第5話 「紅美。」

 〇二階堂 海


「紅美。」


 車の窓を開けて呼び止めると、紅美は振り返って。


「あ、海君。」


 走って来た。


「どこ行くんだ?」


「帰ってるとこ。沙也伽の見舞い行ってたんだ。海君は?」


「俺も帰り。久しぶりに早く帰れるよ。」


「あー、じゃ乗せてー。」


「おう。」


 紅美は助手席に乗り込むと。


「超かわいかったよ。沙也伽の子供。」


 そう言いながら、シートベルトをしめた。


「男だっけ?」


「うん。サルみたいだったけど、希世きよ似かな。」


「赤ん坊を目の当たりにすると、自分も早く結婚して子供が欲しいって感化されるんだろうな。」


「あはは。そうだね。」


「おまえも、そう思った?」


 俺の何気ない問いかけに、紅美は少しだけ間を開けて。


「あたしは関係ないし。」


 苦笑いをした。


「関係ない?」


「うん。結婚しないんだー。一生、父さんと母さんの世話になるんだもん。」


「…親不孝者だな。」


 もしかして、生い立ちを気にしてるのか…それとも…


「…家出した時の彼氏が、忘れられないのか?」


 直接紅美から久世君の話を聞いた事はないが、おそらく誰かから聞いてるとは思ってるはず。

 赤信号で停まりながら、遠慮がちに問いかける。


「ううん…」


 紅美は窓の外を眺めながら。


「あいつ、元気かなあ…」


 小さくつぶやいた。


「……」


 久世、慎太郎…

 紅美…まだ、あいつの事…

 言葉を探してると、紅美は俺の方を向いて。


「でも、あいつとは関係なく、結婚しないって決めてる。」


 笑いながら言った。


「何で。」


「…なんとなく。」


「なんとなくで結婚しないなんて言ったら、陸兄たち泣くぜ?」


「そうかな。喜ぶんじゃないかな。」


「喜ぶかよ。」


「あ、信号青だよ。」


 せかされてアクセルを踏む。


 結婚しない…

 紅美の言葉に、なぜかホッとしている自分を不思議に思いながら。


「寄ってくか?」


「うん。」


 俺は、紅美を連れて家に向かった…。



 * * *



「おい。」


 バッ。


「…見つかったか。」


 別に監視してるわけじゃないが…

 紅美を目で追ってしまうクセがついた。

 どうも姿が見えないと思って保健室に行くと…いた。


「ったく。おまえなあ…」


 布団をはぎ取って、紅美を見下ろす。


「また留年するつもりか?」


 目を細めて、言うと。


「仮病じゃないもん。」


 布団を奪い返した紅美は、俺に背中を向けた。


「風邪か?」


「生理痛。」


「……」


 まったく…

 生理痛と言えば俺がひるむとでも思ってるのか?


「薬飲んだか?」


 椅子に座る。


「これぐらいで飲まないよ。」


「その程度なら授業受けれるんじゃないのか?」


「男子には分からない痛みなので。」


「まあ、そうだけど…おまえ、何か悩んでんのか?」


 紅美の頭をガシッと掴む。


「こっち向け。」


 ぐぐい。と、頭の向きを変えさせようとした。


「いたっ…何よ…別に悩んでないよ。」


「でも、おまえって悩みがあると保健室で寝てるじゃないか。」


 図星だったのか、紅美は体を硬直させた。


「…悩みってほどじゃないよ。」


「小さくてもいいから、言え。」


「……」


沙都さとの事か?」


「…わかんない。」


「わかんない?」


「……」


 せっかく戻って来たのに、紅美と沙都は避け合ってるように見える。

 俺としては…前みたいに沙都が紅美にベッタリでいてくれた方が…

 …あきらめもつくのに。

 こうやって紅美を一人にされると…フツフツと…俺の中で抑えていた願望が芽を出してしまう。


 …紅美が好きだ。

 誰にも言えない想いが、時々窮屈そうに顔を出す。



「…紅美。」


 小さく声をかけると、紅美は目を閉じたまま。

 …寝てるのか?


「……」


 優しく頭を撫でる。

 それでも紅美は起きない。


「……」


 顔を近付けて…そっと唇に触れた。


「……」


 ああ…何やってんだ俺。


 悪い……沙都。



 * * *


 〇ひがし 朝子あさこ


「うわあ…」


 秋。

 お弁当のお礼で連れて来てもらってる、夜景の綺麗な公園。

 すごくきれい。


「寒くないか?」


「うん。」


 キラキラ、あたしの気持ちも同じように光る。

 大好きな人と、こんなきれいな景色の場所で同じ時間を過ごせるなんて…

 …でも。

 ちょっぴり、眠い。


 と、いうのも。

 あたしは、この日のために徹夜して論文を書き上げたのよ。

 海君も今年は担任があるおかげで、なかなか休みがなくて。

 やっとできた時間に、あたしは何とか滑り込むことができた。


「…朝子?」


「えっ?」


 ふいに、海君があたしの肩をつかむ。


「ななな何っ?」


 ドキドキして振り返ると、海君はあたしの顔をのぞきこんで。


「具合い悪いのか?」


 って真剣な目。


「ど…どうして?」


「ふらふらしてるぞ?」


「そんなことないよ。元気。」


「本当かー?」


「本当。」


 あたしは、精一杯明るい声。

 だって、せっかくのデート……デートなのかな…

 突然のように、トーンダウン。


 この『お出かけ』は、これで7回目。

 でも、どれもがあたしのリクエストで…そのどれも、海君はあたしに触れない。

 だから、さっきの肩に手をかけられたのはドキドキしちゃったな…。


 …あたしって、海君の何なんだろ。

 聞きたい気もするけど…怖い。


「朝子。」


 再び、海君の声。


「はっはいっ。」


「ドライビングシアターやってるぜ。行くか?」


 海君が、駐車場の向こうを指さして言った。


「あー…」


 そんなの見たら、寝てしまうかもしれない。

 …でも。

 もしかしたら、チャンスかも。

 寝たふりして、海君の肩に…なんて。


 かあああああ。

 一人で考えて赤くなる。


 あたしに、そんなことできる?

 やだ。

 最近、空ちゃんたちの影響、もろに受けてるような気がする…

 まるで…あたし、まるで欲求不満みたいじゃない。


「朝子?」


 考えこんでるあたしの顔を、海君がもう一度のぞきこむ。


「うっうん。行く。行こう。」


 あたしが顔をあげてそう言うと。


「後ろの方でもいいか?」


 海君は、笑顔。


「うん。」


 好都合。


 車に乗って、シアターの前まで行くとー…


「うっわ、カップルばっかだな。」


 海君が、首をすくめた。


「男同士でドライビングシアターって、来るの?」


 あたしの問いかけに、海君は大笑いして。


「それもそうだな。」


 車を停めた。


 タイミングのいいことに、映画は始まったばかり。

 …けど。

 あたしの視線は前の車のカップルに釘付け。

 ベッタリ…

 つい、うつむいて考えこんでると。


「眠い?」


 海君が、小さな声で言った。


「う…うん…少し…」


 罪悪感にかられながらも、あたしは答える。

 すると…


「帰るか。」


 突然、海君は後方に車がいないか確認した。


「え…えっ?」


「朝子、試験とかあって寝不足なんだろ?」


「あー…あ、全然大丈夫。」


「でも。」


「いやっ。帰らないっ。」


「……」


 ハッ。

 つい、本音が出てしまった。

 海君は、黙ってあたしを見てる。


「あ…ごごめん…子供みたいなこと…」


「いや…」


 海くんはエンジンを切ると。


「朝子でも、そんなこと言うんだなと思って。」


 て、笑った。


 ……


 な…何だか…いい雰囲気?


「じゃ、眠くなったら寝ること。な?」


「うん…」


 海君にそう言われて。

 つい…あたしはウトウトする。

 海君の肩によりかかりたいなー、なんて思っても。

 その肩の遠いこと遠いこと…


 あたしの欲望は睡魔に勝てなくて、ついに…眠りに入って…


「……」


 ん?

 うっすら目を開けると、すぐ近くに海君の顔。

 心臓が飛び出るほどの驚き!


 なっななななな何っ?

 もももしかして…キス?

 寝たふり…寝たふりしてなきゃ!

 あたしが必死で寝たふりしてると。


 ……?

 カクン。

 少しだけ、ゆっくりシートが倒れた。


 …何だ…シート倒してくれただけか…

 あたし、バカみたい。

 一人で浮かれて…

 こんなの、辛すぎる。


 海君があたしに特別な人であっても、海君にはただの許嫁でしかないんだわ。

 涙が出そうなのを我慢してると。

 こんなにも悲しいのに、あたしは睡魔に勝てなくて。

 いつの間にか……。




 * * *



 〇二階堂 海



「このくそ寒い日に先客とは。」


 俺が屋上でタバコ吸ってると、ふいに耳元でそんな声。


「…おまえ、見事だな。足音も出さずに…」


「あたしが敵なら、海君死んでるね。」


 紅美は、制服の上に羽織ってるカーディガンの袖を引っ張りながら。


「何悩んでんの?」


 俺の顔をのぞきこんだ。


「…何で。」


「タバコ吸ってるじゃない。」


「タバコ吸ってたら悩んでんのか?」


「うん。」


「……」


「悩んでるか、落ち込んでる時しか吸わないじゃない。」


 紅美がおどけてそう言って、俺は苦笑い。


「…おまえの観察力には脱帽だな。」


「で?何の悩み?」


 紅美の問いかけに、タバコを消して。


「…仕事。」


 つぶやく。


「二階堂の?」


「ああ。」


「学校は三月で終わりでしょ?」


「そ。それからのこと。」


 空を見上げる。

 ブルグレーにくすんだ色。

 なんとなく…気持ちに余裕が持てない。


「正直言って、このまま継ぐの、ためらってるんだ。」


「どうして。」


「まだ、やりたいことあるし。」


 髪の毛をかきあげる。

 大きくため息をつくと。


「ああ…アメリカね。」


 紅美は笑いながらそう言った。


「…何で?」


「言ってたじゃない。桜花の仕事終わったら、行きたいって。何、行かないの?」


「そう簡単にはな。」


「何で…あ、そっか…朝子ちゃんのこともあるしね。」


 ズキン。

 なぜか、胸が痛んだ。

 朝子のことはかわいいと思ってるし、もちろん…好きだ。

 でも、今の俺には朝子を受け止めてやれるほどの余裕がない。


「ね、聞いてもいい?」


「あ?」


「この人がおまえの許嫁だ、って言われて、はいわかりました、って思えるもの?」


「……」


 思わず、無言で紅美を見つめる。


「ごめん…変なこと聞いて…」


 俺が妙な顔をしてたのか、紅美は口唇を尖らせてうつむいた。


「だって、決められた恋って感じじゃない。自分の恋はできないのかなーって。」


「…残念ながら、人に決められた恋でも、俺と朝子はうまくいってます。」


 小さくそう答えると。


「…そうだったね。余計なお世話でした。」


 紅美はすねたような口調。

 しばらく沈黙が続いて。


「…さむっ。あたし教室帰ろーっと。海君も気を付けないと、老体に冷たい風は悪いよ。」


 紅美はそう言って非常口に走って行った。


「……」


 …つい、冷めたい言い方をしてしまった。

 自分でもわかってる…大人気ないって。

 でも…紅美に朝子とのことを言われるのが、一番辛い。


「は…」


 大きく溜息を吐いて、また空を見上げる。

 その色はやっぱり、俺の気持ちと同じくらい…くすんだままだった…。



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