エピソード11 私の隣の観客がこの世の者ではない

 4月に演劇サークルの公演があるのは珍しいと思う。なんでも新歓の一環としてやるらしい。たしかに茉子は春休みも忙しそうにしていた。


「うちのサークルだと、3年生……じゃなかった、新4年生の先輩は新歓の公演をやって引退なんだよ。他のサークルとか部活よりちょっと遅いんじゃないかな」


 私が4月の公演の話を始めて聞いたとき、茉子はそう言っていた。

 一応、演目は前の年にやったものらしく、新たに練習するといったことはないのだとか。クオリティを上げたりファンサービスを増やしたり。色々と工夫をして1年生に興味を持ってもらおうという話だ。


「まあ、そんな感じだったよね」


「うっそ、忙しいのによく私と悠月とお花見できたね?」


「時間の使い方を考えたら意外と大丈夫だったよ。さすがにお弁当は作れなかったけど」


 茉子はスケジュール管理が得意だと思う。忙しいサークルに入っていても学業はおろそかにしない。私たちと遊ぶ時間だってとれているし、アルバイトだってしている。

 うん、天才かな?


 私、文芸部の美晴はといえば新歓は確かに文芸部としてやる。とはいえ、部誌を新たに出すわけでもなければ演劇サークルのような特別なことをやるわけでもない。いたって普通の、量産型のような新歓をするにすぎない。


「いやいや、お弁当を作るまでしたら茉子、死んじゃうでしょ」


 私はつい言ってしまった。


「確かに今よりしんどいのは確かなんだろうね。そうそう、4月の公演のことなんだけど」


 苦笑いする悠月。だが、すぐに悠月は話題をもとにもどす。その話題はもともと、演劇サークルの4月の公演のことだったのだ。

 悠月は4月の公演のチラシを手渡してきた。


「美晴も悠月も見に来てくれたけどまた見に来てくれたら嬉しいな。新歓とはいうけど、学生なら誰でも来ていいよ」


 と悠月は言った。


 公演の日は4月12日。

 私は悠月と一緒に茉子が出る公演を見に行くことにした。大学のホールを借りての公演には新入生だけでなく上級生や院生、職員も来ていた。新しく履修した科目の先生も来ている。


 客席に座り、私たちは劇が始まるのを待った。

 演目は『歌劇場の怪人』。知る人ぞ知る演劇やミュージカルの演目だ。ちなみに私は去年の11月、茉子が劇場スタッフ役として出演した公演で見た。


「公演に先立ちまして――」


 ブザーが鳴り、アナウンスが始まる。

 そわそわしていた観客たちは静かになり、アナウンスに耳を傾ける。アナウンスをしているのは、演劇部に入っていた院生だそう。さすが演劇部ともいうべき滑舌と声で、注意事項などを話すのだ。


 そして。

 語りが始まり、音楽が流れ、緞帳が上がった。


 始まった。

 私も悠月もあっという間に物語の世界に引き込まれていった。誰が誰を演じているというのはわかるけれど、その人が役に溶け込んでいるようだ。

 この演目を見るのが2回目でも、私を引きつけることは変わらない。


 物語は進む。劇は進む。

 だが、暗転した瞬間。私はふと悠月がいない方。私から見て左側を見た。


 ――見たな。

 ――見てしまったらお前と縁ができる。


 左側の観客はどこかおかしい。見た目は観客、というか学生。少し個性的だがこの大学ならばおかしくない姿……のはずだ。

 だが、とんでもない違和感がある。どうにも生きているようには思えないのだ。

 私はその観客を見て金縛りにでも遭った気分になった。

 これは恐怖か。それとも、全く別のものなのか。

 ひとつだけ言えることは、私は左隣の観客に対して良い感情を抱いていない。


「つネかヮ美ハる……」


 左隣の観客はそう言った。

 瞬間、私はとんでもなくぞっとした。

 左隣の観客は何者か。そもそも人間か。そもそも生きているのか。


 今、ここは演劇が行われている場所のはずである。さすがに声を出すわけにはいかないが、そうしないことには私も危ないと思った。

 こんなに得体の知れない何かが私の隣に座っているのだ。


 考えろ、私。

 声を出さずにどうやったら左側の観客を――


 私は思いついた。簡単なことだ。声を出すことができなければジェスチャーをすればいい。

 私は左隣の観客の顔を直視し、出口を指さした。いや、そのつもりだったけど私の人差し指は舞台の方を向いていた。

 このとき私は、左隣の観客を見てから初めて舞台の方を見たらしい。それでも私は違和感を覚えたのだ。


 演劇の流れが変わっている?


 私が違和感を抱いた瞬間のことだ。

 左隣の観客は、席から立ち上がって何を思ったか舞台の方へと走ってゆく。だというのに、観客は誰一人としてそいつ――私の左隣に座っていた観客を止めない。

 左隣の観客は眼鏡をかけ、髪を伸ばした変な男だった。走って行く姿を見て初めてわかった。

 なぜ隣にいたのにはっきりと姿を認識できなかったんだろう?


 髪を伸ばした変な男は舞台にのぼり、主役と相対するように立ったのだ。それだけではない。主役が台詞を口にしようとすれば、髪を伸ばした変な男はその台詞を遮った。


「なぜだ! なぜなのだ!」


 知っている。これはこのタイミングで主役の青年が言うはずの台詞。それでも観客は、一度はこの演目を見たことのある悠月でさえも違和感を抱いていないように見えた。

 ここの観客の誰もが今の状態を「当たり前」として見ている。


 舞台に主役が2人――?

 おかしいのは私――?

 この演目の本来の姿は一体――?


 わからなくなってきた。

 間違っているのは私なのか、観客なのか。


 違う。すべて間違っているんだ。

 あの写真展と同じように、どうにかしないと戻れなくなる。

 私は自分の右手の甲を強くつねった。


 ――痛い!

 はっとした。

 舞台に目をやってみれば、髪を伸ばした変な男の姿はない。

 それだけではない。タイミングとしては暗転した後、暗転が明けて次のシーンに移るところ。しかも、大道具の配置からしてさきほどの暗転の次のシーンだった。

 どうやら変な観客を見てからさほど時間は経っていないようだ。


 舞台には主役と敵役が登場する。当然主役はひとり。乱入者もいない。舞台は台本にそって進んでいるらしい。


 私は気になって左隣の観客席を見た。

 なんということだろう。そこには誰もいない。髪を伸ばした変な男の姿は消えており――いや、そもそも元からこの席には誰もいなかったかのよう。

 ならばあの人は何者だったのだろう?


 演劇のシーンは移り変わり、ストーリーは進む。私も演劇に引き込まれはしているのだが、どうにも左隣にいた謎の観客の正体が気になっていた。

 なぜあの観客は急に立ち上がり、舞台に上がろうとしたのだろう?


 やがて、劇はクライマックスを迎えた。

 歌劇場の舞台で主役と敵役が対決するシーン。ホールの舞台で行うだけあって、とても映える。

 もしあの観客がいれば乱入するのだろうが――あの観客の姿はやはりない。


 そうして劇は終わる。

 カーテンコールのために演者たちは次々と舞台に上がって挨拶をする。3番目くらいに茉子たちが挨拶をし、私は拍手をして茉子に手を振った。

 茉子の後にも演劇部の部員たちは舞台上で挨拶をする。その中に、なぜか混じっていた髪の長い変な男。まるで彼は私以外からは見えていないようで。

 だが、髪の長い変な男は舞台にいる間は嬉しそうな表情を見せていた。

 私は決めた。茉子や悠月に、舞台に上がった謎の観客――髪を伸ばした変な男のことを聞いてみようと。


 4月の公演が終わった翌日。

 1限の授業の前に、私は茉子と悠月と大学のカフェに集まっていた。一緒に朝ご飯を食べようと約束していたのだ。

 どうせ集まっていたんだ。私は2人に聞いてみた。


「昨日の公演だけど、変な人いなかった? 私の左隣にいて、途中で舞台に無理矢理上がったり、カーテンコールに乱入した人」


 聞いてみると、茉子と悠月はぽかんとした顔を見せる。そして。


「見てないよ?」

「私も見てないー」


 2人ともそう答えた。それに加えて悠月はさらに。


「しかも美晴の左側ってずっと空席じゃなかった?」


 なんて恐ろしいことを言ってきた。

 つまり私はあの男が消えるまで、この世のものではない何かの隣で観劇していたことになる。

 私の背筋を冷たいものが伝っていくような気がした。


 私の隣にいたのって、一体……?



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Hundred Story ~恒川美晴は筆を執る 游=レイトショー @Thaumiel

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