Safe Journey Home
1 帰るべき場所
男は緊張した面持ちで大きなガラス戸を開けた。管理人に見
「土足厳禁」と書かれた床の前で男は立ち止まり、靴を脱いだ。大きな木箱に山のように入れられた緑色のスリッパを見ながら少し考えたあとで、男は靴下を脱いで裸足になった。靴の中に靴下を押し込み、右手に持つ。スリッパを履くことで、自分がよそ者であることを認識するのが嫌だった。できるだけ忠実にあの頃に戻りたい。男はそう思った。その後で、そもそも自分自身が三十年前と同じではないことを思い出し、自嘲した。
建物には三十年前から手を加えられた形跡はなかった。当時、築間もなかった白亜の校舎には、きっちり三十年分の汚れが染みついていた。
男は一頻り建物を見回したあと、目の前の大階段を上り始めた。当時の記憶を呼び戻すように、一歩一歩力強く踏みしめる。ペタ、ペタ、という幾分間の抜けた音が木霊した。
階段を上りきり扉を開けると、抜けるような夏空がそこにあった。目の眩むような日の光が降り注ぎ、校舎裏の林からは幾重にも重なった蝉の鳴き声が聞こえる。男は目が光に慣れるのを待つだけの時間をあけてから、ゆっくりと足を踏み出した。熱せられた砂利が足の裏を刺した。
柵まで来ると、男は身を乗り出すようにして真下の地面を見た。あの頃はあれほど高いと感じたこの屋上が、今はきっちり三階分の高さしかなかった。だが、現実味のあるその高さは、男に恐怖を抱かせるのに十分だった。歳を取るということは現実を知ることであり、現実を知ることは恐怖を知ることだ。
背後で物音がした気がして、男はゆっくりと振り向く。三メートルほど先で、白いブラウスに紺のスカート姿の女子生徒が立っていた。肩にバッグを掛け、プラスチックのコップに差さったストローをくわえたまま、男を見つめている。男は驚きに言葉を失ったあとで、今度は混乱し、やはり言葉を失った。男が驚いたのは、自分一人だと思っていた屋上に人がいたことにであり、混乱したのは、一瞬、ほんの一瞬だけ、自分が高校生に戻った気がしたからだった。
「おじさん、ここで何してるの?」
女子生徒はもっともな質問を口にした。その単純な質問の意味を理解するのに、外国で自分の乗るべき電車のホームを見つけるのと同じくらいの時間がかかった。その間に彼女は男の横に並ぶ。矢継ぎ早に質問を重ねることもなく、男の正体を
「ちょっと散歩のついでに上ってみたんだ」
もしかすると質問したことすら忘れてしまっているのではないか、と多少心細い気持ちで男は答えた。子どものいない彼にとって、三十歳年下の女性が何を考えているのかは、水槽の中を泳ぐ熱帯魚が何を考えているのかと同じくらい謎だった。自分に娘がいれば彼女くらいの歳になっているのか、と決して初めてではない思考が過ぎる。
「ここの卒業生とか?」
「まぁ、そんなところだ」と男は答え、卒業はしていないけどな、と心の中で注釈した。「君はどうしてここにいる? 今日は日曜だから授業はないだろう?」
「暇なんだ」と彼女は簡潔だが、説得力のある答えを返した。
それからしばらく二人とも無言で街の景色を眺めた。男は最初のうちこそ何か話しかける言葉を考えたが、熱帯魚にかけるべき言葉などわかるはずもなく、すぐに諦めた。きっと彼女も同じなのだろうと勝手に納得する。自分のようなおじさんは、彼女にとっては古代魚なのだろう。彼女がグッピーなら、私はシーラカンスだ。
「おじさんはこの街好き?」
シーラカンスのことを考えていた男の思考は、またもやその唐突な質問に追いつかない。
「え?」
「ずっとこの街に住んでるの?」
「あぁ。若い頃は離れていたこともあるが、人生の半分以上はここで暮らしてる」
「好きなんだ? この街が」
「さぁ、どうかな」と男は言葉を濁す。そして、彼女はどちらの立場で質問をしているのだろうと疑問に思う。
「ここしか居場所がないんだ」
「ふぅん」
彼女は気のなさそうな相槌を打ったきり、また街の片隅に視線を戻した。
この子はなぜここにいるのだろう、と男は不思議に思った。屋上には私たちしかおらず、スペースは存分にある。暇つぶしに街並みを眺めたいのなら、何もこんなおじさんの隣でなくてもいいのだ。あるいは、話し相手がほしいのか。いや、それならなおさら見ず知らずのおじさんである必要はない。そんなことを考えていると、彼女と目が合った。そこで初めて、自分が無遠慮に彼女の顔を見つめていたことに気づき、気まずさを覚える。しかし彼女は気にする様子もなく、ふふふっ、と笑うと、真っ白な歯を見せた。
「何?」と無邪気な笑顔を見せる。
「あ、いや……その、似ているなと思って」
「似てる?」
似てる? 彼自身が、自分の答えに驚く。
「私が? 誰に? あ、わかった。亡くなった奥さんとか?」
「いや、そうじゃない」と男は言う。「結婚はしてないんだ」
「え、そうなの? おじさん、超イケメンなのに」
そう言って、男の顔を覗き込む。肩が触れ合いそうな距離まで彼女は近づいていた。男は年甲斐もなく胸の高鳴りと緊張を覚えたが、次の瞬間に鼻先をかすめた金木犀の香りに胸が締めつけられるような思いがする。次いで訪れたのは目眩だ。
「大丈夫?」
額に手を当てた男に、彼女が尋ねる。
「あぁ、問題ない」
彼女はほっとしたように頷き、また景色に目を戻した。もうほとんど入っていないと思われるコップの中身をストローで吸う音が、止むことのない蝉の鳴き声と不協和音を奏でる。ジー、ズー、ジー、ズー。その音を聞いていると、男は妙に落ち着いた気分になった。
「妹だ」
「え?」
「妹に似ている気がする」
「へぇ、おじさん、妹がいるんだ?」
いたんだ、と心中で独り言つ。
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