11.身代わり

 シャクヤのもとに新客がやってきた。その新客の少年は売春宿には到底似合わない風貌をしていた。長い金髪は一本に束ねられ、瞳は晴れた日の空の色を写し取ったかのように蒼く澄んでいた。肌は白く、まるで少女か、人形に見えるほどだった。少年はまず、女店主に話を持ちかけた。少年はシャクヤを買い取る身請けを要望しに来たのだ。女店主の机の上に、袋いっぱいの金貨が落ちる音がした。二十年前、自分の足元に落ちた袋を思い出す。確か「ジャリン」と音がした。しかし今回の音は「ドシャ」という音だった。まるで災害時に土嚢を積んだような音だ。かなりの大金が支払われたと察せられた。それから女店主の大きな笑い声がした。シャクヤは布団をいきなりはぎとられ、驚いた。布団を剥ぎ取られたことよりも、そこにいたのがシャクヤが思っていた以上に、慈悲深い顔をした美少年だったからだ。


「さあ、行きましょうか」


少年が、手を差し伸べる。その慈悲深いはずの笑みに、シャクヤはわずかな悪意を感じるほどだった。シャクヤは少年を、ただの人間ではないと思った。しかしその少年は、ある富豪の遣いだと言った。今は理由があって名を伏せているが、本当にお金には不自由していないし、朴訥としたいいかたなので、安心していいと。シャクヤは、話が出来すぎていないかと警戒した。すると少年は、自分の胸に手を当てて、次のように語った。


「実は僕も孤児院から旦那様に拾っていただいたのです。旦那様はよく身請けをなさいます。実子がいらっしゃらないのも一つの理由でしょうが、自分より弱い立場の人間を放ってはおけない気質なのです」


豪華ではないがこぎれいな少年の身なりを見ると、少年の言っていることは本当のことのように見える。しかし、やはり話が出来過ぎているし、性急すぎる。それに、少年の話には矛盾が一つ紛れ込んでいた。自分より弱い立場の人間を放っておけないのであれば、娼婦や孤児をもっと多く救っているはずだ。しかし、そうすればそこに取り入ろうと、もっと娼婦たちの間で噂や情報が飛び交っていただろう。本当に金持ちならば、本当にそのような気質ならば。


「あの、私で良いんですか? 今から?」


シャクヤは明らかに狼狽していた。この時代、金にものをいわせて若い女性と老人が結婚するのは常識だった。しかし今までシャクヤを買った男の中に、それほどの富豪はいなかった。今までシャクヤを一番高く買っていたのはアパスだ。しかしアパスがシャクヤを「身請け」などしないであろうことを、シャクヤ本人が一番よく分かっていた。


「はい。貴女でなければいけません。聖痕の娼婦という貴女だから、旦那様も身請けを希望なさったのです」


「私の痣は確かに生まれつきのものだけれど、聖痕と呼べるようなものではないと思います。ですから、他の、一番年下の子を連れて行って下さい」


「聖痕」とは、主が架刑に処せられたときに付いたであろう傷跡のことを言う。磔にされた時にできた釘の痕や荊の冠の痕。そして心臓を突かれた時の槍の痕。それらを持つ子供は「聖痕」を持つものとして教会に祀り上げられたり、寄付を募ったりと様々な歴史がある。しかしシャクヤは偽造ではなく生まれながらにしてその三つの聖痕を持っていた。そして誇張するどころか隠して生きてきた。しかし売春婦という職業では隠すことはままならず、いつの間にか「聖痕の娼婦」という名誉なのか不名誉なのか分からない呼ばれ方をしていた。


「残念ながら、旦那様がすべての弱い立場の人を助けることはできません。貴女は選ばれたのです。旦那様からは早急に貴女を連れてこいとの命令が下っております。どうかお急ぎを」


女店主は相変わらず煙草をふかしながら、一着の黒い服をシャクヤの部屋に投げ込んできた。女店主は人を見ることに長けている。今までここで世話になったという恩義もある。しかし、それほどまでに急がなければならない理由が分からない。


「餞別だよ。こちらさん、あんまり目立ちたくないんだってさ。早く出て行きな」


シャクヤはわずかに躊躇った。自分がいなければ、誰が女店主の世話をしたり、外に出たりするのだろう。それに、自分でも意外だったのが、ここを「家」と認識していたことだ。シャクヤは二度と戻れない場所となるであろう売春宿に、自分が思った以上の愛着を感じていたのだ。しかし、やはりここは売春宿で、自分はそこの商品でしかない。お金のやり取りが成立した時点で、商品はもう客の物だ。商品であるシャクヤに、選択の余地はない。シャクヤは疑念や矛盾、不安や警戒を全て呑み込んだ。


「はい。今までお世話になりました」


シャクヤはそういうと深々と頭を下げ、「お元気で」と言い添えた。口は悪いし金に目がない。だが根っからの悪人でもない。それが店主に対するシャクヤの見立てだった。シャクヤは長年世話になった女店主と母親をいつの間にか重ねて見るようになっていた。世話をするうちに、店主自身も苦労の末に売春宿に行きつき、先代からこの店を譲り受けたということが徐々に分かってくると、シャクヤはすっかり店主に情が移ってしまった。このまま売春婦を続けていれば、シャクヤがこの売春宿の次代の店主だっただろう。

 それにこの女店主は人を見る目がある。それを信じ、賭けてみよう。女店主が見込んだ少年ならば、きっとシャクヤを悪いほうへ導いたりしないだろう。

 シャクヤは黒い服に着替え、少年と共に売春宿を後にした。戸が閉まると、女店主は深く煙草を吸って、ゆっくりと吐きだした。女店主はいつかこうなることを覚悟していた。そして、女店主も、幼い頃から共に過ごしてきたシャクヤを、完全な商品として見ることが出来なくなっていた。


「やっぱり出てっちまったか。さすがは姉妹というところかねぇ」


店主は悔しがるように独り言を言った。溜息を隠すように、店主はまた煙草を深く吸った。


 逃亡を防ぐため、宿の女たちには下着のような服しか与えられていなかった。こうしてシャクヤが服を着て街中を出歩くのは二十年ぶりということになる。もちろん娼婦宿の寄合には服を着て参加していたが、それは旧首都の防壁の間の限られた世界のことだ。現首都のマスハの中心に向かって早く、と急かす少年にシャクヤはついて行けなかった。二十年という長い間閉ざされた世界しか出歩かなかなかった人間に対して、急に走れと言う方が無理な話だった。

 シャクヤはすぐに息をきらしてその場に座り込んでしまう。心の中で舌打ちしたラサルは、そんな様子を微塵も見せずに微笑した。


「仕方ありませんね」


困り顔でそう言った少年の背中に、真っ白な羽がはえた。それは話に聞く天使そのものだった。


「て、てん、し……さま?」


驚きを隠せないシャクヤに少年は手を差し伸べた。シャクヤはその美しい手を取ろうとしたが、体がその瞬間ビクリとはねた。それは反射的で本能的な拒絶反応だった。まるで、沸騰した薬缶に手を触れってしまった時のような反応だった。今まで世話になってきたなってきた女店主には、人を見る目が確かにある。しかし、人間以外ではどうだろうか。ましてや、天使を見る目はあっただろうか。シャクヤは何か引っかかるものを感じて、眉を寄せた。


「さあ、どうしました?」


天使は相変わらずの笑顔で問いかける。


「いえ、何でもありません」


思わず手をひっこめていたシャクヤは、不安にさいなまれながらもその手を取った。少年が羽ばたくと、シャクヤの体は宙に浮き、そのまま旧都が見下ろせる高さまで上昇する。


「まあ、本当に天使様なのだわ。天使様、私などを何故必要としてくれたのでしょう? それとも、本当は私、死んでしまったのかしら?」


シャクヤはここにきて不安も恐れもなくして、ラサルを本当の天使なのだと思い込んだ。些細な違和感は頭の隅にもなくなってしまった。


「急ぎます。舌を噛まないように口は閉じてください」


ラサルはシャクヤの問いかけを無視してスピードを上げて夜の空を飛んだ。見たこともない街が流れていくのを、シャクヤは目が回りそうになりながら見ていた。耳には常に風の音がしていた。一枚だけの服装で空を飛ぶには、寒すぎたが、見たことがない夜の光景にシャクヤは興奮していた。そしてこれが自分の妹が作った国であると思うと、何故か自分まで胸を張れる気がした。あの小さな美しい赤ん坊が、今、この国を治めている。シャクヤの目は潤んでいた。

 マスハまで来ると見たことのない町のつくりと煉瓦造りの町並みは夜であっても目を見張るほど美しかった。日の高い時にリョートの町を見てみたかった、というシャクヤは珍しく願望を持った。しかしそれは遅すぎた願いだった。


「少し風がきついかもしれませんが、ご容赦を」


天使の少年はシャクヤの手を引いたまま飛び続け、ついにマスハの城までやってきた。窓からリョートの執務室に入る。


「まあ」


シャクヤは思わず声をあげて床に座った。足の沈み込むような絨毯など見たこともなかったからだ。ビロードの厚いカーテンも、初めて見た。これがリョートの世界だと知ると、自分とリョートとの身分の差を、改めて実感させられる。窓際には大きな執務室に大量の書類が積まれていた。その椅子は光沢のある上質なものだった。開いたままになっているドアの向こう側は接客室だろうか、やはり上質なソファーや家具が見えた。

しかし、乱暴に散らかった部屋を見て、シャクヤははっとする。


「リョート」


執務室の中には荒らされた形跡があった。金目の物は強奪され、気味の悪い石だけが残されている。シャクヤはそのうちの一つを手に取った。思ったよりも重かった。石の中には骨と一緒に羽の後のような物が見える。どのようにしたらこんなものができるのか。こんなふうに硬い石に骨をぴったりと埋め込むなど、シャクヤには考えもつかなかった。それはシャクヤだけでなく、きっと誰にも分からないだろう。人は自分の理解できないことを畏怖する。それは恐れや忌避としてあらわれることもある。この石はリョートを「石化魔法の魔女」として人々に知らしめるだけの効力を発揮するだろう。

 リョートがついに魔女狩りの対象になったと、シャクヤは察する。

 ただの少年の姿に戻った天使は、シャクヤを無視して、迷うことなくリョートの仮眠室へと向かった。そこには琥珀色の輝きを放つ豪華な木製ダンスがあった。金具は金色に光っていた。その洋服ダンスの中には、リョートがふだん着たり、寝間着に使ったりするような服がかかっていた。少年は引出を階段代わりにして、タンスの天井を叩いた。中に空間がある音がした。それを確認した少年は、今度は思い切りタンスの天井を叩いて、そのまま打ち抜いた。洋服ダンスの天井には、ぽっかりと穴が開いた。そしてその穴から手を突っ込んで穴を広げると、そこからはタンスの中にかかっていたものとは一線を画す豪華なドレスが出てきた。深紅の光沢のあるドレスに、緑色の飾り帯、金のバンダナと手袋だった。


「これを」


少年は隠してあったドレスや手袋、バンダナなどを差し出した。その真紅のドレスはリョートが一番好んで着ていたものだった。シャクヤはそのドレスに着替え、その重さに驚いた。その重さは、そのまま女王という責任そのものを表しているように感じた。そしてシャクヤは察した。自分はリョートの身代わりにさせられるのだと。なるほど、とシャクヤはおかしくなる。先ほど支払われたお金はシャクヤという一娼婦のために支払われたのではなく、リョートのために支払われたのだ。ならば、あの大金も納得がいく。身代わりはシャクヤにとって喜ぶべきものだった。何一つ姉らしいことをしてやれなかったが、最期は妹の役に立てるのだから。シャクヤは金色の手袋とバンダナで聖痕と長い髪を隠して少年の導きに従った。




 アスコラクは天使がシャクヤをマスハの城に連れてきたのをはっきりと見た。天使というのは間違いで、白悪魔という種類の悪魔だったが。しかも白悪魔の中でも悪食として知られるラサルだと思いだすのに時間がかかってしまった。ラサルは見た目こそ清楚で神々しい天使の姿をしているが、人の汚れた心臓が好物という、まさに悪魔そのものなのだ。何故初めて見てそれがシャクヤだと思ったのかはアスコラク自身にも分からない。ただ、考えるよりも先に、走り出していた。


(助けなくては。私が、彼女を……)


アスコラクは守護天使としての本能に突き動かされていた。

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