第7話 「あー…疲れた。」

 〇二階堂にかいどう うみ


「あー…疲れた。」


 車の中で、思わず独り言。

 突然の降雪もだが、まさか積もるほど降るとは。

 雪は止んだものの、この田舎道に降り積もった雪は、簡単には前に進ませてくれない。


 一人で出向いた現場が早く片付いた。

 今は本部も比較的落ち着いている。

 そんなこんなで、俺はお気に入りの温泉に立ち寄って体を休める事にした。


 温泉宿まで、もう少し。

 しかし、雪のせいでいつもより時間がかかる。


「…暗くなったな。」


 細い道を外れないよう気を付けて走ってると…前方に人が歩いているのが見えた。

 リュックを背負った背の高い男。

 当たらないようにゆっくり追い越して、サイドミラーを見る…と。


「…え。」


 思いがけない姿に車を停め、バックさせる。

 窓を開けて顔を覗き込むと…


「あれっ…どうしたの?」


 そこにいた紅美は、真っ赤な鼻で驚いた顔をした。

 …ふっ。


「おまえ、何やってんだよ。こんなとこで。」


「そこにさ、いい木工所があんのよ。ギター作ってもらいに行ってたんだ。海君は?」


 少しだけ前髪についた雪を、払い除けながら…笑顔の紅美。


「俺?俺は現場の帰り。早く終わったから、一泊して帰ろうかなと思って。」


「ラッキー。」


 紅美は、そう言って助手席に乗り込むと。


「あたしも泊まりたいなーって思ってたのよ。」


 お願いポーズ。


「…何言ってんだ。」


「いいじゃない。あの温泉でしょ?あたし、お気に入りなんだー。」


「甘い。駅まで送ってやるから帰れ。」


「冷たいなー。今から帰ったら夜中んなっちゃうじゃんか。」


「……」


 根負け…と言うか…

 こんな所で偶然紅美に会えるなんて、嬉しい以外の気持ちはない。

 あの屋上からこっち、紅美は学校でも俺に話しかけてこなかったし、家にも遊びに来なくなった。

 気まずいと思ってたのは…俺だけか。


「おととし泊まった部屋空いてるかな。すごく景色いいんだよね、あそこ。」


「おまえ、高い部屋じゃないか。ちょっとは遠慮しろ。」


「海君も絶対気にいるって。」


「……」


「何。」


 俺が黙ると、紅美はキョトンとした顔で俺を覗き込んだ。


「相部屋のつもりか?」


「当り前じゃない。もったいない。」


「バカ言うな。」


「何で。兄妹にしか見えないって。」


「……」


「あたしの卒業祝いってことで、ゴージャスにいこうよ。」


 紅美は満面の笑み。

 確かに、どう見ても兄妹だよな。


「…そうだな。たまには、贅沢もいいか。」


 俺がつぶやくと。


「じゃ、船盛りも頼んでいい?」


 紅美は、思いきりはしゃいだ声で、そう言ったんだ…。



 * * *


「あっ、おまえっ、そんなに飲むなよ。」


 キューッ。

 紅美が、熱燗を一気に飲んだ。


「うはーっ。きくねえ!」


 船盛りを前に、紅美はご満悦の様子だ。


「さ、海君も飲んで飲んで。」


 紅美が、俺のお猪口に酒を注ぐ。


「…一応教師と生徒だぞ?」


「何か言った?ニセ教師。こんなとこに来て野暮なこと言わないでよね。」


「……」


 紅美の言葉に、俺は無言で酒を飲む。


「おっ、いい飲みっぷり。」


「…おまえさ。」


「んー?」


 刺身に手を出してる紅美に問いかける。


「何かあったのか?」


「何か?」


 紅美の手が止まる。


「何かって?」


「いや…何か、やけにテンション高いから…」


「…テンション高いと、何かあるの?」


「俺がタバコ吸うのとか、おまえの保健室と同じだろ?」


「……」


 一瞬の沈黙のあと。


「あはははは!」


 紅美は爆笑した。


「海君の観察力もすごいねぇ。」


「…おまえ、酔ってるな?」


「うん。まわってきた。」


 紅美は、すっかりいい気分になっている。


「海君。」


「あ?」


「アメリカ、行かないの?」


 突然の問いかけ。


「…まだ迷ってる。」


「何で迷うの?」


「何でって…」


 紅美は箸を置いて首を傾げながら。


「チャンスってのはさ、神様がくれるプレゼントなんだよ?それを開けなくて後悔するより、開けて後悔する方がいいと思わない?」


 俺をまっすぐに見て言った。


「……」


 思わず、何も答えられなくて黙ってると。


「あたしは今まで色んなチャンスをもらったのに、全然開けられなかったんだ。だから、今度こそは!って思ってるんだけどね。」


 紅美は、右手を握りしめて言った。


「どんなチャンス?」


「言わない。」


「何だよ、それは。」


「あたしのはいいの。でも、海君のは、そう何度もなさそうじゃん。」


「…まあ、な。」


「昔から言ってる事なのに、なかなかだよね。どうして、織姉とか行かせてくんないの?」


 刺身を、パクッ。


「言ってないし。」


「言ってないの!?」


「ああ。」


「何で。」


「…言いにくくて。」


「言わなきゃ、わかんないじゃんかー。」


 思わず、紅美に説教されて小さくなる。

 確かに、言わなきゃわからない。

 だが…日本の二階堂を。と、期待されてるのが分かるだけに…



「全く。パスワードに使うほどの入れ込み方なのに。」


 ぼやいてる紅美の言葉に、顔をあげる。


 パスワード…Beyond the sea


「そう言えば、おまえ…何でわかった?パスワード。」


 資料室、俺のデスクのパスワード。

 紅美は簡単に開けて、自分の生い立ちを知った。


「簡単過ぎるよ。」


 紅美は何でもないように。


「ま、他の人じゃわかんなかったかもね。」


 って笑ったんだ…。



 * * *



「…起きてるか?」


 真夜中。

 なかなか値付けなくて声をかけると。


「起きてるよ。」


 紅美は、俺に背中を向けたまま答えた。


「眠れないのか?」


 紅美の方に顔を向けて問いかけると。


「月がすんごいきれいでさ、見惚れてんの。」


 少しだけ開けてる障子の間を見つめたまま言った。


「月か…。」


 俺は起き上がって、障子を開ける。


「満月か。」


 晴れ渡った夜空。

 静かな夜。

 まさか…紅美とこんな夜を過ごすなんて。



 …たらふく食べて、いろんな話をして。

 アルコールをとばそうとか言って、温泉に浸かって帰ってきたら。

 当り前のように、布団が並んで敷いてあった。

 俺は絶句してしまったけど。

 紅美は。


「窓際とった。」


 なんて、普通に布団に入った。


 …どうかしてるな、俺は。

 俺には、朝子がいる。

 紅美への想いは…なかった事にしなくちゃいけない。



華月かづきちゃんが生まれた夜って、こんな夜だったのかな。」


「え?」


 ふいに、紅美のつぶやき。


「華月ちゃんの生まれた夜は、すごくきれいな月夜だったんだって。」


「ああ…華やかな月の夜に生まれたから華月だっけな。」


 紅美の布団の横に座って、月を眺める。


「あたしは…」


「ん?」


「あたしの名前は、どういう想いでつけられたのかな…」


「……」


 紅美を振り返ると、月光でいつもより色白に見えた。


 紅美の名前は…関口亮太の娘であった時から変わっていない。

 養女にする時、名前を変えないのかと周りは言ったらしいが…

 陸兄と麗姉はそのままの『紅美』を、養女に迎えた。



「…やっぱ、漢字の通りだろ。紅く美しく…名前負けだな。」


「何よ、それっ。」


 俺の言葉に紅美は起き上がって。


「…でも、好きな名前なんだ。」


 って、つぶやいた。


「…ああ。」


 どちらともなく、隣に座る。

 肩を並べて月を眺めて…

 どれくらい時間がたっただろう。

 ふいに紅美が。


「勇気が出るおまじない、してあげようか。」


 小さく笑いながら言った。


「是非ともしてもらいたいね。そしたら、すぐにでもアメリカに行くぞ。」


 俺も笑いながら答える。

 すると。


「じゃ。」


「え…っ…」


 頭の中が真っ白になった。

 紅美が。

 紅美が、俺にキスしてる。


「……」


 情けない事に動けないでいると、ようやく口唇が離れて。


「織姉に、言えるような気がしてきたでしょ?」


 紅美が、何でもない顔で言った。


「な…何なんだよ、おまえは…」


 思わず、声がうわずる。

 落ち着け。

 これじゃ、バレる。

 大の大人が…キスぐらいで…


「海君だって、したじゃない。」


 紅美は布団に入りながら、笑った。


「…え?」


 俺は相変わらず間抜けな声。


「保健室で。」


「お…」


「あのお返し。」


「…おまえ、起きてたのか?」


 あれは九月…

 保健室で眠ってた紅美に…


「起きてたって言うか…ウトウトしてたんだけどさ、あんなことされたら目ぇ覚めちゃうよ。」


「……」


 盛大にうなだれる。

 まさか…起きてたなんて。


 あの時の俺は、紅美を助けたくて…だけど何も出来なくて。

 もどかしさしかなかった。


「でもね、すごく嬉しかったの。」


「え?」


「何だか…ああ、あたしにも味方がいるんだなって、心強かったんだ。」


「……」


「おやすみ。」


 紅美は深々と布団をかぶる。

 俺は、口唇にその感触を思い出しながら。

 朝まで…眠ることができなかったんだ…。



 * * *


 〇二階堂 空


「アメリカ!?」


 泉が大声で言った。


「どっどうしてアメリカ!?」


「ずっと考えてたんだって。」


 母さんは頬杖をついて、ちょっとばかり沈んだ声。


「父さんはなんて?」


「行って来いって。」


「そんな〜。」


 泉、兄貴のこと大好きだもんなあ…

 ま、父さんもアメリカ勤務経験者だから兄貴のためになると思って承諾したんだろうけど。

 母さんは、面白くなさそう。


「姉ちゃんは、どう思う?」


 泉に話をふられて、それまで黙ってたあたしは、驚いたように泉を見る。


「…どうって…」


「だって、アメリカだよ!? それも、期限なんてないって!現場で行くってのとは違うんだよ!?」


「……」


「姉ちゃん!」


 あたしは、少しだけ間を開けて。


「何かさ…」


 口を開く。


「兄貴、仕事好きだけど…自由じゃないじゃん。」


「…え?」


 あたしの言葉に、泉はキョトンとして、母さんはゆっくりあたしを見た。


「昔から、跡取りとして頑張ってさ…ワガママも弱音も言ったことなんてないじゃない。そんな兄貴が、初めて言ったんでしょ?なら、あたしは…兄貴に行って欲しいなって思う。」


「空…」


「母さんは何で反対してんの?」


 あたしの問いかけに、母さんはうつむいて。


「…どうしてかしらね…」


 小さく答えた。


「空の言う通り。今まで海は跡取りとして頑張ってきてくれた。でも…アメリカに行きたいなんて、いつから考えてたのかしらね…こんなにそばにいたのに…気付かないなんて、母親失格ね…」


「そんなの、あたし達だって気付かなかったよ。」


 泉が、母さんの肩に手をかける。

 母さんが涙ぐんで、つられて泉までが目を潤ませてる。


 確かに…

 いつから?どの瞬間から?

 兄貴は、アメリカに行きたいなんて思ってたんだろ…


「…あ…」


 ふいに朝子がリビングに入って来て、あたし達の様子に。


「ご…ごめんなさい…」


 引き返そうとした。


「朝子。」


 あたしは、朝子を呼び止める。


「…はい。」


「聞いた?」


「……」


 朝子は、ゆっくり頷いた。

 …目が赤い…

 朝子も知らなかったのかな…兄貴がアメリカに行きたがってたこと。


「…大丈夫?」


「あ…あたし?あたしは、全然大丈夫。」


 そう答えた朝子の目からは、ポロポロ涙がこぼれ落ちたのよ…。



 * * *



 〇二階堂紅美



「あ、しき姉。久しぶり。」


 事務所から帰ると、珍しく織姉が来てた。

 何やら、重苦しい雰囲気で父さんと母さんと三人で話してる。


たまきさんは全然反対なし?」


「ええ…むしろ大賛成してる。」


 母さんの問いかけに、織姉は無気力に答えてる。

 あたしは、冷蔵庫を開けてビールを取り出すと、一気飲み。


「はーっ。おいし。」


 一人で小さくそんなこと言ってると。


「紅美。」


 父さんが、あたしを呼んだ。


「何。」


「何とかって木工所から、ギターができたって連絡があったぞ。」


「あっ、嬉しいなー。思ったより早かったな。」


 もう一本ビールを持って、父さんの横に座る。

 テーブルの上のクッキーを、ひとつまみ…


「……何、深刻な話?」


 クッキーを手にしたまま、三人を見渡して言うと。


「海のこと。」


 父さんが、あたしの手からクッキーを取って食べた。


「何。海君がどうかしたの?」


 あたしは、新しいクッキーを取って口に入れる。


「アメリカに行きたいって…」


 織姉の言葉に。


「ああ、やっと言ったんだ。」


 あたしは即答。


「……」


「ん?」


 三人が黙ってあたしを見つめるもんだから、あたしの動いてた口は止まる。


「海から何か聞いてたの?」


 織姉が、あたしの目をまっすぐ見て言った。


「き…聞いてたって言うか…」


「なんて?」


「…アメリカアメリカって、しょっちゅう言ってたけど…」


「……」


 三人は顔を見合わせて。


「他は?」


 同時に問いかけた。


「ほ…他って…」


「仕事がイヤだとか…あいつが嫌いだとか…」


 父さんが顔を近付ける。


「しっ仕事は好きだって言ってたよ。人の悪口も聞いたことない。でも…」


「でも?」


 三人の生唾飲み込む音が聞こえそう。


「…失敗して落ち込んだり?自分に対する愚痴みたいなのは聞いてたけど…」


「……」


 なぜか三人は顔を見合わせて黙ってしまった。

 あたしはビールを開けて飲む。

 一瞬のうちに、のど乾いたな。


「織姉、反対なの?」


 あたしが問いかけると。


「…あまり、気が進まない。」


 織姉は覇気のない声。


「どうして。」


「何考えてるのか、分からないんだもの。」


 …うーん。

 それって、みんな分からないんじゃないのかな。

 そう思いながらも、あたしはビールを飲み進める。


「家族のことだって…海は今まで何一つ言った事がないのよ。」


「んー…まあ、昔から真面目でいい子でしかなかったな。反抗期もなかったし。」


「…泉みたいにわかりやすい子なら…」


「あ、心配ないんじゃない?」


 織姉と父さんの会話に、入り込む。


「え?」


「海君、結構家族自慢してるよ。ホームルームの時もしゃべってたなあ。」


「…海が?」


「うん。アメリカの事は、ただ単に言いにくかったみたい。自分はここにいなくちゃいけないって、そんな意識があったみたいで。」


 ビールを、もう一口。


「二階堂を背負って立つには今の自分じゃダメだから、向こうでもっと大きな仕事にも手をつけてみたいんだって。」


「…そんなこと言ってたの?」


 織姉が、目を伏せる。


「うん。」


「二階堂を背負って立つのに…って?」


「だって、仕事も家族も大好きだって言ってたもん。」


 あたしの言葉に、織姉はほんの少し涙ぐんで。


「…仕方ないな…行かせてやるか…」


 って、笑ったのよ…。

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