3.汚い老人
シャクヤは二十四歳になっていた。この時代の娼婦としては二十四歳というのは、かなりの古株だった。特にこの店においては、最年長記録を更新していた。娼婦の多くは、梅毒や淋病と言った性的な病を発症し、狂いながら死んでいく。そしてその亡骸は、病が感染すると恐れられていたため、専門の死体処理業者に金を支払って引き取ってもらっていた。業者が適切に死体処理を行っているとは考えにくかったが、娼婦宿としては、死体が亡くなることが第一だった。もしも「あそこの娼婦宿では、病持ちの娼婦に客相手をさせている」と噂がたてば、たちまち店は潰れてしまうだろう。
そんなシャクヤに足しげく通う客がいた。名をアパスといった。アパスは東の大国に赴く際には、必ずシャクヤを指名した。壮年のアパスは精悍な顔立ちをしていた。背が高く、無駄な肉はなく、筋肉質のしなやかな体を持つアパスは高くシャクヤを買う上客でもあった。アパスの右目には二本の深い刀傷があり、褐色の肌をしていたが、それさえもアパスの凛々しさや勇猛さを物語っているようだった。そんなアパスはシャクヤがいる娼婦宿に着くまで、貧しく汚らしい老人に身をやつしてやってくる。身分を隠すようなアパスのこの行動は様々な憶測をよんだが、娼婦宿では客のことをあれこれ聞くのは禁忌とされていた。
首都がマスハに移ってから、旧首都のこの売春宿も荒廃していた。治安も悪いこの街はまるで、時代に打ち捨てられたかのようだった。
「まあ、アパス。また来たのね」
呆れるでもなく、シャクヤはただただ感嘆していた。現在の首都のマスハの近くにも売春宿くらいはあるだろうに、アパスはわざわざ旧首都のここに来る。そして必ずシャクヤを指名する。それはもう五年にもなる。アパスが他の娼婦を指名したことは、この五年間で一度もない。
一度だけ、アパスに買われるシャクヤを羨んだある娼婦が、アパスを誘惑したことがある。周りも、面白半分でそれを見ていた。単にシャクヤへの嫌がらせということでもあった。
「お金はいらない。あなたが欲しい」
そう言ってアパスとその娼婦は別室に向かった。小さなランプが一つだけある、暗い部屋だった。結果から言えば、アパスはその娼婦を抱かなかった。それどころか思いつく限りの罵詈雑言を浴びせ、その娼婦を泣かせたあげく、金も払わずにそのまま帰ってしまった。
「お前はこんなことで泣くのだな。彼女なら泣かないだろう。自分を憐れんで泣くような女にかける金など、持ち合わせていない」
そう捨て台詞まで吐いていった。「彼女」がシャクヤをさしていることは、火を見るより明らかだった。
アパスはシャクヤに出会う前まで、老人に身をやつしたまま何軒かの売春宿を巡った。しかしおめがねにかなった娼婦がいないとすぐに引き返してしまう。もちろんそれはアパスの好みの女性がいなかったからではない。アパスの勘に引っかかる「何か」を持っている娼婦に出会わなかったからだ。その「何か」とは、「西に将来役に立ちそうな」という漠然としたものだったが、アパスはこの手の勘が鋭い。そんなアパスの目をくぎ付けにしたのが、シャクヤだった。
当時十九歳だったシャクヤは、汚らしい老人が店に入って来るなり、女店主に言った。
「この人、私のお客さんよ」
もちろん他の娼婦たちは貧しそうで、汚らしい老人と関係を持ちたがらなかったし、シャクヤの物好きに陰口さえ叩いていた。
『あら嫌だ。鼻水が垂れた貧相な老人』
『目ヤニまでついていたわ』
『きっと口も臭いのよ』
『金がないのに、性欲だけは御盛んなのね』
くすくすと、笑いが漏れる。老人はこういった場所に慣れていた。ベッドの上でしか生活できない彼女たちにとって、誰が上客を取るのかは一番の関心事だ。
『シャクヤさんは優しいから』
『そうね。年寄り同士、仲良くしなくちゃね』
『病でももって来なければいいけれど』
あからさまな揶揄、誹謗中傷に、シャクヤは顔色一つ変えなかった。悪意のある他の娼婦たちの笑い声が渦巻く店内で、老人を優しく見据えていた。
女店主は言った。
「シャクヤ、本当にいいんだね?」
老人を値踏みした女店主は念を押す。シャクヤは何かを確認するように、老人を見た。鷲のような鉤鼻からは黄色がかった鼻水が垂れ、フードからはみ出した艶のない白髪には大きなふけが付き、カサカサの肌には垢がこびり付いている。生気のない目の周りには、やはり黄色の大きな目やにがあった。
「はい」
シャクヤは力強く即答した。
「なら、奥へ連れてってあげな。そそうのないようにね」
「もちろんです。さあ、行きましょう」
老人は一言も発さずにシャクヤの導きに従い、ベッドと小さなランプだけの部屋に来た。ここが娼婦たちの「仕事部屋」だった。老人は曲げていた腰を伸ばし、ボロボロのフードつきのコートを脱ぎ、頭にかぶっていた白い糸の塊を取った。持っていた布で、顔を拭く。
この老人こそが、アパスだったのだ。
アパスは肩を回し、軽くあちこちの関節をほぐすように動かした。ところどころ節が抜け、ぽきぱきと軽い音がした。
「ずっと身をかがめていると、あちこちが固まってしまうな」
シャクヤはベッドに腰掛けて、老人が壮年の男に変身するのを見つめていた。アパスがシャクヤが驚いて言葉を失っていると思ったが、次の瞬間、背筋が凍る思いをすることになる。
「西からずっとその格好なの?」
シャクヤがアパスを見つめたまま問う。どこから、この女に変装がばれていたのだろう。アパスは自分の身のやつし方に自信を持っていただけに、このシャクヤの質問は衝撃だった。
「何故、そう思う?」
さすがに、そう問わねばならなかった。
「東の訛りじゃなかったし、娼婦宿巡りの老人は、有名なの。誰も娼婦を買わないって。変なおじいさんがいるから気をつけろって。だから私、自分のベッドの横の壁に一日ずつ線を引いて数えていたの。数字は分からないけれど、それくらいはできるわ。そうしたら、あなたは一定期間以上をあけて東にやってきていた。だから、遠いところから来てるんだって分かったの。身をやつしていると仮定すれば、きっと西の人がお忍びで来ているんじゃないかって思ったの」
これがシャクヤとアパスの出会いだった。そして、シャクヤは続けた。
「生卵が勿体ないわ」
ここでも、アパスは衝撃を受ける。この女には全てばれている。そう思うと、言葉が出なかった。アパスは確かに生卵を変装に用いていた。白身を顔や髪に塗って乾かすと、肌は乾燥したようにかぴかぴになり、神には白いものがこびり付いているように見えた。卵黄は目の周りに付ければ目やにになり、鼻の下に残った白身と卵黄を混ぜて線を引けば鼻水になる。まさか、変装のやり方まで見透かされるとは、思ってもみなかった。
「卵って、貴重なのよ?」
「あ、ああ。そうだな。すまなかった」
庶民の間では、卵は栄養が高い食べ物として、病院食でも出されるという。しかしそれは病にならなければ食べられないほど貴重だということだ。特に東の養鶏は西よりも発達していない。シャクヤが怒ったのはそうした背景がある。
シャクヤは、アパスの狙い通りの女性だった。シャクヤはアパスの変装を一目で見破っただけでなく、アパスの難題を笑いながらさらりと答えてしまった。その難題とは「東の国の行く末は?」というこれもまた漠然としたものだったが、シャクヤは「とても案じている」と答え、「私が案じてもどうすることもできないのですが」と笑った。ちなみに、後にアパスを誘惑した娼婦は同じ質問に「この国は安泰だ」と答えている。実はこの問いは深い意味を持っている。東側で育ち、反西の環境にいた人々は、自国に対して寛容になりすぎる。自分の今の立場を国から与えられた物と考える傾向が強いため、それを批判することができなかったのである。しかも時はリョート女王の治世だ。東側の誰もがこの女王の到来を待ちわびていた、と言っても過言ではない。それがやっとかなったのだ。そんな社会状況で、不満を漏らすものなどいるはずもない。しかし、シャクヤだけがまるで俯瞰で社会を冷静に見つめ、自分の立場をわきまえて思考していたのだった。この頃、娼婦たちの学習能力は低いと言われていたが、シャクヤにはそれを補う何かがあったのだ。しかもシャクヤの場合、アパスがいくら久しぶりに会っても、以前アパスが話したことを事細かに覚えていて、アパスを驚嘆させた。娼婦たちの学習力の低さは、ただ単に学ぶ機会がなかったというだけで、本当は高いのかもしれないとアパスは唸った。
「来ると困るか」
アパスがシャクヤの髪を愛撫しながらベッドに腰を下ろす。そしてシャクヤの顔の傷をゆっくり撫でる。それはまるで何かの儀式のようだ。茨の冠を乗せた時に出来た額の細かな傷。そしてシャクヤの腕をなぞって手を握る。そこには架刑の際に出来たとされる三つの釘の刺さった痕。そして、服を脱がせる。その胸の下には、最後に槍で刺された時に出来たという大きな傷痕。ちなみに、この槍で突かれてほとばしった血を受けたのが、聖杯だとされている。どれも神話や伝説に由来する傷と一致する。
(聖痕)
こんなにはっきりとした痕はアパスでも見たことも聞いたこともなかった。東の噂で、耳にしたことがある。生活に困った両親が、病弱な娘に「聖痕」をつけ、大勢の人々を騙して金を集めたという。さらに、不完全な聖痕のために、「まがい物」として、イジメの的になったという話しもある。不完全と言うのは、聖痕の一部しか持っていなかったり、痕が薄くてよく見えなかったりするということだったのだろう。いずれも、面白い話ではない。
「いいえ。西から来るのは大変だと思って」
シャクヤは花がほころぶように笑う。まるで、無垢の少女のように。しかしその実は娼婦の年長者の内の一人なのだから、世の中は心眼が優れた者でないと生きていけない。
当時、西と東の二つの大国が大陸を支配していた。この二つの大国は互いに大陸の覇権を争い、隣国を次々に植民地化していった。
ただ、西と東で異なっていたのは、人々の心の豊かさと、経済的格差だった。西の国では信仰の自由があった。国内では主に「主」への信仰について教育していたが、西側に下った者が元々有していた信仰を保持することが認められていた。商業者組合が幅を利かせてきたためか、経済活動も活発だった。
一方、東の大国は他の産業をかえりみない圧倒的な軍事力を見せつけ、次々と近隣の小国を制圧し、「主」への信仰を義務付けた。各々の商業者に特定の守護聖人や守護天使を当てはめ、階層付けし、主への信仰を国家制度として利用していた。エルの首都は二重の防壁に守られており、その防壁と防壁の間に貧民街が出来ていた。
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