、誰の首を刈れとか何かしろとか、そういった指示を一切受けていなかった。
いつもなら、首を狩る標的の名前と、その情報が与えられ、その標的がいる場所に降ろされていた。ところが今回は誰が標的なのかも、標的がどこにいるのかも分からないまま降ろされた。エルは世界一の国土面積を持った大国だ。この広大な国の中に標的がいるとするならば、捜索は困難を極めるだろう。
(やるべきことを自分で探せ、ということだろうか?)
しかし天界から降ろされたのには何か理由があるはずだ。アスコラクには珍しく焦りがあった。それは使命感から来る焦燥だった。
白く美しい石橋にたたずみ、ゆっくりと流れる川の水を見る。小魚が泳いでいたり、木片が流れてきたりした。それらを見てもアスコラクの心は落ち着くことはない。平和を謳歌する人々が行き交う道。男女が時折、お互いにもたれかかるようにして歩いていく。にぎわう沢山の店。統一された赤レンガの店は、どこもかしこもランプの淡く柔らかな光が漏れていた。時折、その中から人々の笑い声が聞こえていた。ここが東の大国だということを忘れさせるほどの平穏。旅人(多くは巡礼者)のために食べられる果実が実をつける街路樹。
表情には出ないものの、それらすべてがアスコラクを苛立たせた。
(何かをすべきだ。しかし何を?)
アスコラクは人が言う性別の概念を超越した存在の天使である。そのためアスコラクは自分の意志で女にも男にもなることができた。そうやって女や男の姿をとってマスハの中を動き回ったアスコラクだったが、何の手がかりも得られなかった。それもそのはずだ。全く初対面の人間に、「この辺りで不穏なことはないか」などと聞かれれば、誰でも気味が悪くなって逃げていくのが当然である。しかしそんなことに気付けないほど、アスコラクは必死だったのだ。
マスハの道は全てではないが、西の多くの都市がそうであるように、石畳が敷かれていた。アスコラクはコツコツと音を立てながら、マスハの道を歩き回った。まさに靴の底をすり減らしながらの、毎日の移動だった。
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