第8話 「うす。」
〇二階堂紅美
「うす。」
卒業式。
時間より早く登校してしまって屋上に上がると…海君。
「や。」
あたしは伸びをしながら近付く。
「サンキュ。」
ふいに、海君の笑顔。
「何?」
「おふくろに、後押ししてくれただろ。」
「ああ…後押しも何も…」
少しだけ春っぽくなった風が、あたしの髪の毛を揺らす。
「おまじないが効いた?」
「ああ。効果抜群。」
「あはは。」
海君に並ぶ。
「…おまえは?ハイテンションが治ったみたいだけど。」
「うん。あたしも解決。」
「解決?」
「ん。ちゃんと
「……」
「ずっとさ…沙都に向き合うの怖かったんだ。あれから。」
自分の爪先を眺める。
「沙都には、あたしの汚れた部分って知られたくないって思ってたから…だから、怖かった。でも、今のあたしは違うの。」
「?」
「どんな親でも、あたしを生んでくれたことに間違いはないから…あたしが信じれば怖いことなんて何もないなって。」
「紅美…」
「だってほら、こんなにいい名前付けてくれた親だし。」
あたしは満面の笑み。
それを、海君は優しい目で見てる。
「…いつ発つの?」
少しだけ、景色が緩む。
「4月8日。」
「海君、誕生日じゃん。」
「ああ。おまえ、デビューいつだっけ。」
「4月4日。」
「じゃ、CDは買ってくよ。」
「サンキュ。」
空気が、やわらかい。
こんなことも…もうないのかな。
アメリカか…
「あ。」
「ん?」
「あたし、もう一つお礼言わなきゃ。」
泣きたくなるのを我慢して、あたしは心をこめる。
「紅美が礼?怖いな。」
大好きな笑顔。
気付いてしまった自分の気持ちを消すために…笑わなきゃ。
「……」
「何だよ。」
チャイムが鳴り始めた。
あたしは少しだけ歩きながら、海君に言った。
「探してくれて、ありがと。」
* * *
〇二階堂 海
「よっ。」
本部の帰り。
久しぶりに歩いて音楽屋の前を通ると、
のっぽの背中に声を掛けると。
「海君。」
相変わらず…可愛い笑顔。
「何してるんだ。忙しいんじゃないのか?明後日だろ?デビュー。」
「別に何もすることないんだ。デビューったってCD出すだけだし。海君こそ、アメリカに行く準備で忙しいんじゃないの?」
「ああ…」
思わず、小さく笑う。
「何。」
「いや、おまえと紅美の喋り方って同じだなーって。」
俺の言葉に、沙都は嬉しそうな笑顔。
…本当に、素直な奴。
「時間あるのか?」
「うん。」
「何か食おうか。」
「やったー。」
そんなこんなで、俺は沙都と歩き始める。
「結婚はいつすんの?」
「まだまだ先さ。」
「でも、朝子ちゃんとするんだよね?」
沙都の、意味深な問いかけ。
「他に誰がいるんだよ。残念ながら、俺はそんなにモテない。」
小さく笑う。
天気がいいせいか、気分がいい。
もうすぐ、この道ともしばらくお別れだというのに、俺の足取りは軽い。
「紅美ちゃんさあ。」
「ん?」
「海君のこと、好きだったんだよね。」
「…え?」
沙都の言葉に、思わず顔が緊張する。
「もっとも、自分では気付いてなかったみたいだけど。」
「な…んだよ、それは。」
取り繕ったように笑ってみせる。
紅美が…俺を?
「僕、いつも紅美ちゃん見てたからさ…あー、紅美ちゃんは海君が好きなんだなーって。」
「あはは。年寄り扱いされてるんだぜ?」
「それは、紅美ちゃん、ああいう人だから。」
「……」
複雑な気持ちになってしまった。
でも、今…沙都は『だった』って言ったんだ。
過去形だ。
「海君?」
沙都が、俺の顔をのぞきこむ。
俺は首を傾げて笑って言った。
「いくらそうでも、残念だな。俺と紅美はイトコだ。」
* * *
「気を付けてね。」
そう言って、母さんは少しだけ唇を噛みしめた。
俺が渡米したいと言ったあの日から…両親とは何度も話し合った。
親父は俺の気持ちを尊重してくれたが、母さんは…しばらく渋っていた。
二階堂では幼い頃に適性検査があって、不適格とされる者は二階堂からは出される。
二階堂は二階堂の者と。
昔からそう言った婚姻関係の中で生まれた者の能力は高いが、俺には…二階堂の血は半分しかない。
母さんが渋っていた原因の一つは…きっとそれだ。
「母さん。」
まだ浮かない顔をしている母さんの背中に手を添える。
「?」
「心配かけるけど…俺は大丈夫だから。」
恐らく…並大抵じゃない試練が待ち受けてると思う。
だけど、いずれ俺が日本の二階堂を背負って立つには…それらをクリアしない事には始まらない。
「…うん。しっかりやって来なさい。」
俺を目を見た母さんは、小さく何度も頷きながら、俺の腕に触れた。
「海さん、そろそろ。」
「本当に見送り行かなくていいの?」
泉が拗ねたような顔で言う。
「そんな大げさにしなくていいよ。永遠の別れじゃあるまいし。」
「でも…せめて朝子くらいはさあ…」
泉の髪の毛をわしゃわしゃと撫でて。
「夕べ、ちゃんと話したから。」
そう言うと、泉は不満そうながらも…少しだけ照れたような目で俺を見上げた。
「兄貴、元気でね。」
「ああ、空もな。じゃ、行ってきます。」
別宅の二階の窓を見上げると、朝子。
少しだけ見上げて…手を上げる。
…夕べ、朝子は。
「あたし、待たないから…」
赤い目をして、そう言った。
「あたしが待ってるって言ったら…何だか重荷になっちゃいそうだし…だから、待たない。いい人が見つかったら、さっさと結婚だってしちゃうし…あたしのことは気にしないで。」
その言葉に、俺は何も言うことができなかった。
それが…答えになってしまったようだ。
車が動き出す。
心の中で朝子に謝りながら、俺は空港に向かった…。
* * *
「やあ、おっさん。」
「…誰がおっさんだ。」
空港に着くと、紅美と
「三人で来たのか?」
「うん。」
「紅美の車で来たんだよ。」
「チャレンジャーだな、おまえら。」
「失礼ね。もう、若葉マークも取れてるんだよ?」
「ペーパードライバーのクセに。」
紅美と
どうして、ここにチョコちゃんがいるんだ?
俺が少しだけ難しい顔してると。
「報告があってさ。」
「報告?」
「うん。チョコと、婚約した。」
「…あ?」
口が開いたままになってしまった。
だって、こいつら…つい先月卒業したばかりで…
「な…なんで。付き合ってたのか?」
「付き合ってはなかったけどさ…一緒にイギリス留学しようと思って。」
確か、二人とも桜花の大学に…
「で?留学と婚約とどういう関係が?」
「親父さん達が反対してたんだ。留学のこと。」
「…それで婚約?」
「うん。」
チョコちゃんを見る。
「
俺の問いかけに、チョコちゃんは恥ずかしそうに。
「はい。」
頷いた。
「…陸兄、大喜びだろ。」
「あはは、わかった?」
「ますます身内が…」
「それで、海君のこと喋ったよ。」
「…え?」
俺が驚いた顔をすると。
紅美が。
「
俺のネクタイを引っ張って言った。
「あ…ああ。」
驚いた。
実は俺とチョコちゃんが…腹違いの兄妹だ…って事かと思ってしまった。
…まさかな。
勝手に勘違いした事を笑ってしまう。
「アナウンスかかってるよ。」
ニューヨーク行きの便のアナウンス。
急に…名残惜しい気がしてしまった。
「ああ。じゃ…」
「頑張ってねー。」
手を振って歩き出して…もう一度振り返る。
「?」
「紅美。」
「…あたし?」
「レコーディングか何かでアメリカ来たら、遊びに来いよ。」
大声でそう言うと。
「行ったらねー。」
紅美は笑いながら手を振った。
その笑顔を、焼き付けておこうと思った。
向こうで頑張るために…
もう閉じてしまったはずの、紅美への想い。
それでも、やっぱり勇気の出るおまじないは…
紅美の笑顔なんだ…。
* * *
〇
「ど…どうして?」
空ちゃんが、目を丸くしてあたしに言った。
「どうして、兄貴のこと待たないって…」
「…あたしたち、やっぱり縁がなかったのよ。」
あたしは笑いながら答える。
「…後悔しないの?」
遊びに来てる紅美ちゃんが、低い声で言った。
「え?」
「後悔しないの?朝子ちゃん、海君のこと好きなんでしょ?」
「…だけど、海君は、そうじゃなかったみたいだし…」
「……」
パイ生地を、伸ばす。
この三月に短大を卒業したあたしは、結婚するとばかり思ってたから就職先も決めてなくて…現在職探し中の無職だ。
二階堂は一般企業も経営してるから…
あたしに出来そうな仕事がないか、探してみようかな…
「あたし、ずっと待ってた…海君が何か言ってくれるの。」
伸ばしたパイ生地を型に入れる。
「でも…アメリカのことも、仕事のことも、何も言ってくれなかったし…ああ、あたしって必要とされてないのかなーって思ったらイヤになっちゃって。」
「兄ちゃん、謎の人だからな…」
泉ちゃんのつぶやき。
「だから、このまま待ってて海君の重荷になるのもイヤだし。さっさといい人見つけて、お嫁に行く方が正解かなーって。」
笑いながらそう言うと。
「どこに嫁に行っても、あたしは朝子の味方だからねーっ。」
泉ちゃんが、あたしの手元から切ったリンゴをつまみ食いした。
「もうっ、それ入れるのにっ。」
「いいじゃん。」
海君がいなくたって、あたしは笑える。
今までみたいにあれこれ期待して、それが外れてガッカリするより、最初から何もない方がいい。
海君にさよならを言ってしまってからと言うもの、あたしはなんとなく…気持ちが軽くなっている。
「そういえば、紅美忙しくなるんだって?」
空ちゃんが、テレビをつけながら紅美ちゃんに問いかけた。
「ああ…なんか事務所を揚げての大イベントがあるらしくてね。」
「何それ。」
「まだわかんないんだ。」
「じゃ、陸兄も忙しくなるんだ?」
「みたい。高原さんが中心になって、何か企んでるらしいよ。」
「楽しみだねえ。あんたも早く有名んなって、海外ツアーとかやんなよ。」
「やりたいねえ。」
紅美ちゃんと空ちゃんが、そんな会話をしてると。
「そしたらディカプリオと仲良くなって、あたしを紹介してね。」
泉ちゃんが、相変わらずリンゴをつまみ食いしながらそう言ったのよ…。
* * *
〇二階堂紅美
「紅美。」
本家に長らくおじゃまして、朝子ちゃん作のパイもごちそうになって。
帰ろうと靴を履いてるとこで、空ちゃんに呼び止められた。
「何?」
「あたしも帰るから、そこまで一緒しよ。」
「うん。」
本家の門を出て、公園の下まで来ると空ちゃんが。
「聞いていい?」
あたしの顔をのぞきこんだ。
「ん?」
「兄貴と、何かあんの?」
「…は?」
空ちゃんの問いかけに、あたしの眉間にしわが寄る。
「泉も朝子も知らないことだけどさ…母さんから聞いたんだ。兄貴、あんたにはアメリカのこと言ってたって。」
「ああ…あたしが仕事に関係ない者だから、言いやすかったんじゃないの?」
「…愚痴も?」
「そうじゃない?」
「……」
道の端にたまった桜の花びらが、風で舞う。
ああ…春も終わるなあ…
「兄貴ってさ…」
「うん。」
「うちの者には、愚痴の一つも言わなくてね。」
「へえ。」
「だーれにも、腹を割らない人だったんだけど。」
「あはははは。」
空ちゃんの言葉に、あたしは笑う。
「何?」
「海君も言ってたよ。空ちゃん、いっぱい秘密持ってる怪しい女だーってさ。」
「……」
空ちゃんは、あたしの言葉に首をすくめた。
「海君さ、自分では気付いてなかったと思うけど…」
「?」
あたしは、桜の木を見上げながらつぶやく。
「空ちゃん達とお父さん違うじゃない。それで、チョコのことを愛しく思ったり、早乙女さんのこと意識したりすること、後ろめたく思ってたみたい。」
「な…なんで。」
「さあ…わかんないけど、わかるような気がする。」
「何それ。」
「あたしだって…あんな親だけど、血がつながってるって思ったらさ…」
「紅美…」
「父さんたちに内緒で、墓参り行ってきちゃった。」
小さく笑うと、空ちゃんが背中をさすってくれた。
「何か、その夜は父さんたちの顔をまともに見れなくてさ…悪いことじゃないんだけど、なーんか後ろめたかったんだよね。」
「…どうだった?お墓参りしてみて。」
「小さくて慎ましいお墓だったけど…綺麗でさ。なんとなく不思議に思ってお寺の住職さんに聞いたら、父さん達が…いつも掃除に行ってたみたい。」
「…陸兄たちが?」
「うん。すごく嬉しかったけど、そのお礼言うなんてのもなー…陰でコソコソしてたのがバレちゃうじゃん。」
急に空ちゃんが立ち止まった。
「空ちゃん?」
立ち止まった空ちゃんを振り返ると。
「…あんた、強くなったね。」
涙ぐんでる。
「な…何ー。」
「一時はどうなるかと思ったけど…なんて、あたしは記憶なくしてたから…あれだけど…」
「……」
「陸兄も、麗姉も…みんな、あんたのこと愛してるからね?」
「…うん。」
あたしは空ちゃんの手を握って。
「海君もさ、謎の男だけど家族のこと大切なんだーって優しいこと言ってたよ。」
笑顔で空ちゃんの顔をのぞきこむ。
すると空ちゃんは。
「ふん。あの男、素直じゃないからわかんないんだよねっ。」
って、いじわるそうな顔をした。
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