5.懺悔室

アパスはついに深層にたどり着いたとばかりに、身を乗り出した。いつの世でも、どこの地でも、政治のしわ寄せが最初に現れるのは、最下層の人間に対してであることをアパスは知っていた。だから社会的周縁にいて、もっとも常人から忌避される職業に就いている売春婦を、調査対象にしたのだった。いかに豪華絢爛に見える社会であっても、どんな強国であっても、歪は弱い者から順番に襲ってくる。

 ベッドが軋んで、ギイ、と音を立てる。シーツがアパスの手に引き寄せられ、衣擦れの音になる。今度こそ目を伏せたシャクヤが、大きく溜息を吐く。これで、二人の静かな情事は完成する。


「私たちは職業柄、懺悔室をよく利用するんだけど、その懺悔室で関係を求められることが頻発しているの」


懺悔室は神父と売春婦だけの密室だ。懺悔をしないと罪はその人の身に堆積していくと東では考えられていたため、特に罪深い職業とされる娼婦たちは、死後を案じて定期的に教会に通い、懺悔を行っていた。そこを神父たちに利用されたのだ。シャクヤは懺悔室を利用したことがなかったため、被害に遭うことはなかった。ただ、一番下の売春婦が、「懺悔って、いつもと同じことをすることなのね」と残念そうに言った時には衝撃を受け、根ほり葉ほりきいてしまった。一番下の売春婦は、シャクヤと同じように、赤ん坊の時からこの売春宿にいて、外の世界を知らない。だから、密室になった懺悔室の本来の役割も知らない。それをいいことに聖職者たちは、金を払うことなく、小さな少女を言いくるめて、自分が満足するまで相手をさせたのだ。しかも、懺悔するほど、少女は日頃の悩みを抱えていたにもかかわらず、聖職者たちは少女にこう言ったという。


『我々と交われば、全てのことが善行へと転じるでしょう』


何と言う詐欺師だ。教会という聖なる場所で行われていた汚らわしい行為。誰の目にもつかない懺悔室という密室は、秘密保持のため防音効果も考えられていただろう。まさか、教会内で聖職者から行為を強制されるとは知らず、娼婦たちは無償で自分の体を差し出し、年齢問わず犯された。この屈辱的な行為を、娼婦たちは誰にも相談できずにいた。そして、一人で絶望を抱えていた。これでは天国にいけない。自分の体は怪我されたままで、死んだら地獄に落ちるのだと。シャクヤは一人ですすり泣く娼婦たちに、気が付かなかった。教会から戻ってきた娼婦が泣いているのだ。自分の日々の行いを悔いて泣いていると、当然のように考えていた。だから、そっとしてあげていた。もしも年少の少女があんなことを口にしなければ、もしも彼女が体を無償で聖職者に預けることが懺悔だと思い込んでいたならば、シャクヤも何も知らずにいただろう。まさに井の中の蛙だ。


「何故君は懺悔をしないんだ? 自分に罪はないと思っているのか?」


アパスは優しく言ったが、少し咎めるような含みのある声音だった。


「私は自然の成り行きこそが、自分のあるべき姿だと思っているの。だからよ」


シャクヤの声はいつになく凛としていた。アパスはそれ以上追及しなかった。

店主に代わって様々なことをやっていくうちに、いろいろなことを学ぶことができた。毎日朝から晩まで客を相手にしていなければならなかったときは、まだ幼かったこともあり、世間のことには疎かった。しかし店主の代理で寄合に出て情報を交換し、言葉を交わしたり、読み書きを覚えたりしているうちに、世間の流れが少しずつ分かってきた。


「なるほど。聖職者の風紀が乱れてきているのか」


信仰を制度として成り立っている東の大国にとって、これは致命的である。ただ、女王のいる現在の首都からは離れた地域の、娼婦宿の話だ。女王の耳に入っても手が回らないのが現状だろう。それでいい、とシャクヤは思った。気高く美しい女王が、こんな場所を庇っては、女王に反感を持っている輩に付け入る隙を与えてしまう。それだけは、あってはならない。


「それで済めばいいのだけれど……」


シャクヤは溜息と共に吐き出す。リョートが預けられたのが教会であることを考えると、シャクヤにとって聖職者たちの現状は、許しがたいものだった。しかし相手は国の中枢で、こちらは社会の最下層の一娼婦である。自分どうこうできるものではないと諦めるしかなかった。


「他にもあるのか?」


「その……、聖職者たちが風紀の乱れによって失墜した信頼を取り戻すために、妙な動きを見せていて……」


シャクヤは長く波打つ黒髪を指に絡めながらため息をついた。このくせはシャクヤが気分を害している時に見せる仕草だった。暗がりの中でもアパスはそれを見逃さなかった。


「妙な?」


「魔女狩りよ」


「魔女狩り?」


アパスはその非現実的な言葉に、思わずおうむ返しをした。歴史的な魔女狩りならば、アパスも知っている。何の罪もない人々が犠牲になった制度だった。例えば薬草に詳しい者が毒草に詳しいとされ、魔女として処刑される。ちょっとした嘘をついた者が、呪文で村を呪ったとして処刑される。「魔女狩り」と言われているが、女性だけが処刑されたのではなく、男性もその対象となったと聞いている。そして現在の西における「魔女狩り」は間違った歴史的事実として、戒めに使われる。それが現在も行われているという話は、流石にシャクヤの作り話かと思った。しかし、とうのシャクヤは、とても冗談を言っているという表情ではない。シャクヤが静かに語った「魔女狩り」は、想像以上に恐ろしいものだった。愛国心教育と疑心暗鬼が結びついて、一種の密告制度が出来上がりつつあったからだ。何の証拠もなく「国への不満を漏らした」というだけで連行され、拷問を受けるのだ。その拷問は自白するまで続けられる。つまり、一度目を付けられたが最後、魔女として処刑されるのだ。


「昨日も同業者の一人が魔女として連れていかれたわ」


「君は大丈夫なのか? こんなことをしていて」


「こんなこと?」


「いや。何でもない」


アパスはシャクヤから目を背けた。「こんなこと」をさせているのはあなただろう、とアパスの珍しく間の抜けた質問にシャクヤは笑いをこらえる。そしてシャクヤは黙って深くうなずいた。


「私も確かに例外ではないけれど、私はそれなりの覚悟を持って日々を過ごしているから」


シャクヤは自分の口から「覚悟」という言葉が出たことに驚いた。いつからだろう、シャクヤが覚悟を持ったのは。あの吹雪の時からだろうか。ここに初めて来たとき、ここで生きるしかないと思ったのは確かだが、「覚悟」などという立派なものではなかったような気がする。ただの諦観でしかないのではないか。ただ一方で、魔女狩りなどなくても人間は日々、死と隣り合わせで暮らしている。突然の病にかかるかもしれないし、通り魔に殺されるかもしれない。暴走した動物にひかれるかもしれないし、雷に打たれるかもしれない。そんなことは明日にでも、誰の身にでも起こり得る。性病で死んでいった先輩娼婦たちを見ていて、シャクヤはそんなことを思うようになっていた。だからシャクヤは生きている限り死を常に念頭に置くようになっていた。そしてこの命が、せめて最期くらいは誰かの――、リョートの役に立てばいいのに、と。そんなシャクヤの気も知らず、アパスはコインを眺める。


「しかし、本当によく似ている」


東側のコインに彫られているのは、リョート女王陛下の横顔だ。アパスは遠近法を使って、コインの女王陛下の横顔と、シャクヤの横顔を見比べて、悪戯に笑う。波打つ黒髪。灰色の瞳。はっきりとした輪郭は、自信ありげにさえ見えた。よく通った鼻筋に、妖艶な唇。豪華なドレスは胸元が大きく開いていた。色は分からないが、シャクヤと同じ色だとアパスは何故か思っていた。


「いい加減にして頂戴」


シャクヤがベッドの上に寝転がったアパスからコインを奪おうと、手を伸ばす。リョートの話をするシャクヤはいつにも増して、表情が豊かになる。それだけシャクヤにとってリョートは感情を掻き立てられる相手なのだろうと、アパスは思った。


「冗談だ」


アパスはそう言って、伸ばされたシャクヤの手を取り、そこに口づけをした。意味ありげな二人の視線が絡まり、やがてほどけた。


「冗談だよ」


アパスはもう一度そうささやいた。

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