4 混沌
信号を通り過ぎてから、それが赤だったのではないかと溝口はふと思った。サイドミラーを見る。赤色の光が遠ざかっていく。限界だ。
ここまで飛ばしてきたおかげで、早朝の締め切り時刻には余裕があった。溝口は産業道路を逸れ、海の方向へ向かった。左右には大きな工場が、夜の海に浮かぶ巨大な軍艦のようにそびえていた。道は海岸線の手前で左にカーブし、そのまま海に寄り添うようにまっすぐに続いている。反対車線にはトラックが多く停車していた。溝口は自分と同じ境遇の人間を見つけた気がして、少しほっとした。
それがいけなかったのかもしれない。また少し
穴はやがて世界そのものを呑み込み始める。もはやそれはただの渦ではない。ただの穴ではない。それは世界の中心であり、末端だった。終着点であり、同時に新しい世界の始まりでもある。このままではいけない。溝口は必死に渦から逃げ出そうとする。しかし、もがけばもがくほど巨大な渦は溝口の影をとらえる。
溺れる。
そう思った次の瞬間、目をくらませる光が視界を覆い、溝口は波に呑まれた。
さほど衝撃はなかったから、気を失ってはいないはずだった。しかし顔を上げた時、溝口は長いこと眠っていたような気がした。頭の奥に殴られたような痺れがある。ラジオからはさっきとは違う曲が流れている。ヘッドライトに写し出される景色に目を凝らすが、特に変わったところはない。平和で、どちらかと言えば少し寂しげな夜の景色があった。
すべてが夢だったのではないか、溝口はそう思いながらトラックを降りた。思いのほか風が冷たく、身震いする。聞こえるのは波の音だけだった。恐る恐るトラックの後ろに回り込む。束の間やっぱり夢だったのだと胸をなでおろしたが、すぐに異変に気づいた。正確に言うと、溝口の目は一つの異変を捉え、同時にその心は一つの違和感に捉えられていた。
目が捉えた異変は明らかだった。幅広の道路と海岸とを隔てる一・五メートルほどのコンクリートの堤防、その足下に人が座り込んでいた。背中をコンクリートの壁に寄りかけ、足をまっすぐに伸ばし、両手をその上に力なく載せ、顔はその手を見つめるように下を向いていた。実際にその目が何を見ているのかは、垂れ下がった髪が邪魔をしてわからない。その様子は、まるで木陰で読書をしながら寝入ってしまったようにも見える。しかし、もちろんそんなはずはなかった。今は夜で、ここは東京湾沿いの道端で、彼女は本なんか持っていなかったし、寝ているわけもなく、おそらく死んでいた。死んでいる? 違う。殺されたのだ。誰に? 俺に、だ。俺が彼女を轢いた。
溝口は彼女に近寄って生死を確認することも、恐ろしくなってその場から逃げだすこともできなかった。手足が冷たくなり、感覚が遠のいていく。目の前が徐々に黒い斑点で覆われていく。体が冷たい。その一方で額から大量の汗が噴き出ているのを感じていた。吐き気がする。立っていられなくなると、地面に張り付いていた足が自然とその呪縛から解かれ、溝口は歩み始める。
どこか座れる場所……違う、そっちじゃない。それ自体が正常に働いているのかどうか判断することもできなくなった思考が警鐘を鳴らす。しかし、歩みは止まらず、気がつけば溝口は彼女の隣に座り込んでいた。すると、それまで彼を襲っていた恐怖が不思議と消え去った。穏やかと言ってもいいような静かな感覚が彼の心に満ちていた。ただ、意識は相変わらず消え入る直前で、波間を漂うブイのように揺れていた。
そうだ、違和感、と溝口は思う。この光景を見た時に覚えた違和感。それが何なのか突き止めなくてはならない。記憶を巻き戻そうとするが、うまくいかない。どれが現実で、どれが夢だったのかがわからない。あるいは全部現実だったのか、全部夢だったのか。やがて記憶は想像と混ざり合い、その他の名前も付けられないような思念と絡み合いながら、深い淵に沈んでいこうとする。彼は必死にその尻尾を掴もうとした。このまま沈んでしまえば、もう二度と浮かんで来ることはない。
薄暗い淵に呑まれゆく自分の思考に手を伸ばしながら、彼はある感覚を思い出した。渦だ。巨大な渦に引きずり込まれる感覚。それは自分自身がつい先ほどまで捉われていた感覚だった。その感覚に襲われながらも、彼は自分が事故を起こしたことに気づいていた。なぜ? 彼は見たのだ。波の合間に、光に照らし出される女の顔と、その横にある赤い塊。あれは何だ? 血? いや、違う。あれは車だ。
その瞬間、彼の意識は急速に薄れ始める。車だ。女は赤い車の脇に立っていた。その車が今はない。それが何を意味するのかは、彼にはわからなかった。
わずかに残った意識の隅で、彼は金木犀の香りを嗅いだ気がした。
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