第12話 「……」

 〇二階堂 空


「……」


 朝子の前では普通にしてるけどー…

 あれから、兄貴は食べ物も手につかないほどダークになっている。

 あたしだって…

 二人の会話を聞いてしまってから、紅美の切ない声が耳から離れない。


 あの夜から五日。

 紅美は、病院に来ない。



「あ、やっぱりここかー。」


 研修帰りの泉が、あたしを見付けて走って来た。

 景色のきれいな病院のカフェ。

 何かというと、あたしと兄貴はここで溜息を吐いている。


「ねえねえ、最近紅美に会った?」


 イスに座りながら、泉が言った。


「…ううん。疲れてたみたいだし、アパートでのんびりしてるんじゃないの?」


「それがさー、行ってみたんだけど、ここ何日か帰ってないみたいなんだよね。」


「え?」


 あたしと兄貴。

 同時に顔をあげてしまった。


「どうも彼氏らしき人がいるみたいで、その人んとこじゃないかってアパートの人は言ってたけど…何か聞いてない?」


「……」


 兄貴と顔を見合わせる。

 じゃ…紅美、あれから帰ってない…?



「…帰国した、なんてことないよね。」


 泉に問いかけると。


「あたし達に黙って?」


 泉はしかめっ面をした。


 あれからって…五日経ってるんだよ?



「あ、朝子にイチゴ買って来るって言ったままだった。泉、ちょっと買って来てよ。」


「えー?何であたしがー?」


「今晩、カプリに連れてってあげるから。」


「嘘っ。じゃ、行く。」


 食べ物で釣られるとは…

 我が妹ながら、単純で良かった。


「市場のでいいよねー?」


「うん。頼むねー。」


 ゴキゲンな顔で走ってく泉を見送って。


「…あたし、探そうか?」


 兄貴に問いかける。


「いや……自分で出かけたなら、そっとしといた方がいいかもしれない。」


 紅美に限って、事故や自殺はあり得ない。

 それなら…

 兄貴の静かな声に、頷くしかなかった。

 …傷心旅行かもしれないしな…



「…兄貴。」


「ん?」


「大丈夫…?」


 顔をのぞき込むと。


「心配すんな。」


 兄貴は、あたしと目を合わさないまま…少しだけ笑顔で答えた。



 * * *


 〇二階堂 紅美



「…紅美ちゃん?」


「や。」


 あたしの突然の訪問に、マキちゃんは目を丸くしてる。


 夕べ、あてもなく列車に乗って…

 偶然、マキちゃんの住んでる街に向かってることに気付いたあたしは。

 駅で一晩過ごして、朝早く…マキちゃんを訪ねた。



「どうしたの?何かあったの?」


 マキちゃんは、冷えたあたしの体を抱き締めるようしてに家の中に入れてくれた。


「しばらく、泊めてくれない?」


「それはいいけど…」


「……」


「…海君は?」


 あたしの様子から察しがついたのか、マキちゃんの目は鋭くなってる。


「いろいろあってさ…ダメんなっちゃった。」


 できるだけ、今のあたしにできる笑顔で言う。


「あたしって、ダメだね。恋愛向きじゃないのかも。」


「紅美ちゃん。」


 ふいに、強い声で言われて身構える。


「…はい。」


「ちゃんと座って、ちゃんと話して。」


「……」


「そんな作り笑顔で会いに来られて、嬉しいわけないでしょ?ちゃんと事情を話して。」


「…ごめん…」


 マキちゃんの言うことは、もっともだ。

 あたしってば…



「…あのね…」


 あたしは、暖炉の前に座って重い口を開き始めた…。



 * * *


「鈴木くん、一緒に寝てくれんの?」


 ベッドに入ろうとしたら、鈴木くんがノソノソと階段を上がってきた。

 マキちゃんちにお世話になって五日め。

 そろそろ帰ろうかな…なんて思いながらも、居座ってしまってる。


 この後…どうしようかな。

 マキちゃんは、気持ちが落ち着くまでいていいよって言ってくれたけど…

 そんなに甘えるわけにもなあ…


 レコーディングが終わって一ヶ月はオフなんだけど…

 そのオフも海君と…って決めてたから…辛いんだよね…。

 早く帰国して、周子さんのトリビュートアルバムに取り組んだ方がいいかな。



「…どうしたらいいかなあ…鈴木くん。」


 鈴木くんの頭をなでながら問いかける。

 今のあたしは、ふぬけ。

 何も、ない。

 根性も、やる気も、なー……んにも…ない。



「……」


 涙がこぼれてしまって、鈴木くんがあたしの顔をのぞき込む。

 一人の夜が、こんなに寂しいなんて。

 ずっと一緒にいようって…言ってくれた。

 あの声が…


「…い…っ…」


 突然…鈍い痛みが…


「あっ…マ…マキちゃ…」


 あたしのただならぬ様子に気付いた鈴木くんが、リビングに向かって吠え始めた。


「鈴木くん、何ー?」


 リビングから、マキちゃんの声。


「…うっ…」


 吠え続ける鈴木くんを不審に思ったマキちゃんが、階段をかけ上がる。

 そして…


「紅美ちゃん!?」


 うずくまってるあたしを見て、大声を出した。


「どうしたの!?」


「いた…痛い…」


「どこ!?どこが痛いの!?」


 遠くなってく意識の中。

 あたしは、海君と幸せになる夢を見た…。



 * * *


 〇二階堂 空


「…何か?」


 兄貴のアパートの前。

 見覚えのない女の子が立ってる。

 あたしが声をかけると、その子は。


「あなたは?」


 厳しい口調で、あたしに言った。


「あたしはこの部屋の住人の妹ですけど。」


「…海君の?」


「兄の知り合いですか?」


「今、彼はどこに?」


「え?」


 その女の子は、あたしの腕をつかむと。


「急いでるんです。」


 相変わらず、厳しい口調で言った。


 一体…何時間ここにいたんだろ。

 鼻が真っ赤。


「…じゃ、車にどうぞ。」


 仕方ない。

 兄貴の知り合いなら。

 それに、紅美のことかもしれない。

 ずっと前、紅美が言ってたような気がする。

 アメリカに、友達がいるって。


 車の中、女の子は始終無言。

 あっと言う間にたどり着いた病院。

 あたしは。


「この時間なら、そこのカフェにいると思うわ。」


 カフェを指さす。


「…どうも。」


 あたしの言葉を聞き終わるかどうかのところで、女の子は車を下りて歩き始めた。

 …兄貴は、聞いても話してくれないだろうな。


「…行くか。」


 車をパーキングに入れて、あたしもカフェに向かった…。



 * * *


 〇二階堂 海


「…マキちゃん?」


「…お久しぶり。」


 カフェで眠気を飛ばしてるとこに、突然…マキちゃんが現れた。


「どうして、ここが?」


 タバコを消して座り直す。


「アパートの前にいたら、妹さんって方がいらして、つれて来てもらったの。」


 マキちゃんは俺の前のイスに座ると、手袋をとって小さく深呼吸した。


 緊張した顔だな…


「…君の所へ?」


 伏し目がちに問いかけると。


「ええ。」


 マキちゃんは、キッパリと答えた。


「そうか…」


「どうして、紅美ちゃんを…」


「…すまないね。」


「え?」


「君にまで、いやな想いをさせて。」


「……」


「こうするしかなかった。もし、紅美と生きていくとしても…俺は今までの半分しか紅美を愛せないかもしれない。」


「…海君。」


「……」


「海君、あのね…」


「ん?」


 マキちゃんは、何か言いたそうな顔で俺をジッと見つめて。


「あの…紅美ちゃん…」


 言い始めた時。


「マキちゃん!」


 ふいに、カフェの入口に…


「紅美…」


「く…紅美ちゃん…」


 紅美が、息を切らして立ってる。


「ど…どうしてここにいるの!?」


 マキちゃんが紅美に駆け寄る。


「…マキちゃん。」


 紅美が険しい顔でマキちゃんを見つめると、マキちゃんは無言のままうつむいて…首を振った。


「…紅美…」


「……」


 俺が小さく声を掛けると、紅美は今まで見せたこともないような憎しみのこもった目で…俺を見た。


「…帰ろう、マキちゃん。」


「でも!」


「いいから。」


 マキちゃんの腕を引きながら出て行く紅美を、俺は見送ることしかできなかった…。


 * * *


 〇二階堂 空



「紅美ちゃん!どうして何も…」


「いいから、帰ろう。」


 紅美が『マキちゃん』って子の腕を引っ張りながら、カフェを出て。

 あたしは、それを尾行する。

 病院はお昼休みで、天気がいいことも手伝って中庭はにぎやかだ。


 …兄貴に向けた、目。

 切なくなった。

 どうして神様は…紅美ばかり傷付けるんだろう…



「空。」


 ふいに、腕を掴まれて振り返ると…


「わっちゃん…」


「何してんだ?」


「紅美よ。」


「あいつ…今までどこへ?」


 あたしが指差した方向に紅美を見付けると、わっちゃんはあたしと並んで歩き始めた。


「あの女の子の所にいたみたい。」


「誰だ?」


「紅美の友達みたいよ。兄貴とも顔見知りみた」


「紅美ちゃん!?」


 突然、目の前を歩いてた紅美が倒れた。


「紅美!」


 すかさず、わっちゃんが駆け寄る。


「紅美ちゃん!しっかりして!」


「君、ちょっと下がって。」


 わっちゃんが紅美の脈を計って。


「処置室に運ぼう。」


 そう言って、紅美を抱き上げた。


「あっあのっ…」


「?」


 マキちゃんが、わっちゃんに何か言いかける。

 でも、あたしがそばにいることに気付いて。


「あの…」


 わっちゃんの耳元で…何かつぶやいた。


「…え?」


 わっちゃんは丸い目でマキちゃんを見つめた後。


「…とにかく、処置室へ。もしかしたら入院が必要になるかもしれないから、君も一緒に来てくれるかな。」


 マキちゃんに言った。


 あたしは何がなんだかわからないまま、二人に続いた。



 * * :



「…流産…?」


「…ああ。」


 紅美を処置室に運んだわっちゃんが、重い口調で言った。


「昨日の夜だったらしい。出血がひどくて入院して…たぶん、海に知られたくなくて彼女を追ってきたんだろう。」


「妊娠…してたなんて…」


 そういえば…

 兄貴と最後に話してた夜。


『あたし、海君の…』


 紅美は、何か言いかけてやめた。

 もし、紅美が告白していたら…兄貴は今よりもっと悩んだかもしれない。

 それがわかったから…


 …紅美は、今でも兄貴のこと…

 憎しみのこもった視線。

 あれも全部、紅美の演出。

 今の兄貴には、恨まれるより笑顔の方が辛いはず…



「空…?」


 わっちゃんが、うつむいたあたしをのぞきこむ。


「…どうして…紅美ばっかり…」


「……」


「神様は不公平だよね…」


「空。」


 涙があふれる。

 これは、行き場のなかった…紅美の子供の涙…



「…紅美の様子、見てくる…」


 涙をぬぐって、病室に向かう。

 何もしてやれないけど…

 抱き締めてやりたい。


「……」


 無言でノックを三回。


「…はい。」


 中からは、マキちゃんの沈んだ声。

 ゆっくりドアを開けると、紅美は白い顔のまま眠っていた。


「…どう?」


「…全然、目を覚まさない…」


 マキちゃんはうるんだ瞳で、紅美の手を握ったまま。


「あたしが…あたしが、あんなことしなきゃ…紅美ちゃん、こんなことには…」


「……」


 あたしはマキちゃんの肩に手をかけて。


「あたしが…あなただったら、やっぱり同じことしてると思う。」


 優しい声で、言う。


「黙ってられないよ…紅美ばっかり…こんな…」


 あたしの言葉に救われたのか。

 マキちゃんは涙をポロポロこぼして。


「紅美ちゃん…作り笑いしながら、うちに来た…。」


 しゃべり始めた。


「精一杯の無理だったと思う。つい、この間…海君はかけがえのない人だ…って、幸せそうに笑ってたのに…それが、恋愛向きじゃないかもね…って…」


 点滴の雫が、涙のように落ちる。

 兄貴にしても紅美にしても…

 やっと見つけた、心の場所だったかもしれないのに。

 …やりきれない…



「神様は、どうして…」


 マキちゃんの泣き声を聞きながら。

 あたしは、紅美の寝顔を見つめていた…。


 * * *


 〇二階堂 海



「……」


 紅美の顔が、頭から離れない。

 …痩せてた…

 紅美のあんなに激しい目は…見たことない。

 …そうさせてしまったのは、俺だ…



「海君?」


 ふいに、朝子が俺を呼んだ。


「…あ、何。」


 慌てて顔をあげると。


「疲れてるんじゃないの?ここ…もう、いいから…」


「……」


 包帯で巻かれたままの、朝子の頬に触れる。


「…大丈夫だよ。」


「でも…顔色も悪いし…」


「ああ、泉が買ってきたイチゴがあったな。あれ、食うか?」


 できるだけの笑顔で言う。


「…うん。」


 少しだけ戸惑って、朝子は笑顔。


「あ、カフェで練乳わけてもらってくるから、ちょっと待ってな。」


「いいよ、そのままで。」


「甘いのが好きなクセに。」


「…ありがと。」


 今は、笑ってなければいけない。

 朝子のためにも…



 病室を出て、カフェに向かう。

 …今日もいい天気だな…

 そんなことを思いながら、廊下を歩いてると。


「そうそう、さっき中庭で倒れた日本人の女の子でしょ?」


 そんな言葉が、耳に入ってきた。

 …さっき中庭で倒れた…?

 ふいに、足が止まる。


「昨日の夜、マリノア病院にかつぎ込まれて入院してたんだって。」


「何で?」


「流産よ。」


「それなのに、車運転してここまで来たの?」


「そ。無茶するわよね。」


「移植のオペで来てる先生の知り合いなんだって?」


 …頭の中が、ヒンヤリしてきた…


「ああ、ドクター朝霧ね。」


「……」


 待て…今…誰の話だ…

 流産?

 紅美が…?


 軽い眩暈。


 紅美が…流産…

 …俺の子供…?


「……」


 俺は少し考えて、足を病棟に向ける。

 そして…


「中庭で倒れた女の子、何号室ですか?」


 ナースステーションで問いかけると。


「…あなたは?」


 年輩の看護婦が、俺をジロジロと見た。


「従兄弟なんです。」


「……」


 メガネをかけなおして、もう一度ジロリ。


「あの角を曲がったところの個室です。511号室。」


「どうも。」


 冷静を装って歩き始める。

 …事実なんだ…

 紅美が…


 廊下の角を曲がると。


「あ…兄貴…」


 空が、ソファーに座っていた。


「…どうなんだ?」


 低い声で問いかけると。


「ど…どうして…?」


 空は立ち上がって、俺の前に立った。


「……」


「…誰から?」


「紅美は…?」


「…兄貴…」


 空は涙ぐみながら。


「まだ…眠ってる…」


 小さく、そう言った。


「…そっか…」


「兄貴…」


「眠ってる間に…入っていいかな。」


 空の目を見てつぶやくと。


「…うん…」


 空は病室のドアを、ゆっくり開けた。


「あ…」


 中には、マキちゃんがいて…俺を見て驚いてる。


「…少しだけでいいから…」


 小さく言うと、マキちゃんは唇をかみしめてうつむいたまま、空に連れられて外に出た。


「……」


 青い顔…

 紅美の頬に、触れる。


「紅美…」


 手を握ると、涙が出てきた。


 愛してる。

 そう言って、何度も抱き合った。

 見かけより、きゃしゃな肩。

 ずっと一緒にいよう…

 そう…


「…っ…」


 俺は、声を殺して泣いた。

 こんな時なのに、手を握って…泣く事しかできない。

 妊娠してるなんて…気付いてやれなかった。


「最近、風邪気味なんだよね。」


 そう言ってたのは…



「…海。」


 ふいに、後ろからわっちゃんの声。


「……」


「…知らん顔…しててやれよ?」


「……」


「こいつ、こんな無理してここに来てまで、おまえに秘密にしようとしたんだからな。」


 わっちゃんの言葉に、胸撃たれる。

 あの憎しみのこもった目も、冷たい言葉も。

 紅美は、全部俺のために…



「…さ。」


 わっちゃんに支えられて、外に出る。

 廊下には、空とマキちゃん。

 それでも、俺の涙は止まらない。


「兄貴…」


「…紅美を…頼む…」


 それだけ言うのが精一杯で。

 しばらく涙は止まることがなかった。

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