エピソード2 ゴキブリの幽霊 (虫注意)

 あなたはゴキブリが家に出たらどうしますか?

 殺虫剤をかけてみる、新聞紙やスリッパで潰す、洗剤をかける、素手で掴む……。いろいろ方法はあるけれど、私は洗剤でゴキブリを退治しました。床や壁は汚れるけれど、殺虫剤を買う必要もないし。




 これは夏場のある日の話。

 上の階の環境のせいか、ついに出やがったゴキブリ。内心は凄くヒヤヒヤしながらも、洗剤をかけて撃退。とりあえずゴキブリ退治はできた。が、ゴキブリは1匹見たら30匹はいると思え、という。これを機に私はゴキブリ撃退に効果のあるホウ酸団子を部屋に仕掛けてみることにした。


 ――それから。今年の夏の間に私が殺したゴキブリの数はホウ酸団子のせいで死んでいたものを含めて30以上。ときにはスリッパで潰して、その後に燃やすということもした。

 そのときまで私は祟りなんて信じていなかった。いや、あったとしても虫に祟りがあるか、なんて思っていた。




 あれから3か月。12月はじめ頃から私は本格的に悪夢を見るようになった。悪夢の内容は虫、ゴキブリ、ナメクジ。ひたすら気持ち悪い夢だ。友達の顔に虫が湧いていた夢、炊きあがったご飯の中身がすべてナメクジにすり替わっていた夢、鞄の中に大量の虫が湧いていた夢。

 まだ夢だけのときはよかった。夢だけのときは……。

 このときの私は、「いずれ悪夢より恐ろしいことが起きる」など思ってもみなかった。悪夢は悪夢にすぎないし、夢が現実になるのは「叶える方の夢」に限定されるだろうと思ったから。私は別に正夢だとかそんなのは信じていないし。




 12月半ばになって、さらに悪夢が悪化。大きなゴキブリと虫の大群に崖っぷちまで追いかけられる夢を見て、私は寝るどころではなくなり。


「うわあああああああっ!」


 12月16日。ついに私、恒川美晴は夜中に目を覚ました。心臓がバクバクと鳴り、暖房のついた部屋で冷や汗をかく私。そのときの私は、はっきり言って正気ではなかったと思う。電気をつけようと視線を動かすと――


 部屋のすみに黒い塊が蠢いている。霧でも影でもなく、きっちりと形のあるもの。それが集まっているのだろう。私はここでも好奇心ゆえに、注意して見た。

 それは黒い虫。群れだ。その触覚は長い。間違いなく、ヤツだ。

 ゴキブリ。ゴキブリ。ゴキブリ。ゴキブリの群れ。

 彼らは私と目が合った……私の姿を認識した、の方が正しいだろう。その瞬間、ベッドの方へ向かってきた。


「いああああああああああああっ!」


 私は立ち上がって、枕元に置いてあったテレビのリモコンをゴキブリに向かって投げつけた。リモコンが当たったところだけ虫が消え、残りはまだこちらへ向かってくるではないか。それも、さっきよりも数を増やして。

 来ないで!

 夜中3時。近くの部屋の住人も寝静まっているこの頃。私はもう悲鳴なんてあげられないと思っていた。

 はやく。はやくリモコンを!

 私の手にかつん、という感覚があった。その固いものはリモコンだろう。私はリモコンを拾うが――

 手を這う何かがいる。こいつも、ゴキブリ。私は必死に手を振ってそいつを落とそうと試みる。でも、落ちない。そいつが手を這う感覚はあるのに、まるでそいつがくっついているようで。

 本当に、何が起こっている?




 何が起きているのかもわからないまま、空が青くなった。気が付けば私はベッドの上に倒れ、部屋の照明はついていた。夜中のアレは、いない。部屋中に現れたゴキブリたちのことが嘘であるかのように平穏な時が流れていた。

 ……本当に嘘であってほしい。ただの夢であってほしい。

 私は疲れを感じながら時計を見た。時間は朝の10時。

 ……早く準備しないと遅刻する!

 単位を落としたくないので私は急いで着替えて、化粧をして、髪型も整えて家を出た。

 結局、そんな努力も空しく遅刻したけれど。




 遅刻ということもあって、講義室の机は前の方しか空いていなかった。私は迷惑をかけないようにと講義室の端を通り、前の方の席に座る。今の授業は英詩。英語と日本語の両方で書かれた板書にはすでに消した形跡が見られ。これで聞き逃したところができてしまった。無念。

 ふと、私は授業中にまた眠気に襲われた。昨夜の出来事もあって、それくらいは仕方ないのだろうと思っていたが。


 ――夢の中に引きずり込まれた私はゴキブリの群れを目の前にしていた。大群が、ナメクジを引き連れて私に迫っている。私がいるのは汚い部屋の端。まるで私が虫たちから攻撃されているようで。

 来るな!

 虫の群れが私にとびかかり、口に入ってゆく。声は出ない。もぞもぞと口の中で這いまわるゴキブリ、ナメクジ、うじ虫、ムカデ。どうしようもない不快感と、噛み潰してしまったような気持ち悪い感覚が私を襲い――


 ガタン。

 私の足が講義室の机に当たる感覚。それで私は目を覚ます。私はだらしなく口を開けたまま寝てしまったようで、隣に座っていた見ず知らずの学生から変な目で見られていた。……確かに客観的に見ればおかしいのだろうけど。

 客観的に見ておかしくても、今の私は授業中でもかまわず悪夢を見るらしい。それも、幽霊ではなく虫。山の中で見る分にはどうということもない虫だが、家に入ってきた途端に気持ち悪くなる。それが口の中に入ってきたとしよう。私は夢の中でも嫌だ。


 こうして、私は悪夢から逃れるために指のツボを押し続けた。親指と人差し指の間。何のツボだったか忘れたが、血行を良くして眠気をさます効果があるらしい。どうやらそれは功を奏したようで、私はそれ以降眠気に打ち勝った。


 そして私は考えた。日常生活に支障が出るくらいに悪夢を見る今。どうにかして悪夢の原因を知らなくてはならない。いや、原因を知らなくてもいいので悪夢を見ないようになりたい。精神科に行くか。カウンセリングを受けるか。それともお祓いを受けてみるか。正直なところ、お祓いを受けようとは思えなかった。管理人伝いで受けたあのお祓いでもきっと「またか」と言われそうな気がしてならないからだ。

 そんなときに私が見つけたのは「塩のスプレー」だった。SNSで偶然見かけ、とある人は魔除けとしても使っていた。

 私も使ってみようと思い、取り扱っている雑貨屋に向かってみることにした。



 その日の夜。またいつものように悪夢を見るだろう、と私は考えた。そこで「塩のスプレー」を袋から出す。

 盛り塩に除霊効果があるとは言ったものだ。私はためしにスプレーをカーペットに吹きかけてみた。スプレーは「しゅっ」と音を立て、カーペットはしっとりと湿る。


 いざ、寝る時間になると私は枕元に「塩のスプレー」を置いた。悪夢を見たときはこれを使ってみようか、ということで。

 そして、いざ就寝。




 ――きた。ゴキブリたちの夢。


「美晴はさ、虫に対して厳しすぎるよね。すぐに殺しちゃうんだから」


 夢の中の茉子は言う。茉子の悲しそうな顔に伝う涙はみるみるうちにナメクジと化す。そのナメクジは私にむかって跳んできたかと思うと私の目の中に入る。

 気持ち悪い。痛い。

 茉子から飛び出す虫たちは私の体に飛び移り、這いまわり、口や耳や鼻の中に入り込む。

 誰か!


 ――夢だ!

 ベッドから飛び起き、私は枕元のスプレーに手を伸ばす。


「あ……」


 私の手が当たったことでスプレーはベッドから下に落ちる。

 下を見てみると、ゴキブリ。虫。手を伸ばすことをためらうような状態だったが、私は意を決して手を伸ばす。これからずっと悪夢を見るより、ここでゴキブリの中に手を伸ばす方がいい。

 ――手がスプレーに触れた。私はそのまま「塩のスプレー」を拾い、ゴキブリの群れにむかって噴射した。

 しゅっ、という音とともにナメクジが干からびる。ゴキブリたちの動きも鈍くなる。私はあと何度かスプレーを噴射した。

 消えるゴキブリ、見えてくるカーペット。それに伴って私の中の恐怖が少しずつ薄らいできた。この調子で――

 このとき、私は再び眠りについていた。




 私は今、部屋の中にいる。布団の中だ。布団の中で動けない状態で誰かからスプレーを向けられている。そう、「塩のスプレー」だ。

 しゅっ、という音とともに――


 私は飛び起きた。時刻は朝の7時。土曜日の朝にしては早起きすぎて、私は少し驚いていた。


「もう悪夢は見たくないな」


 私はそう思わざるを得なかった。だが、防げるかもしれない方法が見つかったということで少しだけ心が軽くなった。

 ……このことは、小説のネタにしよう。




 ――あれ以来、虫の夢は見なくなった。代わりに、顔にスプレーをふきかけられる夢をよく見るようになった。それでも虫よりは全然いいけどね。

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