アスコラク‐聖痕の娼婦‐

夷也荊

プロローグ

あの時の会話

イネイがアスコラクの背中を見送った、ちょうどその時だった。

ふと、窓から差し込む光が遮られ、影がイネイを覆った。イネイが窓の方を振り向くと、ほぼ同時に人影が通り過ぎた。その瞬間大きな音を立てて曇りガラスが割れて、石が飛び込んできたのだ。それはまさしく一瞬の出来事だった。


「きゃぁっ‼」


イネイの頭上にガラスの破片が降り注ぐ。割れたガラスは、鋭利な方を下にして落ちてくる。イネイはとっさに両手で顔を庇い、そのまま体制を崩して床に倒れこんだ。その突然の物音に、父親をベッドに運んだアスも慌てて踵を返す。


「イネイ!」


アスコラクが駆け付け、外をにらみつける。しかし人影はもう見当たらなかった。もう害はないことを確認したアスコラクは、床に倒れ込んだイネイの肩を支え、抱き起した。イネイの右手は割れたガラスで大きく切れていた。石は直接イネイには当たらなかった。まるで鋭利な刃物のようになって落ちて来たガラス片を全身にあびながら、大きな怪我をしなかったことは幸運と言えた。


「痛っ……!」


イネイはまるで心臓と連動するように脈打つ傷口を左手で抑える。流れ出た血が床に斑点を作る。


「見せてみろ」


アスコラクはきれいな布で止血する。


「深くはないが、傷が残るかもしれない。機能的には問題ないだろう」


そう言いながらアスコラクは、布を裂いて包帯代わりにイネイの傷口に巻きつけて結んだ。アスコラクは布でイネイの止血をすると、周りに降ったガラスの破片を取り除いた。


「うん。ありがとう」


アスコラクは、ガラスを割って飛び込んできた握りこぶし大の黒い石を拾い上げた。おそらく転がっていた石に細工をして、イネイに悪意を持った者が窓ガラスから投げ入れたのだろう。細工と言うのは、黒い石の表面を何か尖ったものでひっかいて描いた記号のことだ。かなり粗雑な絵だったが、大きな鎌に翼が生えていることぐらいは分かるものだった。


「首狩天使ね」


あまりのことに言葉を失い、黙り込んで動かなくなったアスコラクに、イネイはそれが何を簡略化して描いているのか教えた。そしてイネイはその粗雑な絵に込められた意味をすぐに理解した。


「昔の商業者記号に、こういうのがあるの。まだ東西に二つの大国があった時代の東側の方にね。気にする事はないわ。ザハトには雨の日に出歩いた人を背徳者として虐める風習があるの。でも、聖堂で許して貰えば収まるわ」


ザハトでは同じ職業者の組合が幅を利かせている町としても有名であり、各職業組合は、自分たちの仕事に誇りを持っている。特に石匠の組合は大きな組合の一つであり、近所であることも多い。そのためザハトの普段の生活は穏やかで、近所付き合いも良好なのだ。ただし、雨の日の禁忌さえ破らなければ、の話しだが。


「俺の……、せいか……」


アスコラクはがっくりと肩を落とした。


「雨の日に出歩いたからよ。アスのせいじゃないわ」


あれだけ強く降っていた雨は嘘のように晴れあがり、もうこの土地特有の強い日差しが照りつけていた。石畳にできた水たまりも、すぐに乾いてしまうだろう。


「だって、この記号を付ける商業者は―――」


「知ってたの?」


アスは苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。二人とも、その商業者記号を付けるのが売春宿だとは、口に出さなかった。東の大国はかつて、各商業者組合に記号をつけることで、統制を図ったのだ。中でも最下層の商業者とされた売春婦たちの記号は、その身分に合わせるように最下位の天使と呼ばれる首狩天使を表わす記号だったのだ。

 西と東の大国の大きな違いは、ここにあると言っても過言ではない。西の商業者組合は自発的で自律的で、さらには自立的でもあった。しかし東の商業者組合は完全に上からの押し付けであった。


「俺はこの記号のせいで魔女にされた聖女を知っている。正確には、知っている奴を知っている」


「そうね、女にとってそういう記号だものね」


イネイの胸に痛みが走った。イネイ達が大昔と呼ぶ時代に、アスコラクには知り合いがいるのだ。目の前にいるアスコラクは人間の姿をしているのに、人間とは違う時間を生きている。アスコラク自身は人間と変わりがないと言っていたが、身体的回復力は人外のものだ。しかしアスコラクはそれに気付かない。その溝は埋める事が出来ないと感じた。

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