4.女王の治世

シャクヤは笑った。売春婦は仕事の時には奥にある狭い一部屋が割り当てられているので、密会にはちょうど良い場所だった。あれだけ人を見下していた女店主も歳には勝てず、シャクヤ達売春婦が介護するまでになっていた。店主は頭こそさえていたものの、体は不自由になった。特に足が悪い。自力で歩けるのは、せいぜい店の中だけで、その歩は遅い。段差があるとつまずいて転び、自力では起き上がることさえできない。そのため、実質上この宿を仕切っていたのはシャクヤだった。シャクヤより年上の売春婦はこの宿にはいなかったからだ。シャクヤより年上の娼婦は身請けされたり、死んだりした。特に性病と娼婦は切っても切り離せないものだったが、娼婦は短命だとあきらめるしかなかった。シャクヤは幸か不幸か偶然か、一度も性病にはかかっていなかった。シャクヤはこれを、密かに主の恩恵と考えて感謝する日々を送っていた。

 女店主が足を悪くしたことをいい機会ととらえた売春婦の中には、男と駆け落ちする者さえあった。そんな時、女店主は決まってこう言った。


「シャクヤ、見ておきな。あの手の男は金目当てだ。甘い言葉に騙されて、馬鹿を見る」


「止めないの?」


シャクヤは優しさからではなく、そう言った。娼婦宿にとって娼婦がいなくなることが痛手だと分かっていたからだ。女店主は鼻で笑った。


「恋ってのは、人を狂わせる。病気と同じさ。聞いたことないのかい? 止めたって無駄だよ。逆に、狂人に何されるか分からない。こういう時は、知らないふりをするのが身のためだよ。けして、助けようとか、引き戻そうとか、考えちゃ駄目だ」


「病。人を、狂わせる病」


シャクヤは大事な部分だけを反芻した。優しくはしない。同情もしない。人は天に定められた運命がある。そして、天に与えられた立場がある。自分はその定めと立場を違えたり、間違えたりしない。おそらく恋という病は、人を試すために天がお与えになった試練と同じ意味を持つのだろう。だからシャクヤは、駆け落ちした売春婦仲間を、憐れむこともなかった。

 そして女店主は小銭や金目の物の贋作を机の引き出しに入れていた。女店主が言った通り、その売春婦は女店主が用意していた小銭や贋作を盗み、男と落ち合っていた。だが、その目撃情報を最後に女の行方は知れず、川からはもはや原型をとどめないくらい顔をボロボロにされた女の死体があがった。もしくは男と駆け落ちした後、すぐに売り飛ばされたという別の女の噂も聞いたが、詳細は不明だった。女店主は女はもちろんのこと、男の見る目も確かだったのだ。つまりは、人間の裏の顔を見る目を持っていたということになる。そんな彼女が何故こんな娼婦宿を経営することになったのか、疑問だった。しかし、女店主は「似た者同士が集まった結果だ」と言い捨てるのだった。そんな風に言われてしまえば「察しろ」と言われているに近く、シャクヤはそれ以上何も言えなくなった。

 そうか。似た者同士が出会い、身を寄せ合い、共に暮らしている間にお金が必要になったのか。そして何も持ち合わせていなかった女たちは、唯一の財産である自分の体を売ったのか。それがこの娼婦宿の原点なのだと、シャクヤは一人、思った。そして、密かに笑みをたたえる。


(同じ穴のむじなって、こういうのを言うのね)


自嘲であり、安堵の笑みでもあった。


(リョートがここにいなくて、本当に良かった)




「リョート女王の治世になってから、東に来るのはだいぶ楽になったよ。リョート女王は西の文化を取り入れているし、西からの旅行者も歓迎してくれる」


「まあ、これも外貨を稼ぐためということもあるだろうが」と、アパスは真剣な様子で付け足した。


「そう。リョートが……」


シャクヤは珍しく顔を赤らめ、胸に片手を当てて、慈しむように女王の名を口にした。まるでそれは、親愛なる人の名前を口にする乙女のようだった。


「何だ、リョート女王と知り合いなのか?」


アパスはシャクヤをからかう。シャクヤは声をひそめて笑う。


「まさか。底辺にいる私たちと女王では接点がないでしょう」


部屋は小さなランプと一つのベッドがあるだけの、殺風景なものだった。そのランプの生み出す影が壁に大きく映し出される。まるでよくできた影絵のようだ。影は不思議だ。光の対極のように語られるのに、光が強ければ強いほどその影は、濃くなる。学のないシャクヤだったが、それがすべての事を暗示的に示しているように思えた。そしてその影の部分が、今は光り輝いている妹をいつか捉えるのではないかと案じていた。


「女王の経歴にはかなり脚色があるぞ。生まれは感光受胎。教会の修道女の娘として生まれ、学校は全て主席卒業。現在も政治の傍ら研究を進めていると。これで間違いないな」


「え、ええ」


脚色があるということは、リョートが本来女王にふさわしくない生まれであるということを示している。だからこそ、処女妊娠で生まれたなどの神話めいた語りや、全て主席卒業などの伝説が必要となっている。リョートの治世は確かに成功しているように見える。しかし、現在までの治世のあり方を変えようとするリョートには、保守派の風当たりも厳しい。息子の治世を横取りしたという形で即位しているため、この息子を擁立して紛争が起きるか、保守派の巻き返しがおこるか、いずれにせよ、リョートの治世は盤石とは言えなかった。


「よく調べられましたね」


シャクヤは自然に聞こえるように答える。シャクヤにとって、身内の正体が表沙汰に

なるのは避けるべきものだった。ましてや、リョートの邪魔をすることだけはしてはならなかった。

 まだ生まれて間もなかったリョートはシャクヤのことをまだ覚えてはいなかっただろうし、これからも知ることはないだろう。だが、シャクヤにとっては唯一の肉親であり、かわいい妹なのだ。姉らしいことは何もしてやれなかった。だからこそ、少しでもシャクヤはリョートの役に立ちたかったのだ。しかしアパスはリョートの正体に近づきつつある。アパスは商人や旅行者を名乗っているが、おそらくは西側の間者なのだろう。だからシャクヤに会いに来ては東の大国の様子をうかがいに来る。二人でベッドに入りつつ、シャクヤとアパスは客と売春婦の関係になったことは一度もない。寝たり座ったりしながら時々ベッドをきしませ、ちょっとしたスキンシップの時には嬌声を上げる。薄い板一枚で区切られた空間だ。二人が何をしているのか他の娼婦仲間に勘繰られないように、そういった配慮は欠かさなかった。もっとも、女店主だけは、初めからアパスとシャクヤの関係を知っているようだった。しかし女店主はそのことを口外するつもりはないらしい。


「何か変わったことはないか?」


二人だけになったとたんに、アパスが口を開く。


「まあ。いつもその質問をするわね」


シャクヤは笑う。アパスが求めるものが分かってしまうからだ。そして少し考えるような顔をしていた。その顔はけして明るいものではなかった。


「そうね、最近私たちの間で話題になることがあるの」


伏し目がちに、シャクヤは言った。


「どんな話?」


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